11月11日は『介護の日』です。平成20年(2008年)7月28日に厚生労働省によって制定されました。厚生労働省は、事前に実施したパブリックコメントで最も支持が多かった、「いい日、いい日」にかけた『覚えやすく、親しみやすい語呂合わせ』でこの日にしたとのことです。
介護に直面し、苦労されている人達にとってみれば、“ノーテンキ”さだけが目につき、当事者目線ではない、運用側主体の形骸化してしまった現行制度への憤りを感じずにはいられません。
老老介護、認老介護、シングル介護、これらほどではなくても家族による『高齢者の世話』では世話をする役回りとなった特定の人に時間的、金銭的、精神的な負担が圧し掛かります。
2009年4月、介護保険の認定基準が改定されました。
この改定基準は、従来以上に介護等級への認定が厳しくなっており、介護施設に入所できる人が少なくなりそうです。今まで入所していた人も、認定基準を満たさなければ退所させられます。
訪問サービスやデイサービスの基準も厳しくなっています。
訪問サービスやデイサービスは、“無いよりはマシ”位のもので、同居する家族の負担は殆ど軽減できず、共倒れの危機が迫ってくるのは必至です。
また、サービスを受ける高齢者本人も、ヘルパーが来宅してくれるまで、不自由な生活を強いられます。
国民の多くが望んでいるのは、介護保険の基準に達していなくても、如何にも自立し健常そうに見える高齢者であっても、アクシデントに見舞われた時、必要な手助けをしてくれる人が傍にいることであり、それによって、傍にいる人の生活に大きな犠牲を強いることがない仕組みです。
行政が云うところの「介護」という感覚とは少し違うのではないでしょうか。
介護保険ができ、その適用基準が設定されることにより、それまで支援を受けていた人達の多くが切り捨てられることになってしまいました。「基準外」を理由に。
そのため、自宅で誰かに世話をしてもらう以外、生存の手段が無いのです。
世話をする人は、勤務先に介護休暇制度はあるものの、休職期間次第では生活のための収入を得ることができなくなります。行政が準備している保証はあまりにも小さ過ぎるのです。
作者不詳のポルトガル語で書かれた詩が翻訳され、歌にされたCD「手紙~親愛なる子供たちへ~」が大きな反響を呼んでいます。
子供に世話をしてもらう高齢者の“心の叫び”として共感を得ているようです。
子供や兄弟姉妹に世話をしてもらう高齢者の気持ち。その気持ちが分かりながら、日々の糧も得なければならない世話をする人の気持ち。世話をする人は高齢者を世話する時間と糧を得るための時間の狭間で精神的・肉体的に疲れ果て、世話をする人の家族間、兄弟姉妹間或いは世話をされる人との間で望まない諍いをもおこしてしまう。
少ない金銭的負担で、世話をする人をこのような表現し尽くせない負担から解放し、社会資本形成活動に貢献してもらえるようにすることが行政において必要な施策ではないでしょうか。
40歳以降の人は介護保険料を健康保険料と一緒に徴収されます。
高齢者が病気治療で病院に入院しても、医療制度が定める退院時期に、退院後の自宅療養ができる状態になくても無理矢理退院させられる人が沢山います。
自宅で世話をしてくれる者がいない人にとっては死活問題に直結するような制度運用です。
介護保険が導入されて以降、医療制度も改定され、若い、健常者が病気になって入院治療したときをベースに退院時期を判断し、その後、入院し続けるのは『医療行為が伴わない入院』として退院させられます。
この時、病院側からは、
「自立して自宅療養できないからといって病院に入院させ続けることはできない。病院は特別養護老人ホームではない。」
「そういう人は介護施設に入居して下さい。」
と言われます。
「入院していたければ何か医療行為=手術をさせろ」
と迫ってくるとんでもない病院もあると聞きます。
独居の高齢者が退院を前に入居施設を探しても、
「入居基準に合致しない」
「申込みをしても、300番目の順番待ち」
などとして、即時受け入れてくれる施設が見つからないケースが殆どです。
運よく入居できる施設が見つかっても、入所後に“寝たきり”状態になったときには退所することが条件となっている施設が殆どです。
身柄を引き取り、生活の介添えをしてくれる人がいない者にとっては“野垂れ死に”を迫られているのと同じことです。
保険料を払いながら、この扱われようは正に“踏んだり蹴ったり”と言うのではないでしょうか。
北欧の国のように、一定の年齢に達したなら、そして老人・老夫婦自身の判断で独自の生活に不安を感じたなら、自宅を引き払い、いつでも入居できる公設の老人ホームが準備されている。
老人ホームの費用は、受け取る老齢年金から一定額を手元に残した残金を納入すればいい。
入居後は、身体の状態がどのようになろうとも、生活・生存補助者が常駐しており、そこで終(つい)の時を迎えることができる。
核家族化が進展し、二世帯以上が同居しない、いや、同居できないのが当たり前となった現在、そんな公設の老人ホームが望まれているのではないでしょうか。
行政、自治体には公共投資・公共事業費をこのような老人ホームの大幅な増設と施設運営、要員の確保策に優先的に充てることを実施してもらいたいものです。
今後30年間において発生する、生活補助・介助・支援・介護を必要とする人は、わが国の戦後復興~高度経済成長に貢献してきた人々であるということを真摯に受け止め、優しさのある福祉社会を実現して欲しいと思います。福祉が充実すれば、少子化にも歯止めがかかると思います。
今のままいけば、わが国の経済成長に貢献すべき層が、高齢者を世話する負担で潰れてしまいかねません。いや、既に潰れ始めているといっても過言ではないでしょう。
公設の老人ホームを増設する公共投資(箱物の建設)により、地域の経済は活性化するだろうし、公共事業運営としての老人ホームの職員が大幅に必要となるので、失われた10年において放置されてきた人達を含め、仕事を必要とする人の職場を創造することにもなります。失業率低下にも十分貢献できると思います。
“職員には介護士の資格が絶対に必要”とか、“公の施設の職員は公務員”といったような硬直的な運用には早々に別れを告げるべきだと思います。
先ず必要なのは日常的な生活補助者なのですから。