つれづれおもふ

思えば遠くに来たもんだ~ぼつぼつ語る日々の出来事

断捨離

2011年05月14日 | 

本屋に行くと、整理整頓のコーナーに「断捨離のすすめ」「捨てれば・・・」というタイトルの本がたあくさん並んでいる。
我が家も物があふれている。子どもが大きくなるうちにいつの間にか増えていった「物」「物」「物」どうにかしなければと思う。

5月12日朝日新聞天声人語に、それ以前の朝日歌壇に載った
< 記者らみな 「瓦礫」と書くに 「オモイデ」と ルビ振りながら読む人もいる > と言う句が紹介されていた。
比較するのは不謹慎だが、「物」は「オモイデ」だからそこにある。瓦礫になったからと捨てられるものではない。

だが、断捨離について書かれたものを読んでいるうちに、その「オモイデ」は自分を苦しめている“こうありたいのにこうなれない”自分の象徴と説明しているものがあった。

ゴールデンウイークに東京に行っていた時、姉が念じるように「断捨離、断捨離」と言いながら「物」を整理しようとしていた。
東京の家は、私と姉の祖父母から住み続けている家で、自分のものでない「物」が数多くある。私は家を出て、新しい家庭を作り、子どもがぽこぽこと生まれ、子どもの物を入れるために、必要にかられ「断捨離」をそれなりにしてきた。だが、姉は、家に残り、姉個人のものではない、家が持つ「オモイデ」を守ってきた。これにいるいらないを決めるのは、なかなか難しい・・・。「これどうしたらいいと思う?」という問いに、私はうまく答えることができなかった。それでも、そうやって整理を手伝っているうちに、反対に「オモイデ」から前に進めないでいる姉の姿も感じた。驚愕だった。

断捨離とは、ヨガの「断業」「捨行」「離行」という考え方から、不要なモノを断ち、捨てることで、モノへの執着から離れ、身軽で快適な生活を手に入れようというもの・・・のようだ。

それではもしかしたら、「断捨離」とは「整理整頓術」ではなく「生き方」ではないのかと思いだした。
だとしたら、前へ進めなくなっている姉の為に「捨てる」をしてやらなければいけないのかもしれない。
だが「捨てる」行為自体はいくらでもできるが、生きるための指標は自分でつけなければ「捨てただけ」になってしまう。

東京の家の近くに林芙美子の家がある。今は記念館として開放されている。
この家は林芙美子が細部にこだわって建てたもので、そこには芙美子の生き方が感じられる。
いいかえれば、生き方がぴんとしていれば自然と断捨離は行われ、快適な空間がうまれる。どう生きたらいいだろうと悩むから、あれもこれもと手放せなず散らかっていくのではないだろうか。残りの時間を考えるようになると、あきらめきれない何かが、「断捨離」と言う言葉にあらがえない自分と向き合うように望むのだろう。

姉は、人生をあきらめていない。私も誰かのためではなく、自分で選んだ道を生きたいと考えている。
それではいいじゃないか、多少家の中に物があふれ散らかっていても、前向きに自分の人生と向き合う覚悟さえあれば・・・。

「断捨離」 頭の中は少し片づいたようだ。

コメント (2)
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