沖縄戦の再検証のため過去ブログをサルベージ、「集団自決」・碑文が真実を語っている 軍命めぐり最終弁論2007-12-22を一部編集して再掲します。
Keiさんが先回りして、上記ブログをネットから検索してくださいました。
■Keiさんのコメント
現地の人々は「真実」を知っている
鴨野守氏の『あばかれた「神話」の正体』を読み終えました。
なにもかも、江崎師匠のブログのとおりでした。
曽野さんのほうはさすがに作家らしい文体でとても読みやすいのですが、曽野さんに限って嘘を書かれるはずがないと信頼しているので、まずは鴨野氏を先にとさせていただいて正解でした。
印象に残ったのは、文科省が高校歴史検定で「軍の強制性」を削除したことにたいする反対意見として当時大きく報道された沖縄地元民の声、
「戦争あってこそ、こうなったんでしょ。集団自決。兵隊(日本軍)が来なければ誰も死んでいない。そのせいで皆玉砕した。戦争のこと忘れさせるためになくすの?残すべき」
というもの。
そして同じように印象に残ったのは、大江健三郎の
「悲惨で恐ろしい集団自決を、美しいとか、清らかだとする欺瞞に反対するのが私の仕事だ」というもの。
二つとも典型的な戦後日本を大手を振って生きてきた日本悪者論に基づいた平和反戦思想ですね。
これこそが真実をないがしろにしてまでも、日本貶めと左翼的思想を優先させたい勢力の欺瞞だというのに。。
読み終わり、ネットで曽野綾子さんが集団自決現場に寄せたという碑文を検索しようとしていたら、なんと師匠のブログがヒットしたのでした。これもとても素晴らしい記事だったので勝手に再掲させていただきます。
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「集団自決」・碑文が真実を語っている 軍命めぐり最終弁論 2007-12-22 https://blog.goo.ne.jp/taezaki160925/e/10732b593512ba71122d9690edaffcaa
>事実、『鉄の暴風』や『沖縄ノート』を一貫して批判してきた当日記に対しても、
>沖縄県民と見られる読者から「沖縄県民のくせに云々」とか、
>「仲間を裏切る気か云々」と理屈にならない理由で罵詈雑言のコメント受けたりもした。
>このような風潮では「軍命説」に最初に異論を述べた曽野綾子氏などは県民、いや少なくとも「集団自決」の現地・渡嘉敷島住民にとっては、憎悪の対象となっても不思議ではないはずだ。
>ところが渡嘉敷住民は「集団自決」の慰霊碑建立にあたり碑文を、
>「味方」のはずの大江健三郎には依頼せずに、「敵」であり憎悪の対象であるはずの曽野綾子氏に依頼している。
~中略~
>現地の人々は「真実」を知っている。
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1970年3月26日午後5時。
渡嘉敷島の戦隊長・赤松元大尉と旧軍人十数人が渡嘉敷島の慰霊祭に出席するため那覇空港に降り立った。
渡嘉敷村の玉井村長が空港に赤松氏らを迎えに来ていた。ちなみに玉井村長は慰霊祭に参加を希望する赤松氏らの意向を村民に諮り、村民の歓迎の意を受けていた。
とおころが、玉井村長や赤松氏の予想を裏切って、空港には怒号が飛び交った。
「赤松帰れ!」「人殺し帰れ!」「お前は沖縄人を何人殺したんだ」
当時の新聞報道によれば、渡嘉敷島の住民を集団自決を命令した”鬼畜の赤松大尉”に対する県民や渡嘉敷村民との印象だった。
だが実際は、抗議団体は那覇市職労の左翼団体のみで、一般県民や渡嘉敷村民は出迎えの玉井村長以外一人もいなかった。
抗議団は那覇市職労の山田義時氏が代表して抗議文を読み上げた。
