沖縄タイムスが沖縄戦に関して多くのデマを流し沖縄戦を歪曲したことを書いてきた。
沖縄タイムスの歴史歪曲の罪は大きい。
『うらそえ文藝』が、過ちを訂正して謝罪せよと告発に踏み切ったのは、良識ある県民の意志を肌で感じたからであろう。
タイムスの沖縄戦歪曲を象徴する報道が二つある。
一つは1950年(昭和25年)に出版された『鉄の暴風』。
もう一つは『鉄の暴風』発刊の20年後、1970年3月27日付沖縄タイムス社会面を飾った衝撃的記事である。
戦後一貫して沈黙を守っていた渡嘉敷島、座間味島の両隊長が、「自決命令をしていない」と積極的に発言し始めるのは、実はこの1970年の記事以降のことである。
勿論梅澤氏は「鉄の暴風」の1980年改訂版発刊までは、死亡とされていたので、梅澤氏の発言と赤松氏の発言には凡そ10年のタイムラグがある。
『鉄の暴風』については、多くの研究者がそのデタラメな内容を論じ尽くしているのでここでは省略し、今から約40年前の1970年3月27日付沖縄タイムス記事について触れる。
1970年3月27日といえば、大江健三郎氏の『沖縄ノート』も曽野綾子氏の『ある神話の背景』もまだ発刊されておらず、『鉄の暴風』が沖縄戦のバイブルのようにいわれて時期である。
その日は渡嘉敷島で25回目の戦没者慰霊祭の当日で、沖縄タイムスは、前日の26日、慰霊祭に参列のため那覇空港に降り立った渡嘉敷島の元戦隊長赤松嘉次氏と空港で待ち受けた約40名の「抗議団」とのトラブルを大きく報じている。
その日の沖縄タイムス社会面トップを飾った大見出しはこうだ。
忘れられぬ戦争の悪夢
<赤松元海軍大尉が来島>
空港に“怒りの声”
抗議のプラカードを掲げた抗議団。 それに取り囲まれた赤松氏の写真と共に、タイムスは約40名の抗議団の赤松氏に対する「怒りの声」を報じている。
赤松元陸軍大尉のことを、「元海軍大尉」と大見出しで報じる沖縄タイムスの無知は笑止だが、それはさておき、その記事から「県民の声」を一部拾うとこうなる。
「赤松帰れ」
「今頃沖縄に来てなんになる」
「県民に謝罪しろ」
「300人の住民を死に追いやった責任をどうする」
「慰霊祭には出てもらいたくない。 あなたが来島すること自体県民にとっては耐えがたいのだし、軍国主義を全く忘れてしまったとしか思えない。 現在の日本の右傾化を見ろ」
この紙面構成を見ると、読者は「鬼の赤松の来県に抗議する渡嘉敷島の住民」という印象を刷り込まれてしまう。
わずか40名の左翼団体の抗議を、あたかも県民代表あるいは渡嘉敷住民であるかのように報じた沖縄タイムスは沖縄戦を歪めた首謀者であり、その罪はきわめて重い。
実際の抗議団は那覇市職労を中心にした左翼団体であり、
赤松氏に抗議文を突きつけたのも渡嘉敷村民ではなく那覇市職労の山田義時氏であった。
肝心の渡嘉敷村は赤松氏の慰霊祭出席を歓迎しており、村民を代表して玉井喜八村長が出迎えのため空港に出向いていたくらいだ。
「うらそえ文藝」編集長の星雅彦氏は、偶々そのときの那覇空港の「騒動」の一部始終を目撃していた。
結局赤松氏は那覇に足止めを食い、赤松氏と同行の元部下たち一行は那覇市松山の大門閣ホテルに一泊し、翌27日、船で渡嘉敷に向かうことになるが、星氏は同じ船に便乗し慰霊祭にも参加した。
星氏は偶然目撃した前日の空港での左翼団体の暴挙と、これを県民の意志であるかのように報道する地元マスコミの姿勢をみて、
沖縄で流布する集団自決の「定説」にますます疑問を持つようになったという。
星氏は元赤松隊一行と共に渡嘉敷に向かうが、船の中で赤松隊一行は持参の経文の書かれたお札のようなものを広げてずっとお経を唱え続け、渡嘉敷港が近づくと持参の花束とお経のお札を海に撒いていた。
慰霊祭の最中に「赤松が上陸する」との知らせを受け、マスコミと「民主団体」が現場に飛んで行ったが、赤松氏は個人で舟をチャーターして島に接岸したが、結局島民に弔文と花束を託して上陸することなく島を去ったという。
■沖縄戦史を歪曲した記事■
1970年3月27日のタイムス記事は、以後沖縄戦史を「タイムス史観」ともいえる歪な方向へ県民を扇動ていくマイルストーン的役割りを果たすことになる。
