ライオンの詩 ~sing's word & diary 2

~永遠に生きるつもりで僕は生きる~by sing 1.26.2012

私見~今日は原発の話

2011-04-07 04:12:08 | Weblog
動き出した列車は止められない?ホントにか?
この国にはブレーキはないのか?ホントにか?

原発の問題に揺れている。今、首都圏の人間は放射能の情報に過敏だ。あたりまえだ。命が懸かっている。農作物、水産物、水、放射性物質の濃度が気にかかる。あたりまえだ。命が懸かっている。天気予報に新しい項目が出来ている。福島の海岸近辺からの風向きの予想だ。放出された放射能の流れが気にかかる。それもあたりまえだ。しつこいようだが、命が懸かっている。東京都民へのアンケート。原発事故に不安を持つ人・・・88.1%。

では、「国内にある原発は今後、どうすべきだと思うか」と聞いたところ「これまで通り運転」が1.7%。「運転しながら安全対策を強化していく」が56・2%。「いったん止め、対応を検討する」は25・2%。「やめて、別の発電方法をとる」は14・1%。
おそらく、僕が想うに、東京都民以外の人に聞いても同じような結果になるのではないか?

さぁ、これをどう見るか。だ。

今、現実に、数百万人プラスアルファの命が、原発事故の元で危険にさらされている。空はやられ、海もやられた。所詮人間が造ったものだ。人間が動かすものだ。100%の安全が未来永劫保証されているものだとは想えない。だから不安が付きまとうのだろう。1999年の東海村の臨界事故では、人為的ミスにより669人が被曝した(うち二人死亡)。今回の原発の事故処理に十数年、もしくは数十年かかるという予測さえある。つまり、その間、リアルな放射能の危険を抱えながら、僕らは生きなければならない。

今、現に、放射能の危険をリアルに感じながら生活している中で、なぜ原発に反対する回答が14%しかないのか?この現状で、なぜ60%の人が「それでも原発が必要」だと答えているのか。

この国の民には意思が欠如している。意思とは「教養」のことなのかもしれない。乱暴な言い方をするならば、知的レベルが・・・相当低い。完全な民主主義の国にいながら、投票率が低いのもそのせいだろう。先進的な生活の中にも男女差別が色濃く残っていたり、異民族に対して排他的な態度をとったりするのもそのせいだろう。決定的なのは、その癖プライドは高く、自分がそこそこ教養のある人間だと思っているところ。
この国のその民衆が頼りにするのは何か?「お上」ではない。お上を信用するのはバカしかいないと思っている。だからお上は信用しない。お決まりの政治不信ってやつだ。では、何か?何を頼りにする?「メディア」だ。メディアに登場する「専門家」だ。「評論家」だ。

この国のメディアにはほとほと呆れる。呆れるを通り越して・・・気持ち悪さを感じる。この数ヶ月、民放のテレビは観ていないからよくは知らないが、おそらくこんなところだろう。原発反対論者はテレビに出演していない。朝まで生テレビ以外の番組には呼ばれない。原発反対論者は何も分かっていないバカ野郎だと思われているからだよ。きっと、朝まで生テレビでも、田原総一朗にケチョンケチョンにされているのだろう。
メディアが報じている内容はこんなところだと想う。原発を止めると首都圏の電気が止まり、経済が立ち行かなくなる。そうすると市民の暮らしが危機的な状況に陥る。それこそが未曾有の災害。そして、環境を汚染しない代替エネルギーが他には無い。従って、今の生活レベルを維持するためには原発が必要だ。仕方ないので受容するしかない。他の原発で事故が起こる確率は極めて低い。こんな感じか?
自分の命の危険と引き換えに、生活レベルを維持しようとする人間がいるのだろうか?・・・いるんだね。