「300人の住民を集団自決に追いやった責任はどうする」
赤松元大尉はようやく口を開くいた。
「事実は違う。集団自決の命令は下さなかった」。
部下が答えた。
「責任というが、もし本当のことを言えば大変なことになる。いろんな人に迷惑がかかるんだ。言えない」
現場には詩人作家で沖縄戦研究家の星雅彦氏がいた。
結局、赤松元大尉は玉井村長とともにその場を後にした。
つまり、赤松元大尉を非難しているのは沖縄県民や、渡嘉敷村民ではなく、全く別のサヨク団体の人たちだった。
赤松元大尉は残念ながら那覇で足止めを食い、渡嘉敷島にわたることができなかった。
赤松隊に所属していた生き残り将兵十三人と遺族が渡嘉敷島に渡り、慰霊祭に出席した。
同行した皆本元少尉の話。
「島の方がたは大変残念がっていましたね。『赤松さんにぜひ来てほしかった』という声を何度も聞いております。のちに関西で行われた会合では、当時の玉井村長さんがわざわざ来てくれました」
慰霊祭の様子を琉球新報と沖縄タイムスが次のように報じた。
琉球新報(三月二十九日付)
「この日の渡嘉敷村は平日と変わらない静かなたたずまい。赤松元大尉が来島できなかったことや、その部下が初めて来島したことにも反応は少なく、報道陣が詰めかけたのが、異様にさえ感じているような冷静さ。赤松元大尉が本島まで来ていることを知らされても『肉親を失ったことは忘れられないが、いまさら古傷にふれても仕方がない』と言った言葉が返ってくるだけ。本島で繰り広げられた『赤松帰れ!』の騒ぎはウソのような『悲劇の島』二十五回忌の慰霊祭-」
沖縄タイムス(三月三十日付)
「五十年配の人たちは男女の別なく、生き残り将兵等と手を取り合った。炊事班に借り出され、赤松隊で働いていたという夫人などは、顔を覚えていた何人かをつかまえ、当時はお世話になりました、と涙を流さんばかりだった」
慰霊祭のあとの「第三戦隊戦友会村民懇親会」では村のご夫人や娘さんが島の踊りを披露して歓迎し、出席した皆本元少尉は一緒に踊ったという。
そのときの写真が一枚がある。
「集団自決は強制だった」という人たちは、この写真を見て何というのだろう。「死ね」と言った人たちを歓迎するわけない。
赤松元大尉が「遺族が援護を受けら れるよう、自決命令を出したことにして欲しい」と依頼されて 同意した事実が明らかにされたが、赤松元大尉が真相を語らな かったのは、それによって援護を受け取った遺族たちに迷惑が かかるからだった。 遺族たちのために、赤松大尉は「住民自決命令を出した悪魔 のような軍人」という濡れ衣を着せられながら、戦後ずっと弁 明もせずに過ごしてきたのだった。
渡嘉敷島の元防衛隊員や地元夫人たちに囲まれて、穏やかに記念撮影に収まる元赤松隊の一行。昭和59年撮影、 渡嘉敷港埠頭にて
■遺族会発足当時を想ふ
渡嘉敷村遺族会長 玉井 喜八
(前略) 渡嘉敷島の戦闘状況とりわけ自決命令云々については、これまで文献等に記述されたが、島に残った人々は各自異なった体験を語っており、当時の混乱した状況が偲ばれるみみである。
おもふに戦争の残した傷跡は簡単に償えるものではないが、個人が心の安らぎを得る機会は与えるべきであるとして、当時の隊長が慰霊供養のため島を訪問したいとの希望があり、遺族会に諮ったところ、当時の国策遂行のためになされた戦争行為であり、個人の意に副ふようにとのことで受入れをすることで一致した。ところが意外に村民以外の民主団体に来島を阻止され、他の隊員は島に渡ったが隊長は目的を果たすことができなかった。
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沖縄タイムス 2007年12月21日(金) 夕刊 1面
(略)
