狼魔人日記

沖縄在住の沖縄県民の視点で綴る政治、経済、歴史、文化、随想、提言、創作等。 何でも思いついた事を記録する。

昨日の敵は今日の友!阿嘉島の日米激戦、日米軍が会食

2023-06-03 17:02:13 | 資料保管庫

 

 

 

 

「住民は軍機の規制を受けないからそれは自由意志に任せる」

これこそ、「軍が住民に自決を命令する」という大ウソの証明である。

 

沖縄には、現在も「米軍基地問題」、「沖縄戦」という二つのタブーがある。「米軍基地問題」は我が国の安全保障という観点から見れば全国民的問題であり、連日のように「反辺野古活動家」の反基地活動が新聞を賑わしている。

だが、「沖縄戦『集団自決』に関しては、沖縄の言論界を圧倒的シェアで占める沖縄2紙が絡むため、「沖縄の事情」や「沖縄の歴史」に疎い県外の論者は口を挟むな、などと排他的論調でタブー化に輪をかけている。

県外の人は口出しするなと言いながら、沖縄戦に関し沖縄メディアが隠蔽する沖縄戦のタブーについて検証しよう。

明らかに県外人である北海道の大学生チームが、阿嘉島の戦闘の日米投降交渉について現地取材をしたり、沖縄テレビの山里孫存氏の意見を聞き出しているのだ。

琉球新報の子会社である沖縄テレビの山里孫存氏は、言いにくそうに概ね次のような発言をしている。

「従来信じられた戦記を書くのは楽」。

「そうでないことを書くとバッシングを受ける」。

「体験者の数だけ真実はある」。

山里孫存氏は、右にも左にも偏向しないドキュメンタリー作家上原正稔氏の沖縄戦に対する姿勢に同調した作品で、第14回FNSドキュメンタリー大賞にノミネートされたことがある。

上原正稔さんの「沖縄戦の記録発掘」に対する姿勢がどのようなものかは、次の沖縄テレビ・サイトから垣間見ることが出来る。


第14回FNSドキュメンタリー大賞ノミネート作品http://www.fujitv.co.jp/b_hp/fnsaward/14th/05-330.html
『むかし むかし この島で』
(沖縄テレビ制作)


<10月31日(月)2時50分~3時45分【10月30日(日)26時50分~27時45分】放送>  
 

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 沖縄という小さな島を襲った、あの激しい鉄の嵐から60年。「島の形が変わった」といわれたほどの地上戦が繰り広げられてから、長い年月が経過した今、この島には次々と、あの沖縄戦を記録したフィルム映像が届いている。
 当時のアメリカ軍には、100人を超えるカメラマンが同行し、沖縄で行われた戦争を詳細に記録していたのだ。
 「捕虜となった老夫婦」「井戸から救出される子供たち」「米軍司令官と話す美しい着物の女性」…
 60年前の映像に秘められたそれぞれの物語を解き明かそうと、調査が始まった。あの戦場にいた人々の記憶により、次々と命を吹き込まれていく沖縄戦記録フィルム。第14回FNSドキュメンタリー大賞ノミネート作品『むかし むかし この島で』(沖縄テレビ制作)10月31日(月)2時50分~3時45分【10月30日(日)26時50分~27時45分】では、眠りから覚めた映像を通し、この島で起きた、あの「戦争」の「真実」に光を当てていく


「見どころ」
 アメリカ公文書館に保管されている、膨大な数の沖縄戦記録フィルムの存在は、20年以上前に話題となり、その映像は、部分的にコピーされ沖縄に届き、上映会が開かれるなどして、大きな反響を呼びました。
 当時届いた記録フィルムは、マスコミにも公開され、地元沖縄の新聞やテレビなどでも、度々使用されてきましたが、沖縄戦を記録した映像は、主に「戦争」という「悲惨」な記憶を表現する「手段」としてしか考えられてきませんでした

 つまり、「戦闘シーン」を中心とした「反戦平和」を訴えるための限られたシーン、「つらく」「悲しい」映像ばかりが紹介されることが多かったのです。
 しかし、沖縄戦記録フィルムには、これまで世に出てこなかった「真実」が封印されていました。

 数千本にものぼるといわれる沖縄戦記録フィルムの検証を続けている作家・上原正稔さん(62)。上原さんは、独自のルートで、アメリカで眠っている「沖縄戦映像」を取り寄せる活動を続けています。「反戦平和なんてボクには関係ない!」と言い放つ彼は、沖縄戦記録フィルムに残されている「場所と、人物を特定したい」と沖縄各地を調査し、証言を集めてきました。

