よろしかったら人気blogランキングへ クリックお願いします
☆沖縄県内の「告別式」最新情報。
本日は戦前の「海軍記念日」である。1905年(明治38年)5月27日に行われた日露戦争の日本海海戦を記念して制定されたが、1945年日本の敗戦により廃止された。
海軍記念日などというと反日サヨクが口を揃えて「戦争愛好者」「軍国主義者」などのレッテル貼りをするが、病気の研究なくして健康はありえないのと同じように、戦争や軍隊の研究を密封して平和を唱えるだけでは平和はありえない。
今朝の沖縄タイムス社会面の囲み記事のこんな見出しが目を引いた。
南海の島国「貧乏で泥棒も入らぬ」
百田氏講演で持論
非武装国家を揶揄
南海の島国という文字を見て一瞬沖縄のことかと思ったら、記事をよく読むと実際は非武装中立の批判であり、「しっかりした自衛権、交戦権を持つことが戦争抑止力につながる」という正論を説明するたとえ話をしたに過ぎない。
非武装中立が社の方針である沖縄2紙にとっては、百田氏がNHK経営委員の座にとどまっていることが我慢できないのであろう。
共同通信
2014年05月26日17時10分
百田氏、非武装国家をやゆ 「貧乏で泥棒も入らない」
NHK経営委員で作家の百田尚樹氏が、24日に開かれた自民党岐阜県連の定期大会で講演し「軍隊を家に例えると防犯用の鍵」とした上で、軍隊を持たない南太平洋の島国バヌアツやナウルを名指しで「家に例えると、くそ貧乏長屋で泥棒も入らない」とさげすむような発言をしていたことが26日、分かった。
百田氏は2月、都知事選立候補者の応援演説で「南京大虐殺はなかった」などと発言し、波紋を広げていた。
24日は岐阜市民会館で自民党県連関係者を前に講演。「しっかりした自衛権、交戦権を持つことが戦争抑止力につながる」と持論を展開した。
☆
日米戦争の直接の引き金となったのはABCD包囲網による石油の輸禁であることはよく知られたことで、「石油の一滴は血の一滴」といわれた当時の標語が、石油輸禁により日本が追い詰められた状況をよく物語っている。
日本の石油輸入のシーレーンに当たる南シナ海では現在も中越が制海権をめぐってにらみ合いが続いており、仮に中国が南シナ海の制海権を手中にしたら、日本のシーレーンは完全に中国に封鎖されることになる。
原発再稼動を禁止する司法判断が出るわが国では、一旦中国にシーレーンを封鎖されたら戦前のABCD包囲網に匹敵するエネルギー不足に陥いることになる。
それほどエネルギー問題は日本にとって喫緊の重要問題なのだ。
中国がシーレーンを封鎖するまでもなく、中東で戦争でも勃発すれば、石油やガソリンが入ってくる可能性は少なくなる。
南シナ海のシーレーンを迂回すればコストが割高になるからだ。
エネルギー問題は軍事需要に限らない。
当然、ガソリン車は動かなくなるし、高層ビルはマヒ状態になるが、原発による蓄電で電気自動車は動かせる。
だが、原発反対派に迎合した司法判断で原発再稼動が禁止され、結果的に頼みの綱の原発が無くなれば、電気自動車さえ動かなくなる。
エネルギー不足により、日本経済は世界の三流国家に成り下がることになり、追い詰められた結果やむなく戦争に突入しなければならなくなる。
これは戦前の歴史の繰り返しである。
百田氏の「正論」を批判する反日サヨクの道が大好きな言葉の「いつか来た道」そのものではないか。
原発反対派は大地震の起こる万が一のリスクを強調するが、「油断」(油を絶つ)することで被る「兵糧攻め」の危機こそより可能性の高い目前の危機である。
平和ボケで原発稼働停止を喜んでいるのは原発近隣の住民や平和主義者だけではないという現実が見えれば、「司法は生きていた」などと能天気な文言は到底言えないはずだ。
「原発稼動停止」が「油断」に繋がるエネルギー不足を招くと考えれば、まさしく「油断大敵」。
原発再稼動停止を命じた司法は「平和ボケの極地にある」と言える。
九条を呪文のように唱えさえすれば平和が叶えられると妄信する「平和主義者」が、実は「いつか来た道」を招きき寄せている。
こんな皮肉な現実にそろそろ国民が気が付くべきだ。
【追記】
映画「永遠の0」ロケ地で反響 高まる「残そう旧航空隊庁舎」
2014.05.26
太平洋戦争中、筑波海軍航空隊の司令部庁舎として使われた茨城県笠間市の県立病院建物を、戦争遺構として残そうとする動きが出ている。老朽化で取り壊しが内定していたが、映画「永遠の0」のロケ地になったことを機に一般公開。反響を呼び「戦争を語り継ぐ場にしたい」とする地元住民や隊員遺族の活動に弾みがついた形だ。
現在、県立こころの医療センターの敷地にある建物は1938年、筑波海軍航空隊の前身、霞ケ浦海軍航空隊友部分遣隊の司令部庁舎として造られた。戦後長らく県立病院の管理棟だった。2011年には役目を終え、予算が付き次第取り壊しが決まっていた。
ちょうどそのころ、昭和の雰囲気が漂う内装が映画制作者の目に留まり「ALWAYS 三丁目の夕日」撮影の話が舞い込んだ。12年には「永遠の0」ロケ地になり、主人公が教官として若い筑波海軍航空隊員を指導するシーンに登場。「記念館として残したい」との声が高まった。
昨年11月、県にゆかりのある映画制作に協力してきた市民らを中心に実行委員会を結成。県から限定的な許可を得て、12月から隊員の遺品や写真を展示する、期間限定の記念館となった。ちょうど「永遠の0」の上映と重なったことで、来訪者は予想をはるかに超える約2万8000人に。隊員の手紙や写真に見入る若い来訪者の姿も少なくなかった。当初今年5月までの公開も、来年3月までに延長された。
ただ保存には耐震性や管理費など課題は多い。建物を管理する県病院局の所管は病院事業。担当者は局の予算で記念館として保存するのは困難とした上で「病院全体の構想の中で考える必要もあり、取り壊しの時期は未定」と話し、県としても決めかねている様子だ。
戦争中筑波海軍航空隊に所属し、旧庁舎保存に尽力する広島県府中町の柳井和臣さん(92)は「若い世代が戦争を理解し、日本が今後どうあるべきかを考えるため、ここを残してほしい」と話している。