前回(→こちら)の続き。
羽生善治王位と深浦康市八段で争われた、2007年の第48期王位戦。
最終局も、いよいよ大詰めをむかえた。
先手玉は詰めろで、後手玉に詰みはないこの局面。
ここで残り時間21分から、19分を投入し、ギリギリのところで深浦が指したのが、目をみはる一撃だった。
▲77桂と跳んだのが、根性の男、深浦康市が見せた乾坤一擲の勝負手。
意味としては角道をとめつつ、後手玉が△53の地点に逃げたときに、▲65桂と竜をはずしながら、王手でせまる筋ができたということだ。
じゃあ問題なのは、この▲77桂が詰めろになっているのか。
なっているなら、先手が勝てそう。
深浦の自戦記によると、ここではもともと▲77歩と指すつもりで、△76桂と詰めろをかけても、▲62金、△同角に▲61竜から詰まして勝ちと読んでいた。
ところがこの順は▲61竜に△82玉、▲62竜、△72銀、▲71角、△81玉、▲72竜、△同玉、▲62金、△81玉、▲82銀、△92玉。
ここで▲93銀成までピッタリ詰みかと思いきや、なんと△93の地点には△66から角の利きがあるではないか!
最終盤でのまさかの読み抜けで、深浦は「天国を夢見、地獄へ落され」と自身でも語る転落劇に動揺するも、秒読みにせかされて桂を跳ねた。
ここではまだ、後手玉が詰めろになっているかどうか読み切れていなかったそうだが、羽生の7分の考慮中になんとこれが「詰めろ逃れの詰めろ」という必殺手であることを理解する。
そうなると、あとは羽生がどう対処するかだが、詰みなしと見たのだろう、△69銀不成と取ったが、これが敗着になった。
▲62金打として、△同角、▲同金、△同玉に▲53角と打って後手玉は詰んでいる。
以下、△同玉、▲65桂、△同桂、▲51竜まで、羽生が投了。
これで、深浦新王位が誕生することとなった。
フルセットを戦って、最後も大熱戦の中、すばらしい妙手を指して、しかも羽生からタイトルを奪ったのだから、深浦も最高の気分だったろう。
……と思いきや、実はこの将棋には、もうひとつドラマがかくされていた。
結果はもう出てしまったが、そうなると気になるのは、△69銀不成が敗着なら、他の手はどうなの?
実際のところ、羽生は自玉の一手スキが見えてなかった(本人は明言しないが、気づいていたら時間がなくなるまで返し技を考えたはずだ)、いわば、なかば「トン死」のような負け方をしたのだから、もしそれに気づいていたら、いい手があったのでは?
答えは「あった」だ。
なんとあの局面、▲77桂と跳んで勝ちのようで、本当はそうではなかった。
▲77桂には、やはり後手から△76桂と打つクロスカウンターがあった。
この銀桂香の壁を、あざやかに飛び越える桂馬のベリーロールが、先手玉に対する詰めろになっている。
と同時に、▲78に設置された、香の利きをさえぎっているのがポイント。
こうなっていると、先手が王手ラッシュをかけたときに、上部脱出の押さえ駒がないから詰まないのだ。
一例をあげれば、本譜と同じように、▲53角まで進んだとして、以下△同玉、▲65桂、△同桂、▲51竜で、投了せずに△52歩と合駒する。
▲54飛、△63玉、▲52飛行成、△73玉、▲71竜、△84玉の局面。
もし、△76の桂がいなければ、▲74竜でピッタリ詰んでいるが、香の利きが止まっているため、先手はこれ以上の手がない。
つまり、▲77桂が「詰めろのがれの詰めろ」の絶妙手だとしたら、続く△76桂はそれを上回る、
「詰めろのがれの詰めろのがれの詰めろ」
という、劇的すぎるトリプルクロスカウンターなのだ!
このあたりは、いろんな変化があってややこしいが、たしかに△76桂だと、後手玉が二枚飛車で追いかけまわされても、スルスル抜けてつかまらない。
なんという手が、あったものか。
幻に終わった逆転劇だが、もし△76桂が指されていたら、深浦康市はどうなっていただろう。
彼ほどの男だから、仮にここで負けても、いつかはタイトルを取ったろう。
……と口ではだれでも言えるだろうけど、本当のところそれは、そんな簡単なことではないのは、多少将棋の世界を知っているものなら、わかることだ。
この結果が逆だったら、もしかしたら今ごろ
「なぜ深浦ほどの男が、まだ無冠なのか」
と議論されていたかもしれず、まさにギリギリの栄冠だったのだ。
(久保利明のねばり強さ編に続く→こちら)