「天才ですね、さすが」
そんな感嘆の声を上げたのは、解説を担当した先崎学八段だった。
3月10日に放送されたNHK杯将棋トーナメント準決勝、羽生善治三冠と郷田真隆棋王との一戦。
タイトルホルダー同士であり、また同世代のライバルでもあるこの対決は、後手番羽生のゴキゲン中飛車で幕を開けた。
郷田が序盤で少しリードをうばうが、羽生も「らしい」寝技でもたれかかり容易にははなされない。
おたがいが技をかけ合うのを、手前一瞬で見切って、かわし合う中盤戦。
いい手がありそうだが、そのどれもが相手の張った罠のようにも見えるという、いかにも難解なねじりあいだ。
△64歩の瞬間に▲33成銀と引く、きわどい攻防。以下、△35飛に▲48金と難しいやり取りが続く。
わずかなリードを守る郷田と、手順をつくしてチャンスを待つ羽生。
勝負はギリギリの最終盤に突入したが、局面はパッと見、郷田が優勢に見える。
いい寄せ方があれば、そのまま勝ちそうだ。
嗚呼、とうとう羽生が負けるのか。
そんな感慨を抱いたのは、羽生がここまでNHK杯を4連覇中で、今大会も連勝継続し、ここまで23連勝。
驚異の5連覇まで、あと2つとせまっていたからだ。
王者羽生善治には、七冠独占や王座戦19連覇など、相当に破られないであろう大記録が数あるが、このNHK杯4年連続、合計10回優勝というのも、まためまいがするような、とんでもない記録。
だが、記録はいつかは途切れるのが世の習いで、その瞬間が近づきつつある。
大記録も、ここで終わりかあ。まあ、郷田も強いからなあ。
こういうときって、大差で案外あっさり終わってしまうのと、ギリギリのねじりあいで力を出し切ったけど競り負けたのとでは、どっちのほうが悔しいんだろう。
なんて考えているときに指された、郷田の▲53桂成という手が、決め手に見えて危ない一着だった。
もう少し安全に勝つ方法もあったようだが、この桂捨てがいかにも筋のいい手であり、本格派の郷田が、そこに惹かれてしまったのは不運だった。
この手は疑問手で、羽生の最後の踏みこみが効くこととなり、形勢は急接近。
いや、もしかしたら逆転したのかもしれない。
ここからが、これまでも見所たっぷりだった本局の白眉である。
たった一手で、攻守ところを変えたこの場面。
もはや羽生は郷田玉を詰ますしか、道は残されてない。
詰みがあれば羽生勝ち、なければ郷田勝ち。
サッカーでいえば、ロスタイムの最後の最後にもらったフリーキックのようなもん。
入るか入らないか。正義はそこで決まる。
あまりにもおもしろいこの場面、私はテレビの前ですわりなおす。解説の先崎八段が、
「竜切って、銀打って、桂が2枚あるからピッタリ詰みですね」
この日の私は冴えていた。
詰将棋は苦手なんだけど、ヒントのおかげで、一瞬にして詰みが見えた。
△58竜、▲同金に△69銀から入って、▲同玉に、△79金、▲59玉に△67桂と打つ。
▲同金は△37角、▲49玉、△48角成まで。
桂打ちに▲49玉と逃げるのは、△27から角を打って、▲38合に△37桂で吊るす。
なるほど、見事にしとめている。
問題は銀を打ったとき、取らずに逃げたとき。
詰みそうに見えるが、詰まなさそうにも見える。
じゃあ、詰めろ逃れの詰めろか、非常手段として、△85桂、▲86玉、△74桂、▲75玉、△66馬、▲64玉に△63金
とかいう手順で、ムリヤリ竜をはずすみたいな、王手しながら相手の要の駒を全部取ってしまうという玉頭戦の手筋でなんとかなるか。
羽生は銀ではなく、△69角から入った。
郷田は▲77玉の上部脱出に、最後の望みをかける。
局面の切迫感もものすごいが、このとき画面に映されていた羽生、郷田、両君の表情の移り変わりも見物だった。
最後の追いこみの中、盤上をにらみつけ、死にものぐるいで詰み筋を探す羽生。
それを受けて、絶望と後悔に打ちひしがれ、身も世もなく両手で顔をおおいながらも、かすかに残された細い希望の糸に、すがりつこうと気力をふりしぼる郷田。
すごいなあ。この戦う者同士の、むき出しの姿が勝負の醍醐味ではないか。
上品ではないが、先崎流の表現を借りれば、まったく男のイチモツがふるえる両雄の姿だ。
この最後の競り合いを制したのは羽生だった。
明快な詰みが見えない中で放たれた、△86銀というのが絶妙手で、なんと郷田玉はピッタリとつかまっている。
この一手こそは、まさに盲点の一着。
将棋を知らない人に、どうすごいのか解説するのは難しいが、将棋の寄せには
「金銀を最後の残す」
という鉄則があり、そこは当然、△85桂と王手するはずと思えたことろに、先に銀を打ったのがすごいのだ。
▲86同玉に、△74桂と打って、▲75玉に△66馬、▲64玉。
そうして、銀打ちで温存できた最後の桂で△72桂と打って、これでしとめる。
▲54玉に△44金で、馬の利きがあるから、ピッタリ詰み。
まさに、あらゆる先入観を排除した先にある手を見つけだすのが、得意といわれる羽生の、面目躍如たる一手であった。
そこで先崎八段の冒頭の言葉になるわけだ。
この△86銀自体は、手筋としてある形である。
相手の逃げ道に駒を捨てるというのは、詰将棋ではよく見るものだ。
いやそもそも、この詰みも、もし詰将棋の問題として出されたなら有段者の棋力があれば、だいたいが解けるであろう。
だがそれを、答えのある詰将棋とちがって、詰むかどうかはわからず、1手30秒という秒読みに追われて、しかも、郷田の疑問手による急展開の局面で、頭の切り替えが難しいにも関わらずという。
これだけの限定条件をつけられた上で、見事に正解を出したところがすごすぎるのだ。
秒に追われて、震える手で放たれたことによって、盤上の銀は横に小さくゆがんでいた。
そのことが、この手にこめられたギリギリの状況を、如実に物語っていた。
聞き手の矢内理絵子さんも「鳥肌が立ちましたね」と述懐したが、いやはや本当にそうです。
まさに、トッププロ同士のド迫力の将棋だった。
NHK杯では、あの歴史的大逆転である中川大輔八段戦(加藤一二三九段の奇声によってYoutubeでも話題になった)以来の、「すごい羽生」を見た気がする。
いやー、ええもん見せてもらいましたわ。
■おまけ Youtubeにあがっていた羽生-郷田戦の動画はコチラ
□郷田の見せた名手は→こちらから
この将棋はYouTubeに動画があがってたり、AbemaTVで再放送してたりと人気ですね。
私も見直しましたが、結果を知っていてもおもしろい!
もし文章のテンポを良く感じていただけたなら、きっと将棋自体の内容がすばらしいものだったからでしょうね。