前回(→こちら)の続き。
「承認欲求の強い人は、常にそれを求めて安定しにくいから、幸福になりにくい」
という説に対して、承認欲求の低い私は「そんなもんかねえ」と思うくらいだが、ときにそのことを肌で感じさせられることもある。
それが2014年度と2019年度のウィンブルドン決勝を観戦したときのこと。
まずは2014年の話をしよう。
ファイナルに勝ち上がってきたのは、当時押しも押されぬ世界ナンバーワンだったノバク・ジョコビッチと、元王者のロジャー・フェデラー。
テニス界を席巻する「ビッグ4」の一員同士の対決は、フルセットにもつれこむ激闘となったが、最後は第1シードのジョコビッチが2011年に続く2度目の優勝を飾った。
両者ともすばらしいテニスを披露し、その年のベストマッチといっていい内容だったが、プレー以上に忘れられないのが、勝者よりも敗れたロジャー・フェデラーの姿だ。
最大のライバルを倒し、歓喜の表情を見せるノバクと対照的に、ロジャーの方はこれ以上ないくらい打ちひしがれていた。
芝を口にふくむパフォーマンスを見せながら、家族やスタッフと抱き合ってよろこびを分かち合う優勝者。
その陰で、敗者はどす黒い顔をしてベンチに座りこみ、呆然としていた。
その表情は今にも泣きだしそうで、苦しそうに目や口元をゆがめながら、すがるようにファミリーボックスに視線を送る。
その先にいたのは、彼を常に支える奥さんのミルカさんの姿。
ミルカさんはフェデラー家のシンボルともいえる双子ちゃんを両手に抱いて、
「アカン、お父ちゃん、泣いたらアカン。アンタはチャンピオンなんや、無敵の王者ロジャー・フェデラーなんやで。そんな男が、負けたからいうて、くずれたらいかんのや。ほら、立ち上がって、堂々と胸張ってふるまうんやで!」
なんて、言葉はわからないけど、おそらくはこんなことを言ってはげまそうとしていた空気は伝わってきて、でも実際のところは、負けた人間にかけるべきなぐさめなどないのだろう、
「わかってる、わかってるねん。でも無理や。ここまでがんばって優勝やないなんて悲しすぎる。ミルカ、ごめん、もうオレここで乙女のように泣いてまうわ!」
頭をかかえて、うなだれるロジャー・フェデラー。その様相はほとんど、
「もうすぐ世界が終わることを予知してしまった人」
にしか見えず、なにかもう、すごいことになってるなあと、いっそ息苦しい思いにすらさせられたものだ。
ここでつくづく感じさせられたのが、
「達成感や承認欲求のおそろしさ」
これなんである。
ロジャーの打ちひしがれる姿にザワザワさせられたのは、単に彼が大勝負に敗れたからだけではない。
そりゃたしかに、ウィンブルドンの決勝戦で負けるのはつらかろう。
1年かけて調整して、タフな戦いを6つクリアして、最後の最後にファイナルセットまでもつれこんだ末、栄冠を逃したとあっては、その脱力感はすさまじいものかもしれない。
けどだ、テニスファンならご承知のことだろうが、彼はこの時点で17個のグランドスラムタイトルを獲得しているのだ(今は20個に増えている)。
ことがウィンブルドンにかぎったとしても、2003年から5連覇。
さらに2009年と2012年に優勝し、すでに7個のカップを保持しているのである。
そんなテニス界のすべてを手に入れた男が、今さらここで8個目の優勝カップを取りそこなったからと言って、
「え? 今ここで子供が車に轢かれたん?」
というくらいの苦しみを味あわなければならない理由が、果たしてあるのだろうか。
このときつくづく、「ハングリー精神」って諸刃の剣だと思い知らされた。
いうまでもなく、ロジャー・フェデラーが一時期のスランプを乗り越え、全盛期を過ぎても安定して上位をキープするどころか、2017年度に「王の帰還」を果たしたのは、まさにこの
「負けることの悔しさ」
を持ち続けていることが一因だろう。
だがそれは同時に、どれだけのものを、それこそテニス史上最高でこれ以上は積みあがらないというほどに名誉や優勝カップを手に入れても、やはり敗北の痛みは「持たざる者」だったことから減ることはないということでもあるのだ。
もし彼が「満腹」だったら、2012年のウィンブルドン優勝でそのキャリアの幕を閉じるという選択もあったろう。
それはそれで、十分以上に充実したテニス人生だったと思う。
だが、ロジャー・フェデラーはそれを選ばなかった。
そして見事、ナンバーワンに返り咲いたが、同時にそれは減ることのない「敗北の痛み」を受け入れたうえでのものなのだ。
ハングリーたることは幸せを手に入れるための大きな武器だが、その分、それを手に入れる瞬間以外の結果と過程は、ただただ修羅の道。
なんと大変なことなのか。そのことをこれでもかと感じさせられて、なんだかグッタリしてしまったのだ。
そして、2019年度のウィンブルドン決勝で、またも歴史に残る激戦の末、ロジャー・フェデラーはノバク・ジョコビッチに敗れた。
まさに、あのときの再現で、準優勝のプレートを持つロジャーの顔はどす黒く、露骨にひきつっていたのまで同じだった。
昨日、録画しておいたロジャー・フェデラーの準優勝スピーチを聴きながら、
「幸せって、なんだろう」
なんて、あのときガラにもないことをボンヤリ考えたことを、なんだか思い出してしまったのだった。