 上原さんはこう言います。

 「大切なことは、沖縄戦を撮影したフィルムに、無数の沖縄住民の姿が映っているということだ。ボクは、フィルムの中の『主人公』たちに、この映像を届けたいんだ!」

 そう、沖縄戦を記録した映像の中には、悲惨な戦闘シーンだけではなく、生き残った沖縄の人々の、驚くほどの「笑顔」が残されていたのです。

 上原さんの強い想いに共感した、番組スタッフは、一緒に「沖縄戦フィルム」に関する調査を開始しました。

 1年半にわたり、沖縄各地で開いた上映会と、そこで得られた証言、そして、人々の記憶と映像とを照らし合わせた結果、フィルムに閉じこめられていた数々の「物語」が、明らかになっていきました。

「せがまれて家族を殺した祖父」
「初めてアメリカの捕虜となった老夫婦」
「幻の収容所シモバル」
「井戸から救出されたこども達」
「600人もの命を救った美しい着物姿の女性」

 映像を通して、60年前の自分と対面した人や、懐かしい家族と再会した人々は、堰(せき)を切ったように、長い間、胸の中に封じ込めてきた想いを語り始め、フィルムに封印されていた真実の物語は解き放たれていったのです。

 

担当コメント>沖縄テレビ報道部・山里孫存
 番組制作のきっかけは、「上原正稔」という、超個性的な人物との出会いでした。沖縄戦の研究に、鬼気迫る執念を持って取り組みながら、「反戦平和なんて関係ない!」と言い放つ上原さんという人間に、惹きつけられました。
 そして、「沖縄戦」と向き合ううちに、僕自身が、60年前の「映像」にハマってしまいました。はじめは「つらい思いをした当事者たちに、この映像を見せていいのか?」と、ちょっと腰が引けながら恐る恐る上映会を開き、調査を行っていたのですが、僕の心配をよそに、どの場所にいっても、「ありがとうね」という感謝の言葉が返ってきました。

 戦争を追いかける取材をして、こんなに清々しい気持ちになれるとは、考えてもいませんでした。
 60年という長い時間が経ってしまった今だからこそ、作ることができた番組なのかなと思っています。
 これまでの「戦争もの」とは、全く違うイメージの番組だと思うので、ぜひご覧になって下さい。


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<スタッフ>
語り : 平良とみ
 
プロデューサー : 船越龍二(沖縄テレビ)
ディレクター : 山里孫存(沖縄テレビ)
撮影・編集 : 赤嶺一史(沖縄テレビ)
ナレーター : 本橋亜希子(沖縄テレビ)

             ◆

沖縄の大マスゴミ琉球新報逆転敗訴!上原正稔氏逆転勝訴!

 

実は約10年前、上原正稔さんが琉球新報を相手にパンドラ訴訟を係争中、筆者は上原さんと二人で、沖縄テレビに山里孫存氏を訪ねたことがあった。

山里さんに有利に証言を依頼しようと思ったのだが、残念ながらその時は「忙しい」などと、面会することはできなかった。

今にして思えば

【おまけ】

パンドラの箱掲載拒否訴訟、琉球新報の言論封殺2011-11-09

昨日那覇地裁で「パンドラの箱掲載拒否訴訟」の第4回口頭弁論が行われ原告側から膨大な数の証拠書類が提出された。

 

琉球新報が2007年に上原さんの原稿を掲載拒否したとき、まさか後に上原さんが巨大組織を相手取って訴訟に踏み切るとは夢にも考えていなかった。 従ってそのときの掲載拒否の理由も「社の方針に合わない」と比較的正直に、2007年当時の社のキャンペーンに合わないからと吐露していた。

2007年当時の琉球新報の全社を挙げてキャンンペーンとは何だったのか。

3月末、文科省は高校歴史教科書から「沖縄戦の集団自決は軍の命令である」という記述を削除せよとの検定意見を発表した。

これに反発した琉球新報と沖縄タイムスの沖縄2紙は連日「集団自決は軍命である」というキャンペーンを張り、読者をそのように印象操作するため、裏付けのないデタラメな証言を毎日のように垂れ流していた。

昨日エントリーの「オカッパの少女は自分だ」と名乗り出た詐話師・大城盛俊氏のヨタ話でも「社の方針に合う」という理由で平気でスクープとして大々的に報道した。

だが、琉球新報が「社の方針」で連載中の上原さんの原稿を掲載拒否したとなると、琉球新報が検閲をしたことになり、言論封殺を認めたことになる。

予期しなかった上原さんの提訴に動揺した琉球新報は、裁判に際しては突然言を左右にして、掲載拒否の理由を、「以前と重複する原稿だったから」と変更し、言論封殺ではなく「編集権」だと主張してしている。

