
長く角界を第一人者として牽引(けんいん)し、特に東日本大震災や八百長問題に揺れた土俵を、一人横綱として支え続けた功績は極めて大きい。
平成12年の来日時に60キロ余しかなかったモンゴルの少年は帰国ぎりぎりで宮城野部屋に拾われ、厳しい稽古で大横綱に成長した。震災発生の23年3月11日は26歳の誕生日で、復興を祈願して被災地での土俵入りを繰り返した。不祥事で角界が危機に瀕(ひん)した際には本紙の取材に「相撲が終わるとき、この国も終わるという強い思いがある」と話したこともある。
モンゴルの後輩横綱、日馬富士や鶴竜が先に土俵を去り、真の好敵手と期待された稀勢の里は横綱として皆勤わずか2場所で引退した。孤独な横綱であったことは想像に難くない。
一方で現役の晩年には、かち上げと称しての肘打ち、けんか腰の張り手や駄目押しといった取り口や、優勝インタビューで観客に万歳や三本締めを要請するなどの立ち居振る舞いが「横綱らしくない」として批判を集めた。
近年は相次ぐ故障から休場数の多さが目立ったが、6場所連続休場明けの名古屋場所では復活の全勝優勝を飾り、これが最後の土俵となった。名古屋の千秋楽、全勝対決で破った照ノ富士が新横綱として優勝した秋場所を見届けての決断だった。
だが、照ノ富士はすでに29歳のベテランである。大関陣は優勝争いに加われず、三役に2桁勝ち星の力士はいなかった。将来の角界を背負う、有望な若手も見当たらない。これこそ角界の重大危機である。大横綱の引退が、その寂しさをより顕著にするだろう。
白鵬の引退会見、一問一答「親方に褒めてもらいたい一心で稽古した」(上)
/cloudfront-ap-northeast-1.images.arcpublishing.com/sankei/IZ4MRQZ6INNYZH3K4WPFOPRRAY.jpg)
本日は足もとの悪い中お集まりいただきまして、誠にありがとうございます。私、白鵬改め(間垣)、引退させていただくことになりました。今後、年寄間垣を襲名し、後進の指導をさせていただきます。20年、現役中は皆さまに大変お世話になりました。そして活躍の場を与えていただきました日本相撲協会に感謝しております。本日は誠にありがとうございます。
--今の思いは
「大変緊張しています。そして、ほっとした気持ちでいっぱいです」
--引退をいつ決断したか
「引退を決めたのは名古屋場所中の10日目で決めました」
--どんな思いだったか
「去年の8月に手術し、コロナ感染になり、(今年)3月に再び右ひざを手術し、進退をかける最後の場所も、ひざも言うことを聞かなくなり…。この場所は10勝、2桁勝利が私の目標でありました。1番1番、決して簡単な取組はなかったと思います。その10勝を達成したとき、宿舎に戻り、親方はじめ部屋の皆さん、裏方に今場所で引退させていただきますということを伝えました」
--迷いはなかったか
「右ひざのことを思えば、迷いはなかったと思います」
--奥さまや子供たちに伝えたときはどうだったか
「その日には連絡をしました。奥さんは残念がっていました。子供たちは(もう少し)頑張ってほしいという声がありました」
「母に電話したとき、よく頑張ったなと、体が大事ですからということでした」
--21年間、振り返ってどんな思いか
「話せば長くなると思いますが、本当に早いような感じがします。本当に相撲が大好きだなと、幸せ者だなと思います」
--入門したころ、日本に来て、相撲の世界に入れるかどうかわからなかった頃のことを思い出してほしい
「今があるのは宮城野親方、師匠が私に声を掛けてこられたおかげで、今があると思うので、この場を借りて、師匠に感謝しております」
--一日違えば今の白鵬関の姿はなかったと思う
(しばらく沈黙。「ふーっ」と息をつく)「感謝の気持ちと、今後師匠のもとで、一から親方として勉強して頑張っていきたいなと思います」
--どういう気持ちで横綱という地位に近づいていったのか
「今思い返せば、本当に親方、師匠が優しくて、力士思いで弟子思いで、本当に感謝していますし、親方が上り座敷にいるだけで、親方にほめてもらいたい一心で稽古に励んでおりました。その思いが関取なり、横綱、大関に昇進していくことにつながったのかなと思います」
「大相撲に入るときは横綱になりたいという夢はありましたけど、45回優勝したいという目標は立ててはいなかったと思います。一つ一つの積み重ねがこの結果につながったのかなと思います」
--数々の大記録をどう感じているか
「やはり師匠の稽古、そして基本の大切さを守ってきたことが勝利につながったのかなと思います」
--14年間、綱を張り続け、横綱の重みについてどう振り返るか
「横綱に昇進したころは勢いもありましたし、うれしいという気持ちがありましたけど、右も左もわからない時に大鵬親方と出会ったこと、またこの場を借りて感謝しています」
「その大鵬親方に横綱というもの、宿命の中で頑張らないといけない、負けたら引退という言葉をかけられたときに、32回優勝した昭和の大横綱の言葉、重かったです。それから横綱として3年、5年、8年、10年頑張りたいという気持ちになりました」
--「負けたら引退」という大鵬の言葉がその後浮かぶことは
--師匠に。今、どんな思いか
宮城野親方「名古屋場所では稽古が終わった後、足を冷やしたり、そういうのがずっと続いていたんですよね。寝ている以外はほとんど機械をつけて足を冷やしたり、そういう姿は今回が初めてだったものですから、これ以上相撲を取らせることもできないと思いました」
「3、4年くらい前からけがをして、前に出る相撲がなかなか取れなくなってきて、どうすればいいか考えながらやっていたんですが、本人は『頑張ってやります』と言って取っていたんですよ。でも治療がだんだん増えてきて、今回は本当に、この状態では無理だなとはっきりわかるような状態まで我慢していたような気がします」
--そういう弟子の姿を見るのは
宮城野親方「辛かったです。寝る前もトレーナーとかいろんな方が来て2人がかりでマッサージしたりして、それで寝ていたような状態でしたから。それを見ていると、そこまで体が悪いんだと、びっくりしました」
宮城野親方「そのときは175センチ、62キロの小さい体で、この子はどこまで強くなるかなと心配したくらいでした。その後、6カ月間で75キロまで太らないと相撲界を去らないといけないと。稽古させないで、食べて寝かせて、それで最後どうなるかわからないけど努力させて受かったらいいなという気持ちがありまして、それで75キロまで太って受かることができたんですよね」
「僕が今まで記憶に残っているのは、稽古を『やるな』と言ったことはあるが、自分から『やれ』と言ったことは一回もないんですよ。逆に止める側だったんですよね、あまりにもやり過ぎるから『もういいからやめなさい』ということは何回もありました」
--どんな弟子だったか
宮城野親方「準備運動とかそういうものに対しては一番だと僕は思います。今まで力士30何人入れてやってきましたけど、こういう若い衆は初めて見ました。稽古に対しては本当に真面目な子で、努力もしましたし、やはり自分が偉くなろうと思ったときには、番付が上だろうが関係なく、しっかり稽古をやってきたと思います」