つれづれおもふ

思えば遠くに来たもんだ~ぼつぼつ語る日々の出来事

蒼馬を見たり・・・林芙美子詩集

2011年02月18日 | 本・・・

娘の学祭で開かれていた古本市に並んでいた復刻版だ。
「お気持ちを入れてください」と書かれた棚にあったので、気持ち10円玉を入れてきた。

林芙美子が亡くなるまで住んでいた家が、東京の実家のすぐ近くにある。
私が子どもの頃は林さんが住んでいらした。そんなご縁を感じて手に取った。
「放浪記」や「浮雲」は読んだことがあるが、詩集は初めてだった。1929年と言うから昭和の初めだ。
女性のありようが今とは違うので、想像でしかものが言えないが、
触るとやけどをしそうなほどつんつんとはじけている・・・自由闊達で、それは控え目に言うと「はねっかえり」とか「おてんば」「手に負えない」「新しい時代の申し子」などと言われた類ではなかろうか。

それでも、生き方に生気があふれている。今、私たちは、芙美子の時代からは想像できないほど、自由に物を考えて行動できる。それなのに、芙美子のように生き生きとしたエネルギーがないのはどうしてだろう。しばし、考えてしまった。中から一篇を

 

灰の中の小人

今日も日暮れだ
灰白い薄暗の中で
火鉢の灰を見つめていたら
凸凹の灰の上を
小人がケシ粒のやうな荷物をもつて
ヒヨコヒヨコ歩いている。

ーー姉さんくよくよするもんぢゃないよ
貧しき者は幸いなりつてねヘッヘッ
ああ疲れた

私はあんまり淋しくて泣けて来た
ポタポタ大粒の涙が灰に落ちると
小人はジュンジュン消へていってしまった。

 

*旧字体が使用されていますが、すみません、今の字でうちこみました。趣がありませんね

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義務教育とは

2011年02月18日 | 子育て

何日か前「15年かかって義務教育がどういうものかがわかってきた」というような記述をした。

どういうことですか・・・というお尋ねがあった。

今大学に通う長男が中学校を卒業するときに、当時の校長先生が
「君たち○○名、義務教育9年間の修了を宣言する。夢に向かって突き進んでほしい」
というような挨拶をされた。“義務教育9年間”という言葉が印象的だった。でも、その時は何をいわれたかはっきりと理解したわけではなかった。その後、高校受験、大学受験、長男ばかりでなく長女、次女と経験するうちにうすぼんやりと“義務教育9年間”という本当の意味が感じられるようになった。

義務教育9年間・・・これは日本と言う集落に住むものが、読み・書き・そろばんその他に絵を描くことや、音楽を聴く、体を動かすこと等、自分たちの国を維持するために次の世代を教育すること。
日本の集落の一員として生きていくために、共通の最低限の理念を伝える役割がある。個々の人材の育成は第一義ではない・・・というようなことが分かってきた。

親の立場としてはわが子が一番である。誰よりもわが子が、教室の中で生き生きと輝いていてほしい。だが、義務教育というのはその後自分で輝く努力をするための基礎を築くためのもので、もし、クラスの中でわが子が光ったとしたら、それはおまけでしかない。そういう意味で、小学校・中学校で満足していたら、それだけでしかない。そこから「おれはやる」と頑張った時に、誰もが光り出すのだろう。有名になるか、無名であるかは問題でない。

確かに才能の片鱗が、十代の初め、それ以前に現れるものがいるようだ。多くは、己を信じて研鑽を重ね二十代で芽を出してくるのではなかろうか。もっと遅く三十代、四十代のものもいよう。子どもの頃の義務教育は、先に芽が出て花が咲くと信じて学ぶ心を育てる時間ではないだろうか。

日本と言う集落に住む者が何を共通の意識として持つべきか・・・そこのところがぐらぐらしているようで、日本の教育に閉そく感があるのだろう。日本の子どもはこうやって育てるという議論がたりないのかもしれない。

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