「勇気」の価値は アントニオ・タブッキ『供述によると、ペレイラは……』

2019年07月20日 | ちょっとまじめな話
 アントニオタブッキ供述によると、ペレイラは……』を読む。


 「勇気を持つこと」


 これについて、どう教えたらいいのだろうと、ずっと悩んでいる。

 私は独身貴族だが、もし将来子供ができたら、彼ら彼女らが成長過程で当然持つであろう疑問に、どう答えればいいのか考えることがある。
 
 たとえば、なにか決断するとき、「勇気」を持って行動するべきかどうか。

 なんていうと、
 
 
 「そんなことは当然だろ。それともお前は子供に卑怯者とか臆病者になれと教えるのか」


 なんだか、しかられてしまいそうだけど、それでもとぼしい人生経験上でも、


 「《勇気ある者》は実社会ではをしているケースが多い」


 という、イヤ現実を何度も見さされてきたからだ。

 私の周囲でも、「勇気」を持っている人はいた。

 いじめをゆるさない人、差別搾取と戦う人、強者横暴を阻止しようとする人、不正ごまかしを見て見ぬふりをできない人。
 
 世の様々な不公正を、「人生とはそんなもん」とスルーしない人など。

 だが、彼ら彼女らはその「勇気」に対して、評価が不当であることが多いのだ。

 通知表の数字を下げられたり、中傷されたり、を引っ張られたり、左遷されたり、理不尽な謝罪を要求されたり。

 中には彼ら彼女らの「仲間」や「守ろうとした人」からすら、裏切り迷惑そうな顔を向けられたりもしている。

 こっちも一応子供ではないから、「世界は不公平にできている」ことくらいは理解するけど、じゃあその中で「勇気」を持って生きようとすることに、どんなメリットがあるの?


 「まあ、それが大人の社会ってもんじゃん」


 なんて、クールなふりをできればいいんだろうけど、因果なことに私は文化系の読書好きで、映画好きである。

 そして、「物語」というのは、そういう安易な考えをゆるしてくれず、「待たんかい」と襟首をつかんでくる。
 
 アントニオ・タブッキの『供述によると、ペレイラは……』も、そんな作品のひとつなのである。

 舞台は1938年ポルトガル
 
 ドイツイタリアファシスト政権が確固たるものになり、隣国スペインではフランコ将軍が反乱を起こし内戦が勃発している。

 かくいうポルトガルも独裁者アントニオサラザールが君臨し、思想言論への締め付けが強化されている。
 
 そんな息苦しさにつつまれたヨーロッパで、この物語は幕を開ける。

 主人公は小さな新聞『リシュボア』の記者ペレイラ

 もとは別の新聞の社会部で働いていたのだが、今は文芸担当。
 
 太っていて心臓が弱く、養生をすすめられているが、好物である砂糖たっぷりのレモネードと香草入りオムレツはやめられない。

 日々の仕事を淡々とこなすけど、さして勤勉というわけでもなく、事なかれ主義的であり、なにかあれば家で亡きの写真に話しかける。

 特に悪い人間でもないが、格別すぐれたところがあるわけでもない。いわば我々と同じ、「よくいる小市民」なのである。

 そんな彼は、経済的に困窮し、新聞社に原稿を売りこみに来たモンテイロロッシという青年と出会うことから、少しずつ人生のレールが軋み始める。

 ファシズム批判するような原稿を書くモンテイロ・ロッシに対して、当初は困ったような反応をしていたペレイラだが、なし崩し的に彼に協力していくことになる。

 理由はわからない。青年の志に共感したのか、また作中で何度も「子供がいない」と語られるところなどから、自分の息子のように肩入れしてしまったかのか。
 
 そこはハッキリとは書かれないが、主義主張というよりは惚れた女利用される形で、しかも書いてきた原稿は彼女の請け売りという、決して有能とは言えなさそうな彼のため、天をあおぎ、ボヤキながらも、ペレイラはどんどん深みにはまっていく。

