教育現場が騒々しい。既に廃止されたが、「ゆとり教育」を実施し、学校での授業時間を減少させても、子供達に“ゆとり”は齎されず、教職員もカリキュラム準備以外の仕事で振り回されていたようです。
結果として学力低下が顕著になったとして「ゆとり教育」制度は廃止となりました。
子供達の学力低下は本当に「ゆとり教育」が原因だったのでしょうか?
「ゆとり教育」に限らず、教育制度の問題の多くは、運用側(文部科学省、都道府県・市区町村の教育委員会)に帰すべき責任が大きいように思います。
今また、公立高校での「中高一貫教育」が如何にも優先導入すべき制度であるかのように唱えられ、附属中学校を設立し、運用を始めた都立高校があります。
これは、純粋な教育の充実というあり方ではなく、少子化時代における生徒囲い込み策、大学進級率向上策としか映りません。
親の側では、俗な言葉遣いをすれば、「いい学校」を卒業して、「いい会社」に就職させれば、わが子の将来は安泰であるとの考えが根強いのではないでしょうか。
現実の社会を見る限り、これを否定する材料はあまり見当たりませんが、逆に肯定する材料も見当たりません。
この考え方は『昭和モデル』と言えるのではないでしょうか。『平成モデル』は未だ構築されたようには思えませんが、現在既に、この構図は崩壊しているのではないでしょうか。
3月6日付け朝日新聞の記事でも分かる通り、ゴールであったはずの企業は新卒者の全てを吸収するに足りる雇用維持力を大幅に減少させています。
ロストジェネレーションに代表されるように、新卒採用の機会を逃した人はフリーター・非正規社員としての就業機会しかない。一旦企業に就職した人も「休暇がとれない」「サービス残業当たり前」といった会社の将来に不安を覚え離職し、フリーター・非正規社員になってしまう。 一旦非正規社員の道に入ってしまうと、正規社員への道は閉ざされてしまう。挙句に老後における補償も細り、先が見えない状況に陥る。
こんな状況の中で、教育制度だけを論じるのは片手落ちも甚だしいと思います。
しかし、こんな状況にありながら、親達は何故学校教育以外の“学習塾”や“進学塾”などに大枚の費用を投じて、子供達を通わせるのでしょうか。
未だ、『昭和モデル』から離れられない状況が教育界にあるからではないでしょうか。
そして、国は今年、高校の授業料無料化を実施しました。教育制度構造の見直しを徹底的に行った結果での必要性とは考え難い、政権政党のマニュフェストの実現を優先化した措置としか考えられません。
義務教育である小中学校、そして任意教育である高校の各段階で、十分な教育がなされるなら、子供の生活にも、親の家計にもゆとりができるのではないでしょうか。
『学習塾や進学塾を必要とする根本的な原因は何か』を見極め、改革することが第一の課題ではないでしょうか。
文部科学省は昨年(2009年)7月3日付けで「教育安心社会の実現に関する懇談会報告書~教育費の在り方を考える~」を公表しました。
これは、①幼児教育の無料化、②高校生の授業料援助、③大学生の授業料や入学金の減免措置の拡充や奨学金貸与事業の充実など、教育費の負担軽減策をまとめたものです。親の収入格差が、超えがたい教育格差に繋がっているとの現状認識を前提にしたもので、年間1兆3千億円程度の国家予算が必要としています。
本当に低所得である家庭の子には、国による教育費援助策が必要と思います。しかし、全員に均等にばら撒く必要性があるのでしょうか。
教育費援助策とは別に制度改革も必要ではないでしょうか。
『昭和モデル』での問題点は、入学希望者を振り落とすための入学試験と、行政がこれに加担したセンター試験、言い換えれば、入学定員制を必要とする大学の「卒業定数充足制」ではないでしょうか。(一定数を卒業させることで、大学に補助金が支払われる)
いきたい大学に無試験で入学できれば、つまり大学入試が無くなれば“進学塾”も必要なくなる。小中高で入試を気にせずに、人格と人材育成に必要な教育を施すことができる。
大学の8年間という在学年限を廃止し、それぞれの大学で定める進級検定・卒業検定基準を厳正に適用する。進級できない者は学費を負担することが可能な限り、同じ大学で卒業できるまで頑張るか、さもなくば、自己の能力で進級できるレベルの別の大学に自由に転校・編入することができる(当然、編入学費が一時費用として必要)。学生個々の事情に合った就学の仕方、卒業の仕方を学生自らが選択できる。
このように、最終かつ最高学府である大学の制度を変えることにより、小中高全ての教育の在り方にも自由度が増し、既得権の構造も解消され、教育費全体も低減することができるのではないでしょうか。