正月といえば思い出すのが、髑髏と一休さんである。
『一休さん』といえば、利発な小坊主である一休さんが、大人をナメた屁理……「とんち」を駆使し、室町時代の京の都で大活躍するアニメだ。
そんな痛快な物語であるはずの『一休さん』だが、ときに妙に暗い話が挿入されることがあり、それが正月を題材にしたこんなエピソード。
戦争のせいで、その年の京都は難民であふれかえっていた。
住むところもなく、飢えに苦しむ彼らだが、追い打ちをかけるように悪い侍たちがあらわれ、都から追い出されそうになる。
そもそも、戦争をはじめたのが侍たちだというのに、さらに被害者である難民を迫害するとは何事か!
義憤に燃える一休さんの耳に、さらなるひどい話が届く。
なんと、あの桔梗屋さんが、いくさに乗じてもうけようと、京都中の米を買い占めているらしい。
それを、戦争と飢饉によってすべてを失い、のたれ死にしそうになっている人たちに高額で売りつけようというのだ。
なんて頭のいい……じゃなかった、ひどいことをするのだ! ガマンならぬと桔梗屋さんの店に走る一休さん。
「米を仕入れて、ほしいという人がいるから売る。こっちは普通に商売しているだけですよ、ガッハッハ」
という悪どさあまねきため、いっそさわやかでもある桔梗屋さんに、返答に窮した一休さんはいつものごとく、
「とんちで勝負だ!」
論点をすり替え、勝ったら買い占めた米を、すべていただくと宣言。
そうして見事、詭弁……じゃなかったとんち、勝負に勝った一休さんは蔵じゅうの米俵を持って、飢えた人々のところへ駆けつける。
そもそもが桔梗屋もひどいけど、口先三寸で人のものをただで取り上げるなんて、一休もたいがいエゲつないが、なんにしても、めでたしめでたし。
ここまでなら、いつもの一休さんなのだが、ところがこの回はこれで、めでたしとはならない。
なんと、一休さんが駆けつけた難民キャンプには、だれもいなくなっていたからだ。
一体どういうことかと問うならば、
「ここにいた人たちは、みんな刀を持っていくさに行ったよ」
無人の河原で、呆然と立ちつくす一休さん。
そう、いくさによって住んでいるところを追われた人々は、みな今度はみずからが武器を取り戦場へと向かったのだ。
「いくさに出て人を殺せば、米の飯をたらふく食わせてやるぞ」
という言葉を聞いて……。
やがていくさも収まり、年が明ける。
正月、みなが浮かれている中、一休さんは京の街を練り歩く。
深く編み笠をかぶり、手にはしゃれこうべのついた錫杖。
彼は鈴を鳴らしながら、しゃれこうべを高く掲げ、
「お気をつけなさい! お気をつけなさい!」
警句を鳴らし、一句詠む。
「元旦は 冥土の旅の一里塚 めでたくもありめでたくもなし」
年も明けて、気分一新の元日に「冥土」という単語が出てくるところが、ずいぶんとロックである。
いわば、友達があつまって「誕生日おめでとー」とハッピーバースデートゥーユーを歌っているところへポツリと、
「でも結局、誕生日をむかえるってことは、避けられない死という恐怖に対して、また一歩近づいたっていうことだよね」
なんて、つぶやくようなもの。空気をこわすこと、おびただしいですわなあ。
当然、街の人々は怒って一休さんに石を投げる。
「正月早々えんぎでもねえ」
「とんでもない小坊主だ」
投石によりケガをした一休さんは、血を流しながら、それでも静かに、
「ご用心なさい、ご用心なさい……」
そう呪文のようにつぶやき都を練り歩くが、正月の喧噪の中、もはやその声を聴くものは、だれもいないのであった……。
ここで一休さんが詠む、
「元旦は 冥土の旅の一里塚 めでたくもありめでたくもなし」
という句は、実際にアニメのモデルとなっている、一休宗純が読んだもの。
そもそも宗純は僧なのに酒は飲むわ、結婚はするわ、男は好きだわ、という放埒な人で、かなり横紙破りな……。
……って、そんなウンチクを語っている場合ではない。
おい待て、これは『一休さん』ちゃうんけ。ヘビーすぎるわ!
なにぶん子供のころの記憶なんで、細部は違っているかもしれませんが、愉快なとんち話を期待してたら、こんなもん見せられてコケそうになった。
正月早々、どんなもん放りこんでくるねん、と。ペシミズム満載。そら石も投げられますわと。
ようこんなもん『一休さん』でやったなあ。たしか脚本は辻真先先生だそうですが。
これだから、昭和という時代は一筋縄ではいかない。
子供向けアニメだと油断して見ていたら、いきなりこんなビーンボールが飛んでくることが、あるかもしれませんよ。
ご用心なされよ、ご用心……。