この国を動かしているのは民衆ではない。政治家でもない。この国を動かしているのは資本主義の「資本」を持っている人たちと、その集団だ。経済が立ち行かなくなって、ただちに困るのは資本家たちだ。そういう原理が資本主義にはある。そういう原理がこの国にはある。
東京電力及び電気事業連合会は、年間三百億円以上を新聞やテレビのコマーシャルに注ぎ込んでいる。大口スポンサーだ。お得意様だ。なぜ独占企業なのに、それほどの大金を注ぎ込むのか?おわかりか?原発がなくなって、電気が止まって、民衆の生活レベルが下がれば、困るのは経済界だ。経済界が困れば、メディアに金を出すスポンサーがいなくなる。メディア、困る。acのコマーシャルしか流せなくなる。メディア、困る。つまり、メディアに意思はないということだ。意思のないメディアの意思が、意思を持たない民衆に刷り込まれていく。原子力は必要です。この国のシステムには、そういう原理がある。賢いと思い込んでいる賢くない民衆は、不安だと想いつつ「必要だ」と口にする。そう語るのが、賢いと思い込んでいるからだ。

今回の震災を、第二次世界大戦の敗戦に次ぐ国難だと呼ぶ人がいる。あの敗戦から復興した日本の底力を再び、と声高に言う人がいる。果たしてそうだろうか?
ブレーキのない列車に乗りこんでいた日本人は、敗戦によって目が覚めた。軍国主義から解放された。「軍部」という名のキムジョンイルやムガベ的な独裁的なものから解放された。洗脳から解き放たれた。命の尊さを思い出した。そして焼け野原、食糧難、恥辱の中、国中が同じ苦労と苦難を背負い一丸となって復興へ向かって生きたのだろう。
敗戦の時と「今」はリンクするのだろうか?リンクするところが僅かでもあるのだろうか?
片や家を失い家族を失い仕事を失い、先の見えない絶望の中に佇み・・・片や原発のリスクを地方に押し付けてまでも、自分たちの生活のレベルを守ろうとしている。石原慎太郎風に言うならば、誰も「我欲」と「拝金物欲経済主義」という洗脳から目を覚ましてはいない。誰も列車を止めようとはしていない。すべての人が安全を求めているのに、誰も「危険行きの列車」のブレーキを引こうとはしない。経済のためならば「命」さえも差し出すということなのか?自分の愛する人や子供や孫の命さえも差し出すということなのか?それとも・・・いまだに100%の安全を誇ると思っているのか?原子力。信じているのか?原子力。恐くないのか?放射能。本当は恐いんだろ?放射能。

すべては僕の私見である。僕も賢くない人の中の一人であることは疑う余地もない。はみ出しながらも、この社会の中にどっぷりと浸かって生きている。

ドイツでは、日本の原発事故を受けてこんな事が起こっている。国民の70%が原発に反対の意思を示し、28万人の原発反対のデモが行われた。政府は現存原発使用の12年延長法案を凍結することにしたとか。これによって、ドイツの原子力発電は2020年で終了することになる。
命の危機に対する行動って、そういうことなんだと思う。賢く思慮深い振りをしていたら、誰の命も守れない。水を買い占めるとか、遠くへ逃げるっていうことではないのは確かだ。止められるものは、止められるうちに止めなければならない。

さらに私見を述べる。原発を全部止めてしまえばいいと思う。安全なうちに全部止めてしまえばいい。電力が足りなくなったら、日本の経済は地に墜ちる。一度地に墜ちればいいと思う。命よりも尊い経済なんてあるわけながない。そして、原発に頼らないクリーンなエネルギーと共に、そこから復興していけばいい。被災地も被災しなかった場所も一緒に、助け合いながら、思い遣り合いながら、一丸となって復興していけばいい。きっと今よりはまともな社会と、まともな経済が出来上がっていくはずだ。

古き良き時代は、なぜ古き「良き」時代なのか?
僕らは目に見えない何かにがんじがらめになって、何もかもが、よくわからなくなってしまっているんだよ。きっとね。そうは思わない?以上。