白雲去来

蜷川正大の日々是口実

福田和也さんが訪れた赤門の寺

2024-09-22 11:49:49 | 日記

9月21日(土)晴れ。

じっとしているだけで汗がじわっと流れ出てくるような一日。九月も半ばを過ぎたのに連日の30度超え。ダメな政治が気候までに影響しているのか。朝食は、余り食欲がないので「お粥」を作った。白髪ねぎに、ごま油と醤油で味を付けて薬味に。2時半に平塚駅で松本佳展君と待ち合わせて、平塚八幡宮の会議室にて開催される日本会議の講演会に出席。

講師は、岩田清文元陸上自衛隊幕僚長。いま世界にある危機と台湾有事のシュミレーション。まさに世界は平和ではない、という再認識が出来た。三島研の弁護士さんなど良い出会いもあり、有意義な講演会だった。終了後は、関内のアグー豚しゃぶしゃぶのお店「青」へ。沖縄の味を堪能美味しかった。その後、2軒転戦。12時を少し回った頃に帰宅。

夕方、お世話になってたいるジャーナリストの久田将義さんから連絡があり、20日に亡くなられた文芸評論家の福田和也さんの思い出話を少し。以下は、14年前の10月に書いた私のブログから引用。『福田和也さんが訪れた赤門の寺』より。

文藝評論家で、「群青忌」で講演をして頂いたこともある福田和也氏が、週刊新潮で「世間の値打ち」というコラムを連載している。その第四百九回(8・26号)が「忘れられた横浜の怪人・田中平八の足跡を訪ねた」というもの。明治の横浜の女傑として名高い「富貴楼お倉」こと斉藤くらが生糸や米相場で巨利を得た「天下の糸平」こと田中平八をスポンサーとして中区の尾上町に開いた料亭が「富貴楼」である。「伊藤博文が富貴楼の芸妓に産ませた女子を育て上げて、官僚に嫁がせいる。元勲たちの後始末をそしらぬ顔をしてやる器の大きさも、お倉の富貴楼の大きさであった。井上馨、岩倉具視、大隈重信、陸奥宗光どころか、大久保利通でさえ一目置いたという、一代の女傑であった」と、福田氏は書いている。

現在は、尾上町にその「富貴楼」を偲ぶ碑の一つもないが、お倉の墓は、京急、黄金町駅からすぐ近くにある、通称「赤門の寺」、東福寺にある。田中平八の墓もそこにあるとは迂闊にも知らなかったが、実は、その東福寺は、野村家の墓所でもあり、私が子供の頃の遊び場でもあったお寺だ。野村先生のご両親はそのお寺にあるお墓に眠っているが、お墓の横に、

  昂然とゆくべし 冬の銀河の世

 という野村先生の句碑がある。


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