将棋の世界には「クソねばり」という言葉がある。
形勢が不利になると、逆転をねらって「ねばる」というのは、当たり前の行為だが、中には
「もうムリっしょ」「早く投げろよ」
という声が多勢をしめるような局面にもかかわらず、それでも根性(もしくは投げきれなくて)で指し続ける場合がある。
こういうのを、少々下品な言葉だが「クソねばり」というのだ。
前回は強靭な受けを誇る木村一基九段によるタイトル戦での熱戦を紹介したが(→こちら)、今回は佐藤康光九段の同じ受けでも「クソねばり」なそれを。
1999年、第57期名人戦。
佐藤康光名人と谷川浩司九段の7番勝負は佐藤の開幕2連勝の後、谷川が逆襲で3連勝し、名人復位に王手をかけて第6局へ。
後手の谷川が、シリーズ2度目の四間飛車を選ぶと、負けたらお終いの佐藤は4枚穴熊にもぐって果敢に攻めかかる。
「固めてドッカン」の穴熊流特攻を、谷川もきわどいところでしのいで、形勢は佐藤有利だが、いい勝負にも見える。
とにかく佐藤の剛腕と、水際で持ちこたえながら、そのスキを見て穴熊を巧妙に削っていく谷川のワザ。
これぞ勝負将棋と見所満載で、ぜひ盤に並べて堪能していただきたい一局だ。
むかえた最終盤。
双方の玉形が、いかにもな熱戦を感じさせるが、この△66歩と突いたのが好手。
さりげない手に見えて、上部脱出を見せながら、△77歩成、▲同玉に△65桂からの詰めろになっている。
解説の塚田泰明八段によると、ここで▲56金と打って上部を厚くしておけば、これが詰めろのがれの詰めろで、難解ながら先手が勝ちだった。
佐藤は最後の1分をここで使って▲63銀打と詰ましに行くが、これが秒に追われ、あせった手。
△同銀、▲同銀不成に△65玉と泳ぎ出し、▲66歩、△同玉、▲67歩、△57玉。
ぬるぬる逃げて、なんだかアヤシイ雰囲気である。
ここで気持ちを切り替えて▲69桂と打ち、△48玉に▲78飛と王手して、手順に▲77の地点を守ってから▲71成桂と取っておけば、まだ佐藤が勝ちだった。
しかし秒読みの中、佐藤名人はブレーキを踏めず▲68銀と打って、△同玉に▲78飛と深追い。
△59玉に▲52竜が、ふつうならピッタリなのだが、△55歩と中段で止められてしまう。
どこで佐藤に錯覚があったかはわからないが、これで詰みはないことはハッキリした。
以下、▲58金、△49玉、▲48金打。
必死で追うも、△39玉、▲79飛、△49金、▲同金、△同と、まで、どうやら結末が見えてきたようだ。
形勢は大差である。
後手玉は入玉を果たし、先手は△77銀からの詰めろで、受けても一手一手の形。
ここで「次の一手アンケート」を取ったらどうなるだろう。
おそらくは、まあまあの数の人が「投了」をクリックするのではあるまいか。
実際、見ていただれもが、ここで投げると思ったそうだ。今見て、私だってそう思う。
それで谷川名人誕生だ。
そもそも投げないとしても、ここで先手に指す手が、まったくないではないか。
実際、佐藤康光本人すら、
「100回やったら、1回か2回しか勝てない局面」
そう認める必敗形。
ところが佐藤は投げなかった。後年、
「今見直しても、やはり投げないと思う」
と語った佐藤は、ここでもう1手、まさに「クソねばり」の見本のような手を指す。
それは決して、好手でも妙手でもない。
ただ、「投げなかった」というだけの手だが、それがこの期の名人戦を左右する、とんでもないドラマを生み出すことになるのだから、勝利の女神というのは実に気まぐれで、また不条理なものである。
(続く→こちら)