ニコルソン・ベイカー『ノリーのおわらない物語』を読む。
著者の娘であるアリスが送り迎えの車の中で、パパに報告する学校での出来事などを元に書かれたお話。
ニコルソン・ベイカーは子供を語り手にした本の多くを、こう評している。
「大人の発想で作られた声で書かれていて、人工的すぎて私には受け入れがたかった」。
『ノリ―』にかぎらず、すぐれた児童文学は、子供の「詩人」の部分と「散文家」の部分が、うまくミックスされている。エレノア風の言い方をまねてみるなら、絶妙に「こんぜんがったい」しているものだ。
子供はときに詩人である。
「子供の想像力は豊か」と言われるのは、「論理力」や「経験則」「語彙」が足りず、それゆえ出てくるものが、大人の思いもよらなかったりするものだから。
それがおもしろいんだけど、そこばかりを持ち上げすぎるとニコルソンの言うように「人工的」であり、ただ甘いだけのお菓子のように、つまらないものになってしまうのだろう。
そもそも、子供は散文家でもある。
いかに見た目はかわいくとも、子供が生きているのは現実の世界。学校をはじめとして、さまざまなしがらみが、そこには存在する。
授業があって、宿題があって、子供なりに複雑な人間関係もあって(そう、ノリ―がパメラとキラの板わさびになるように)、なかなか大変なのだ。
しかも、子供はその立場上、行動がいちじるしく制限されている。
人間関係は家族と学校にほぼ限定され、経済力もなければ、選挙権も、移動の自由もない。
酒も飲めず、煙草も吸えず、ドラッグもやれず(これは大人でもダメだ)、ネットの使用も制限つきで、親や先生の抑圧からも逃げられない。
経験や大人の知恵にも頼れない。圧倒的に「持ち札」が少ないのだ。
だから、子供は徹底的にリアリストである。
だれに好かれるべきか、どの友だちを選ぶべきか、いじめの標的にされたら? 転校することになったら?
秘密はどこまで共有すべき? いざというとき、パパとママのどっちにつく?
少ない選択肢でやりくりしなければならぬ。ガキだからって気楽じゃない。
地に足つけてないと「楽しい子供時代」は送れない。人生はニベアだ。
子供が「詩人」であることは、一部「善良な大人」にとっては「かわいい」かったり「望ましい」ことかもしれない。
その一方で、彼ら彼女らが詩人にならざるをえないのは、われわれ大人のマウンティングからの逃避というか、
「想像力という名のレジタンス」
かもしれないことは、心のどこかに置いておくべきだろう。
そんな「ポエット兼リアリスト」である子供が本領を発揮するのは、その両者の歯車が「うまくまわらないとき」にこそある。
このあたりのことは、私の下手な論を待つより、実際に読んでもらった方が早いだろう。
たとえば、ノリ―が弟と物語の語りっこをして遊んでいると、こんなのが出てくる。
一番めのお話は「ブルドーザー」というのだった。むかしむかし電車がいました。電車はせんろを走っていました。そしたら、むこうからディーゼル車が来て、二台はしょうめんしょうとつしました。がっしゃん! 二人ともバラバラになった。シュシュポポもこわれたし、車りんもこわれたし、せんろもこわれた。でも工場に行って、なおしてもらって、ペンキもぬって、それから駅に行ったら人がいっぱいのってきて、それでまたしっぱつしました。おわり。
オチのミもフタもないところが、ナイス散文家だ。
また、「自分を主人公にした物語を書く」という宿題には、フランシス・ホジソン・バーネットの『小公女』にあこがれて、
「はきはきとして、かしこそうで、おおむね物静かなものごしでした」
そう自己紹介しようとするも、それは盛りすぎと感じたか、
「おおむね物静かなものごしで、とても物静かで、そのうえ神ぴ的でした。正確には神ぴ的とはすこしちがうけど、神ぴ的のことばの意味をすこし弱めるか、『小公女』のあの場面のところをちょっと強めるかした感じの、おおむね神ぴ的な感じの女の子でした」
この急ブレーキ感がすばらしい。何度読んでも爆笑必至の名文。
車の中でニコルソンが「それいただき!」と、うれしそうにメモを取る姿が目に浮かびますよ、ホント。
そんな9歳のノリ―がときに妄想をふくらまし、ときに現実のしがらみに振り回されて奮闘する本書は、子供の「発展途上」な楽しさが満載で、読んでいる間ずっと幸せになれる。
ただ、本書を読んで、
「こんなかわいい物語を思いつく作者の本を、もっと読んでみたい!」
と目をハートにしている方は要注意。
ニコルソンの他の小説といえば、テレフォンセックスの会話劇とか、エスカレーターで自分の買い物袋の中身などについて延々マニアックな考察をするサラリーマンの話とか。
あとは、時間を止めて女性を脱がす男の話とか、そんなんばっか。
で、どっちかっていうと、そういう話の方がメインの人です。読んでズッコケないようにしましょう。