先ず、この記事を見た県民は、
「住民に自決を命じ、自分はおめおめと生き残った卑劣な鬼の赤松隊長を追い返す渡嘉敷住民」
といった印象を強烈に刷り込まれることになる。
またこの記事を見た大江健三郎氏は作家としての想像力を強く刺激され、本人の述懐によると『鉄の暴雨風』などによる沖縄戦の即席勉強と共に、新川明氏らタイムス記者のブリーフィングで得たにわか仕込みの知識で、現地取材をすることなく、作家としての想像力を駆使して「沖縄ノート」を書くことになる。
戦後起きた沖縄戦のセカンドレイプともいえる第二の悲劇は、まさに『鉄の暴風』に始まり、
「1970年3月27日付タイムス記事」によって決定的になったいっても過言ではない。
そのときの記事には、金城重明氏が首里教会の牧師という肩書きでマスコミに初登場して証言しているが、
金城氏はその後、集団自決の証言者の象徴として、マスコミ出演や著書出版、そして全国各地の講演会などで八面六臂の活躍をするのは周知のことである。
宮城晴美氏は過去に発刊した自著によって論破されるという世にも奇妙な論文を書いて大方の失笑をかったが、過去の新聞記事の発言で自分が論破されるという点では、金城重明氏も負けてはいない。
以下は続・39年前の金城重明氏の証言を加筆したものである。
■殺人者の陶酔--39年前の金城重明氏の証言■
今を遡る39年前、曽野綾子氏の『ある神話の背景』が発刊される3年前のこと。
金城重明氏は沖縄タイムスのインタビュー記事で、記者の「集団自決は軍の命令だ」との執拗な誘導質問を拒否し、心の内を正直に語っている。
米軍の無差別な艦砲射撃を受け、肉親殺害に至る心理を、
「一種の陶酔感」に満ちていたと証言している。
「ランナーズ・ハイ」とは聞いたことがあるが、まさか「キラーズ・ハイ」(殺人者の陶酔)が世の中に存在するとは氏の証言で初めて知った。
その状況を「異常心理」だと正直に認めながらも、一転して「あの光景は軍部を抜きにしては考えられないことだ」と強弁する矛盾に、
贖罪意識と責任転嫁の狭間で揺れる心理が垣間見れる。
後年、訴訟が起きるとは夢想もしなかったのか、正直に心の内を吐露してはいるが、当時から金城氏にとって「軍命」とは一生叫び続けねばならぬ免罪符であったのであろう。
ちなみに金城氏は、後に沖縄キリスト教短大の教授、そして学長になるが、当時は一牧師として証言している。
1970年3月27日付沖縄タイムス
集団自決の生き残りとして
ー牧師となった金城重明さんの場合ー
記者:当時の状況はどうでしたか。
牧師:わたしは当時16歳だったが、当時のことはよく覚えている。しかし、あくまで自分の考えていたことと自分のやった行為だけだ。
記者:赤松大尉が村民に自決を命じたといわれているが。
牧師:直接命令を下したかどうかはっきりしない。 防衛隊員が軍と民間の連絡係りをしていたが、私の感じでは、私たちの間には生きることへの不安が渦まいていた.。 つまり敵に捕まったらすごい仕打ちを受けるとか生き恥をさらすなというムードだ。 そして戦況も、いつか玉砕するというところに少なくとも民間人は追いこまれていた。
記者:自決命令についてはどう思うか。
牧師:わたしの感じでは、離島にあって食料にも限界があったし、民間人が早くいなくなればという考えが軍にあったように思う。 しきりにそうゆうことがささやかれ、村民の中では、足手まといになるより自決して戦いやすくしたら・・・ということがいわれていたし、こうした村民の心理と軍の命令がどこかでつながったか、はっきりしない。
記者:自決命令は別として西山盆地に集結させたのは軍の命令ですか。
牧師:わたしたちは阿波連にいたが、とくに集結命令というものはなく、人づてに敵は南からくるもので北部に移らなければならないということがいわれた。 事実、米軍の攻撃も南部に集中し、南部は焼け野原になっていた。 二日がかりで西山についた。
記者:村民の集結から自決までの間が不明だが。
