稲垣美晴『フィンランド語は猫の言葉』を読み返す。
昔から旅行記や語学エッセイが好きで、そのせいというわけでもないけど、のちにドイツ文学科へ進学したりバックパッカーになったりもするという因果なことになるのだが、その先鞭をつけたというか、
「外国って、外国語って、おもしろそうだなー」
というインパクトを与えてくれたもののひとつに、この本の存在がある。
フィンランド語の翻訳者で、北欧文学の講師でもあった著者の、1980年後半ころのフィンランド留学記。
まだ10代のころ講談社文庫から出たのを読んで、その楽しさにずっぱまりしたものだ。
まずタイトルがすばらしい。フィンランド人は相づちを打つとき「ニーン、ニーン」と口にするそうで、その響きが猫っぽいから「猫の言葉」。
もうひとつすばらしいのは、フィンランドというチョイス。
世に数多の旅行記や語学エッセイはあれど、欧米ならたいていがアメリカにイギリス。あとはせいぜいフランスかイタリアといった、メジャーどころがメインである。
そこをあえて北欧。しかもそこでも、デンマークやスウェーデンではなくフィンランド。
フランスのオシャレなカフェがどうたらとか、イタリアの美と芸術と料理とか、そういったしゃらくさいものなど鼻息プーでふっ飛ばして、だれも知らない(失礼!)フィンランドへ飛ぶ。
その心意気や良しすぎる。これはもう、手に取るしかないではないか。
さて肝心の内容はといえば、これはもうひたすらに文体が楽しい。
基本、まじめな学生さんによる留学記なので、グルメや風光明媚な場所についての話はほとんどない。
なんといっても「激芬家」(「激しくフィンランドのことをする人」の意)を自称するミハルさん。その日常は勉強、勉強、また勉強。
たまに学生や、下宿のおばさんとの交流なんかもあるけど、ふだんはといえば、
「レポートのため辞書を引き引きフィンランド文学を読みこむが、フィンランド語には三人称に男女の区別がない(英語でいえばどちらも「it」に当たる単語で表す)ため、男と思っていた主人公が実は女で、思わずお茶吹きそうになる」
みたいなエピソードがメイン。
でもそれが、いわゆるねじり鉢巻きウンウンうなる「勉学を強いる」ではなく、なんとも軽やかで楽しそう。
これを読んで、「オレも外国語やってみようかな」と思わなけりゃウソだ。
時代的には、かなり昔の話でも中身が古びてないと感じるのは、この本にはとにかく、
「外国っておもしろそう! 外国語を学ぶってすばらしいことなんだ!」
という、人類が生まれて、おそらくは滅ぶまで、我々のような因果なだれかが持ち続けるであろう、あこがれと喜びが横溢しているから。
単なる体験記ではない。外の世界に対する普遍の想いをこれでもかと描いているからこそ、今読んでも風化もせず、ひたすらに心が躍るのだ。
そう、「ここでないどこか」について知ることは、「良きこと」なのだ。
外国語については、ドイツ文学者の池内紀先生が、オーストリアの作家ホフマンスタールの、こんな素敵な言葉を引いている。
「外国語を身につけるということは、魔法の指輪をはめるようなもので、その瞬間から、この世界がまったくちがう彩りで見えてくるようになる」
それともうひとつ。中国留学経験のある、漫画家小田空さんがおっしゃっていたこと。
「言葉というのは、やればやるだけ、かならず誰かが待っている」
私にとって外国や外国語を知ることの意義は、この2つの言葉に集約されているといっていい。
昨今、日本では英語教育の改革うんぬんが叫ばれているが、元外国語学習経験者として、どうにも素直に応援できないところがある。
理由としては、結局そこには「ビジネス」や「欧米コンプレックスの解消」、下手すると「オシャレ」なんてところにモチベーションを持ってきて、我々を待っているはずの「だれか」の視点がすっぽりと抜けているからではないか。
ロシア語の黒田龍之助先生も『ポケットいっぱいの外国語』という本で、
「これを読んだら誰でもきっとフィンランド語を勉強したくなる」
そう太鼓判を押されていたけど、日本人の語学力アップ議論がざんないのは、
「英語ができないと国際人失格」
「TOEICで何点以上ないと就職できないぞ」
といった、えらそうな脅しをするだけで、こういった「魔法の指輪」の美しさを語れる人が、いないからではあるまいか。
そのことに絶望したときは、この本を読もう。
外国語を「金になるから」という視点でしか見られない、哀れな政治家や役人など、『関口存男著作集 ドイツ語学篇全13巻』で後頭部を一撃だ!
フィンランドでなくても外国語に興味がある人、外国に行ってみたい人は、とにかく一度は読むべき。
「外国語本オールタイムベスト」みたいな企画があったら、間違いなくトップ10入りをねらえる名著である。
猫の言葉社から復刊されているので、ぜひどうぞ。
(トルコ編に続く→こちら)