「勝ったと思ったときが危ない」
というのは、将棋を観戦していて、解説者などからよく聞くセリフである。
私など子供のころは、
「勝ったと思うということは、現実に【勝ってる】わけだから、別に危なくなくね?」
単純にそう思っていたが、いざ自分が指してみたりすると、「勝ったかも」と邪念が入った瞬間に気がゆるんだり、緊張したりして、おかしくなってしまう。
時間はあるのに、なぜか手拍子で指しそうになり、欲が出たせいでフルえて手が伸びなかったりと、ロクなことがない。
でもこれは、自分のような素人だからなんだろうなあ、と感じていたわけだが、いろいろと将棋の本などを読んでいると、そういうことでもないらしい。
かつて鈴木大介九段は、
強い人は勝つまでよろこばず、負けるまで悲観しない。
弱い人は勝つ前によろこんで、負ける前に悲観する。
僕は勝つ前によろこんじゃう。
「勝つ前によろこんで」散々辛酸をなめたであろう鈴木九段でも、自虐をふくめて戒めなければならない。
A級棋士で、タイトル挑戦2回に、NHK杯優勝経験もあるダイチ君でもこうなのだから、そりゃ私なんかがゆるんだり、ブルブルになるのも当たり前だろう。
ましてや対局前から「勝てる」と確信していては、思わぬ落とし穴が待っていることになる。
前回は、伊藤沙恵と里見香奈の入玉型の激戦を紹介したが(→こちら)、今回はそういう、痛恨の「油断」について。
1986年の第44期A級順位戦は、かつてないほどの大盛り上がりを見せた戦いだった。
その主役は2人いて、ひとりは大山康晴十五世名人。
通算1433勝。名人18期をふくむ、タイトル獲得80期。
棋戦優勝44回。永世名人、永世十段、永世王位、永世棋聖、永世王将の称号も持つスーパーレジェンド大山も、すでに63歳でキャリアの晩年も晩年である。
それでも、なにげにA級をキープしているのがすごいが、この年の順位戦は苦戦が予想されていた。
というのも、1984年2月にNHK杯で優勝するも(60歳越えてます!)同年5月にガンが発覚。
すぐ入院し、手術を受けることになったが、翌年の第43期順位戦は休場を余儀なくされる。
その翌年に復帰するも、体調面での不安は当然あるだろうし、休場のせいで「張り出し」と順位も最下位。
これでは復活どころか、ふつうに「降級候補」だったわけで、
「A級から落ちたら引退する」
と公言していた大山にとって、それは人生の、いや将棋界全体の一大事であった。
そんな波乱を含んでいたせいか、この期のA級は史上まれな激戦になる。
挑戦権はもとより、3名の降級(前期休場していた大山の参加で『11人いる!』になっていたため)もだれも決まらず。
私は星取の計算が苦手なのだが、なんと途中まで「全員5勝5敗」で並ぶ可能性もあったという。
そうなると、前代未聞の「11人プレーオフ」になる。
パラマス方式だから、順位下位のふたりは全員ぶっこ抜きの「10連勝」が必要になり、指し分けは落ちない規定だから、「降級者ゼロ」で、「来期の降級が5人」になるそうな。
さすがにそうはならないが、それでも結果を見れば、6勝4敗が3人、5勝5敗が5人、4勝6敗が3人。
森安秀光八段、勝浦修九段、青野照市八段の3人が4勝しながら落ちてしまったのだから、いかにきわどい争いだったか、うかがいしれるところだ。
ここでもうひとりの主役になるのが、米長邦雄十段(今の竜王)・棋聖。
米長は1984年、十段・棋聖・王将・王位の四冠王になり、
「世界一将棋の強い男」
としてブイブイ言わしていたが、そこをピークに絶不調におちいってしまう。
タイトルを次々と奪われただけでなく、順位戦でも1勝4敗という、キャリアで初めてともいえる低空飛行を披露。
挑戦どころか、これでは降級一直線の星。
このころの米長は相当に落ちこんでいたそうだが、そこから歯を食いしばって高度を上げていく。
転機となったのが、6戦目の有吉道夫九段戦で、この将棋も中盤にド必敗になる低調ぶり。
図は米長が▲56桂と打ったところで、ここでは後手の有吉がハッキリ優勢。
A級陥落の影におびえる米長は、目の前が真っ暗になっていたろうが、ここで有吉に逸機が出る。
△56同飛と決めに出たのが疑問で、▲同銀、△79と、▲29飛、△66金、▲57歩、△55歩。
まさに「火の玉流」の猛攻で、▲47銀なら△65桂で寄りだが、▲同銀(!)と取る強手があった。
以下、△同角に▲41銀と打ち返して、ここで攻守所を変えることに。
ここから勢いにのって、米長が逆転を決めるのだが、では有吉はどうすべきだったのか。
△56同飛では、△53金と取る好手があった。
▲同桂成は△同角。
▲44桂は△同金で、どちらも桂のコンビネーションをいなす形で、駒をさばいて調子がいい。
▲44桂、△同金に▲77角という手はあるが、これには△55桂という反撃や、△79と、▲44角、△33金打と受けておく手でも、問題なく有吉が必勝だった。
まさしく、執念の勝利をもぎ取った米長は、ここから一気に加速。
連勝モードに入り、最終戦ではなんと名人挑戦の目があるほどに、まくり返すことになるのだ。
もしあそこで、有吉に順当負けしてたら……。
本人のみならず、周囲のファンも、さぞやゾッとしたことだろう。
一方の大山はと言えば、なんとこちらは前半から好調に飛ばしていく。
病み上がりの心配もなんのそので、ラス前まで6勝3敗と自力で挑戦権獲得の目もあったのだから、その回復力たるやおそるべしだ。
最終戦で谷川浩司棋王に敗れたものの、同星だった加藤一二三九段も二上達也九段に敗れ、米長もくわえて、これで3者とも6勝4敗でゴール。
降級、挑戦権、どちらも大盛り上がりだった順位戦は、舞台をプレーオフに移すことになるのだった。
(続く→こちら)