牧師:集結した村民は米軍の攻撃にさらされ、絶望のうちに一種の陶酔が充満していた。軍部もすでに玉砕したというのが頭にあった。肉親を殺し、自分もしぬという集団自決がはじまった。今にして思えば、まったくの異常心理としかいいようはないが、とにかくあの光景は軍部をぬきにしては考えられないことだ。 私自身母親や兄弟を兄弟を殺し、自分も死ぬつもりだったが、どうせ死ぬなら敵に切りこんでやれということで米軍のいる方向へむかった。 しかし、そこで玉砕したはずの日本軍が壕にたてこもっているのをみて、なにか悪夢から覚めたようになった。 この壕は赤松大尉がずっとたてこもり村民を近づけなかったところで、住民を保護すべきはずの軍隊が渡嘉敷では反対になっていた。はっきり言って、沖縄戦で最初に玉砕したのは渡嘉敷であるが、日本兵が最後まで生き残ったのも渡嘉敷であった。(略)
(1970年3月27日付沖縄タイムス)
◇
1970年当時、金城氏は「西山盆地に集結したのも軍命ではなかった」と正直に証言している。
ところが後年、裁判が起きると、「西山盆地に集結したのは軍命である」と前言を翻し、さらに「手榴弾軍命説」が破綻すると、今度は「西山盆地に移動させたのが自決命令だ」と、とんでもない詭弁を弄すことになる。
沖縄人は概して時間にルーズであり、集合時間にもなかなか集まらないとは良く聞く話だ。
沖縄人の習性を熟知する村役人が、何事かを村民に指示するとき「軍命」を借用して村民に敏速な行動を促したことは容易に想像できる。
同じ「軍命」でも「○○に集合」程度なら、軍から直接聞かなくとも(現場に軍人がいなくとも)村役人よりの伝聞のみで容易に「軍命」に従うだろう。
だが、「自決せよ」という生命に関わる重大な「軍命」に対して、伝聞やウワサだけで、発令者の臨場もなく自主的に実行できるものだろうか。 先生の臨席しない「自習」は「遊び」と昔から相場は決まっている。
■死者の命令で肉親を殺害する不可解■
軍命による村民の自決とは、どのような状況が考えられるか。
銃剣で装備した軍人に囲まれた村民が、自決拒否や逃亡をすれば直ちに銃殺されるような状況に追い込まれたのなら、やむなく自分で自分の命を断つことも考えられる。
だが、渡嘉敷島の集団自決は、自決実行の現場に隊長は勿論、自決を強制する軍人の姿はない。
それどころか、自決実行の際は、金城氏は「軍部もすでに玉砕した」というのが頭にあった。
だとしたら自分の生命に関わる重大な「軍命」を下した命令者は、自決実行の際すでに死んでいると思われていたことになる。
既に死んでしまった人の命令を厳守して「親兄弟を殺害する」のはいかにも不自然ではないか。
自分がパニック状態による「まったくの異常心理」で肉親を殺害しておきながら、
「とにかくあの光景は軍部をぬきにしては考えられないことだ」と強弁するのは責任転嫁もはなはだしい。
くり返していう。 命令を下したとされる軍部は「既に玉砕している」と考えられていた。
金城氏の証言に従うとすれば、集団自決した住民達は、「既に玉砕している軍部」、つまり既に死んだと思われている軍人の命令で死ぬほど、愚かだったというのであろうか。
インタビューした記者は「軍命」を何とか引き出そうと、次のような核心を突く質問を連発している。
「赤松大尉が村民に自決を命じたといわれているが」
「自決命令についてはどう思うか」
だが、軍命を直接軍から聞いた者は一人もいない。
結局、軍命による集団自決はウワサであり、伝聞であり、幻であった。
■金城兄弟は父親殺害を隠していた■
もう一つ疑問がある。
金城重明氏は早い時期から母親と兄弟を殺したことは告白していながら父親を殺害していたことを長期間隠していた。(去年になってジャーナリスト鴨野守氏が金城氏が隠蔽していた父親殺害を暴きだしている)
多くの証言によると、自分で自分の命を断つことのできない女子供は父親や祖父などの年長者が手を下したという。
だが、金城兄弟の場合未成年の重明、重栄兄弟が壮年の父親を殺害した他に類を見ない例である。
やはりこれは、本人が吐露するように「キラーズ・ハイ」ともいえる「異常心理」が働いたのであり、これを軍命だと強弁しても誰も信じるものはいない。