■曽野綾子氏が語る慰霊碑・碑文の真実■
渡嘉敷島の戦隊長だった故赤松嘉次氏が、
集団自決の慰霊祭に参列のため沖縄訪問した時、沖縄の左翼団体の猛抗議で渡嘉敷訪問を阻止された話は良く知られている。
その赤松氏を『者』として断罪した『沖縄ノート』やその種本になった『鉄の暴風』を伝聞による物語だとして批判した曽野綾子氏に対して、地元マスコミの論調を見る限り、渡嘉敷島の住民は決して快く思ってはいないだろうと想像しても不思議はない。
ところが地元マスコミの報道とは裏腹に渡嘉敷島の住民は曽野氏の「集団自決」の聞き取り現地調査に対して敬意を払っていた。
何と「集団自決」の慰霊碑の碑文は曽野氏が書いていたのだ。
曽野綾子氏は碑文を依頼された時の事情を雑誌『will』1月号で、次のように書いている。
<・・・この連載(「集団自決の真実」)が『諸君!』に連載され、本になった後、いつのことか私は時期も詳しくは知りませんが、渡嘉敷島に慰霊塔が建てられることになったようです。 私は今でもその碑を見たことさえありませんが。
その時、村から、その碑文を私に書くように、と言って来たのです。 私は当事者ではないし、そんな資格もないと思ってご辞退したのですが、それでも、と言われたのは、私が文章を書き慣れているからだと思われたのだろうと思ってお引き受けしました。
その際私は「あったことの事実のみ」と「自決は家族への愛からであった」という意味の一言を書きました。
もし、村の大半の人々に私が既に出版していた『「集団自決」の真実』への反感があったら、その碑文を書くことを私に依頼して来ることはないだろうと思います。>
■碑文が語る真実■
昭和25年、『鉄の暴風』(沖縄タイムス)が出版され、それを鵜呑みにした『沖縄ノート』(大江健三郎)が、その20年後に出版された。
二つの本は渡嘉敷、座間味両島で起きた「集団自決」は赤松、梅沢両隊長の命令或いは強制であると断罪した。
『沖縄ノート』出版の後、雑誌連載を経て二年後に曽野綾子著『「集団自決」の真相』(ある神話の背景)が出版された。
地元マスコミは「集団自決」は「集団自決」は軍の命令、強制によるものと主張し犯人を梅沢、赤松両隊長と断定した。
地元マスコミは、これに反対する意見は「沖縄県民を敵に廻す」といった風潮を造り上げた。
事実、『鉄の暴風』や『沖縄ノート』を一貫して批判してきた当日記に対しても、
沖縄県民と見られる読者から「沖縄県民のくせに云々」とか、
「仲間を裏切る気か云々」と理屈にならない理由で罵詈雑言のコメント受けたりもした。
このような風潮では「軍命説」に最初に異論を述べた曽野綾子氏などは県民、いや少なくとも「集団自決」の現地・渡嘉敷島住民にとっては、憎悪の対象となっても不思議ではないはずだ。
ところが渡嘉敷住民は「集団自決」の慰霊碑建立にあたり碑文を、
「味方」のはずの大江健三郎には依頼せずに、
「敵」であり憎悪の対象であるはずの曽野綾子氏に依頼している。
「県民の10人に1人が参加した」といわれる「県民大会」にも渡嘉敷島から参加した人は僅かで、
それも「集団自決」を指導したといわれる当時の古波蔵村長の縁の人たちだけだったという。
地元マスコミが造り上げた「現地の人々は曽野氏に反感を持っている」といったミスリードが真実でないことは曽野氏が書いた碑文が証明している。
つまり沖縄タイムスを始めとする地元マスコミにミスリードされているのは本島の「沖縄県人」であり、
現地の人々は「真実」を知っている。
もう一度曽野綾子氏の言葉を引用する。
<もし、村の大半の人々に私が既に出版していた『「集団自決」の真実』への反感があったら、その碑文を書くことを私に依頼して来ることはないだろうと思います。>
碑文が真実を語っている。