 そうして気がつけば、すっかり権力側から「要注意人物」とマークされ、様々な困難に直面する羽目になってしまうのだ。

 何度も引き返すチャンスはあったはずなのに、いつの間にかペレイラは、望んでいなかった政治的トラブルに肩までつかることに。
 
 そして最後に「凡人」であったはずの彼が取った行動とは……。

 タイトルがすでに、ある意味「ネタバレ」(解釈は色々あろうけど)になっているため、中盤からクライマックスにかけて、カタストロフへの疾走感にはフルえがくる。
 
 彼はなぜ、危険な物件であるモンテイロ・ロッシの原稿を破棄せず、せっせとアルフォンスドーデーなどフランス小説を訳すのか。

 「批判的精神」を失い、「愛国的でない」物語を紹介するペレイラを怒鳴りつける『リシュボア』の部長

 嬉々として卑劣なスパイ活動にいそしむ、管理人のセレステ
 
 インテリで弁は立つが、悪くなる時代に対して何もする気がないシルヴァ

 そして、ナチスの「突撃隊」のように、権力側にいることを本人自身が偉くなったとカン違いして、無辜の市民に暴力をふるう「ちんぴら」たち。

 彼らの横暴諦観がペレイラをして、作中の様々な行動に走らしめるのだが、「英雄でない」彼が、なぜ赤の他人のため、そんなことになってしまったのか。

 そう問われたら、作中の言葉を借りればペレイラの「たましい」ゆえのことである、としか答えられない。

 彼はなんてことのない人間である。それが、ある決断をすることによって「供述」を取られる立場に追いこまれたのだ。
 
 それをタブッキは淡々と、それでいて熱く語り続け、問う。

 「あなたなら、どうする」と。

 ここで私は思うのだ。

 果たして「勇気」の対価とは?

 なにかが起こったとき「たましい」を守るための行動に出られるか。そして、「その結果」を受け入れられるか。

 将棋のプロ棋士である先崎学九段は、若手時代に苦労がなかなか報われなかったとき、軽く「やめちゃおっかなあ」と思うことがあったという。

 それは棋士という職業をということではなく、


 「将棋に勝つことが喜びである」


 という考え方をやめてしまおうかということ。本人が和文和訳するところの、「精神的な自殺」だ。

 続けて先チャンはこう書いた。


 「不純な気持ちに折り合いをつけるのは、不純に考えると楽だが、純情に考え出すと、えらくややこしくなることがある。そうして僕は、ややこしく悩むのである」。

 
 自分も、ときおり、そう考えることがある。
 
 やめちゃおうかなあ、と。
 
 私はもともと「勇気」なんか持ってない人間だ。だから今さら、そのことをなんとも思いはしない。でも、
 
 
 「勇気を持って生き、《たましい》を守るために戦うことをあきらめない人を尊敬する心」


 この想いから、どうしても抜け出られないのだ。
 
 世の中のことをわかっている「大人」のフリをして、「そういうもんだよ」と肩をすくめて、ペレイラのことを「バカじゃん」と決めつけてさえいれば、きっと今より楽しく生きられるのはわかっている。

 実際、そうしている人もいるし、私も若いころはそうしようと、ニヒルを気取ってやってみたこともある。
 
 だって、オレには「勇気」がないのに、その人のことを勝手に尊敬したり「感動」したりするのは、ただ「尻馬に乗っている」だけではないのか?
 
 自分以外のだれかが頑張っているのを見て、「共感」して「仲間だ」と認定するなど、安全圏から他人前線に送り出すだけの、卑劣な行為ではないのか?

 嗚呼、なんて青臭いんだ。ワシャ高校生か。
 
 まったく、先チャンの言う通りだ。そうして私もまた、今日もややこしく悩むのである。
 
 すばらしい作品にめぐり合えた幸運に感謝しつつ、アントニオがこんな小説を書きさえしなければ、オレがこうして煩悶しなくてすむのになあ、とかブツブツつぶやきながら。




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