⇒最初にクリックお願いします
沖タイは衆院選を目前にして、連日「軽石被害」の報道で大童。
だが、軽石被害は天災であり、米軍による被害ではない。
せめて米軍機からペットボトルの蓋でも落下してくれたら「米軍被害」と誇大報道で、「新基地建設反対」の候補者を支援できるのだが。
止むえず、過去の「米軍被害」を特集でせめて「オール沖縄」支援の印象操作。
「軽石被害」の間に「米軍機被害」の過去記事を挿入する頭脳作戦。
それがこれ。
■沖タイ一面
[+50歳の島で 世替わり、あれから]読谷村楚辺 ジェット機事故 米軍機墜落 あわや集落に 操縦放棄 住民の命軽視
「あの飛行機、変な飛び方をしているな」。1971年10月29日。読谷村楚辺で知人宅の建設を手伝っていた当時37歳の池原玄夫(げんお)さん(87)は、同僚の声に反応し、空を見上げた。機首を海に向けていた飛行機が左に急旋回し、100メートル先の畑に墜落した。
駆け付けてみると、植えたばかりの丈の低いサトウキビが根こそぎ倒されていた。乗員の姿はない。無線で連絡を受けたのか、数分後に米兵たちが集まってきた。
現在の県道6号の東側。座喜味と楚辺と都屋の境目の民間地で、少しずれていたら集落に大きな被害を与えていた。
この日の沖縄タイムス夕刊は、嘉手納基地所属のT33ジェット練習機が墜落したと伝えた。畑で作業していた男性が爆風で吹き飛ばされ、けがを負ったと被害を報じている。
乗員2人は車輪の一つが出ないという理由でパラシュートで脱出。現場を訪れた司令官は「1~2秒遅ければ集落に突っ込んでいた」と説明した。住民らは「胴体着陸もできただろうに、われわれの命を虫けらのように扱っている」と批判した。
読谷村出身の屋良朝苗主席は5時間後に現場を訪れ、基地司令官に「厳重に警告する」と伝えたが、米軍は翌朝から何もなかったように訓練を再開した。
同日夜には、楚辺区公民館で抗議集会を開催。翌日には村議会が抗議決議を全会一致で可決した。4日後には約500人が参加する村民大会に発展し、「県民の生命と財産を脅かす軍事演習の中止と一切の軍事基地の撤去」などを求める決議文を採択した。
戦後76年間で、読谷村内の民間地に米軍機が墜落した唯一の事故だ。しかし50年たった今、村内では不思議なほどにこの事故を覚えている人が少ない。(編集委員・福元大輔)=28面に関連
(写図説明)読谷村楚辺の米軍機墜落事故を報じる1971年10月29日付の沖縄タイムス夕刊
■沖縄タイムス28面
[+50歳の島で 世替わり、あれから]薄れた衝撃の記憶 読谷の仲村渠さん 楚辺の墜落目撃 悲惨な事故 あまりに多く
読谷村長浜の仲村渠一俊さん(67)は、1971年10月29日の村楚辺での米軍機墜落事故を目撃した。当時高校3年生で、読谷高校から自宅へ帰るバスの車窓に黒焦げた残骸や憲兵の姿が映り込んだ。(1面参照)
しかし翌日の学校で、事故は話題にならなかった。今、村内の米軍関係史を調べる仲村渠さんは「犠牲者が出なかったこと、核を保管していた弾薬庫やミサイル基地ではなく民間の畑に落ちたこと。その二つでホッとした気持ちの方が強かった」と振り返る。
当時の読谷村の面積の7割以上を米軍基地が占めていた。特に読谷補助飛行場でのパラシュート降下訓練は事件・事故が続発し、村民に恐怖を与えた。
50年8月、補助燃料タンクの落下で3歳女児が片足切断、全身打撲で死亡。63年1月と4月、民家に米軍貨物が落下。64年3月、村内数十カ所で4トンのコンクリートブロック、ジープ、弾薬入りの木箱、米兵などが次々と落下。65年6月、落下してきたトレーラーの下敷きとなり、小学5年の棚原隆子さん死亡…。
仲村渠さんは「衝撃の大きい悲惨な事故があまりにも多かったことで、楚辺の事故の記憶は薄れたのではないか」と考えている。
地域の歴史を刻んだ「楚辺誌」にも、事故は触れられていない。墜落の瞬間を見た池原玄夫(げんお)さん(87)は、本紙の取材で、初めて事故を語った。その後に楚辺区の会計や区長を務めた立場から「米軍に強く抗議できないという楚辺区特有の事情もある」との見方だ。
45年の沖縄戦で米軍の上陸地点となった読谷村は、一時村の面積の9割を占領された。楚辺の住民は収容所から元の集落に戻った後、52年にトリイ通信施設の建設のため、再び立ち退くことになる。その時の条件が施設の運用に支障のない範囲での耕作を黙認することだった。
施設内の黙認耕作地への出入りは米軍の許可が必要で、盗難事件が起きた際などには一方的に禁止された。池原さんは「豚の餌となるイモを栽培していた人は、畑に入ることができず、困っていた。米軍には逆らえず、目立った抗議もできない雰囲気があった」と当時の状況を説明した。
村史編集室の豊田純志さんは村内の米軍関係事件・事故を取り上げた2019年の特別展を準備中、これまで村が使用してきた資料写真が1971年の楚辺の事故ではなく、62年の嘉手納での給油機墜落事故だったことに気付いた。
豊田さんは「目まぐるしい時代の中で、混乱していたこともあるが、基地が生活の身近にあることを象徴する事故として、しっかりと伝えていきたい」と事故の記憶を継承する重要性を強調した。
(編集委員・福元大輔)
(写図説明)当時の通学路をたどりながらジェット機墜落事故について説明する仲村渠一俊さん=25日、読谷村楚辺
(写図説明)読谷村楚辺での米軍機墜落事故を振り返る池原玄夫さん=27日、読谷村楚辺
(写図説明)米軍T33練習機が墜落した現場を検証する米軍関係者ら=1971年10月29日(読谷村史編集室提供)