創作作家ではなく実証を重んじるドキュメンタリー作家の上原さんのテーマは主として「沖縄戦」であり、これまでも琉球新報や沖縄タイムスの新聞連載や地元出版社で数多くの多くの「沖縄戦記」を著している。

当然、引用資料や事例の表現に重複はありうるもので、同じ事例を記述するのに全く重複を避けるとしたら、琉球新報のようにウソを書かねばならぬ。

「うつろな目の少女」の事例のように。

琉球新報は、1985年の取材時には「少女は玉那覇春子さんが本人である」と報道し、2007年の取材のときは「大城盛俊氏が本人である」とこのなるウソをついてでも記述を変えなければいけなくなる。

だとしたら琉球新報は「集団自決は軍命である」とウソでもいいから記述するように上原さんに暗に強要したことになるではないか。

昨日の口頭弁論で上原さんが発言を求めたが被告側弁護士の「拒否」にあい、言いたかったことを省略したようなので、提出した陳述書を以下に公開する。

               ★

ぼくが読者に伝えたかったことと琉球新報の言論封殺
2011年11月5日

上原正稔

 ぼくは「パンドラの箱を開ける時」の「はじめに」の中で次のように書いた。――第1章は“第1話「みんないなくなった-伊江島戦」から始まる。伊江島の戦いは知られているようで知られていない。数多くの住民が女、子供まで戦闘に参加し、死んでいった。その凄惨な戦いを知ることは慶良間の「集団自決」を理解する重要な手掛かりになるだろう。――
 ぼくはそのため沖縄史料編集所で発見した第77師団アクション・リポート-伊江島戦を中心に1996年に新報で発表した「沖縄戦ショウダウン」の中のグレン・シアレス伍長の語る伊江島戦と沖縄戦研究者たちがその存在を知りながらも読もうとせず、軽視している「沖縄方面陸軍作戦」の伊江島戦を並列して読者に伝えることにした。(これらの資料は全て前泊博盛君に渡している。)被告琉球新報は「みんないなくなった」の中でご丁寧にも「沖縄戦ショウダウン」の引用部分を逐一選び出して「新資料ではない」と的外れの指摘してくれたが、物語の本質を見失っている。細かいことを指摘すると、「みんないなくなった」伊江島戦①と②の初めの「翌日の作戦会議でブルース少将の要請通り、二個連隊が伊江島に上陸することになった」までは「沖縄戦トップシークレット」の中の「情報戦の敗北と勝利」から引用したものだ。だが、被告はそれにも気付いていない。ぼくの本を全く読んでいないのだ。被告が「沖縄戦ショウダウン」の引用を知ったのはぼくが「慶良間で何が起きたのか」の冒頭で「先ず、慶良間と渡嘉敷で住民の“集団自殺”を目撃したグレン・シアレス伍長の証言から始めよう。シアレス伍長は第1話でも重要な証言してくれた。第77師団306連隊第1大隊A中隊の歩兵である」と書いたからに外ならない。ぼくは徒らに前に発表したものを使っているのではない。それが物語の本質を知る上で大切なものであるからだ。全ては密接に繋がっているのだ。
 ぼくは「みんないなくなった」の終盤の⑫と⑬で第77師団アクション・リポートの「日本軍はいかに戦ったか」と「住民戦闘員はいかにして戦ったか」を伝えた。そして「千五百人以上の住民が武装し、軍服を支給されていた。これらの住民兵はアメリカ軍の攻撃に対し積極的に死に物狂いで抵抗し、自殺(玉砕)突撃と夜襲に参加した。多くの77師団の兵士たちが指摘しているが、日本軍の夜襲が終わった前線兵士たちは女性を含む住民らの死体を発見した。そんな例が数多い。多くの場合、住民の戦いぶりと日本兵の戦いぶりには違いが見られなかった。日本兵は住民服を着用、住民は軍服を着用していたのだ。他の住民のある者は武装もせず、日本兵と行動を共にし、ある者は日本兵に手榴弾や爆雷を運び、日本兵と共に死んだ。日本軍はよく戦った。持てる物を最大限に利用したのだ。(中略)-この指摘は極めて重要である。伊江島では軍民が完全に一体となって命を懸けて戦い、死んでいったのである。グレン・シアレスさんの物語だけでなくアメリカ軍の記録も日本軍の記録も明快にこれを裏付けている。このような事実はこれまで誰も知らなかったことだ。もっと正確に言えば誰も知ろうとしなかったのだ。」と記した。「住民戦闘員はいかにして戦ったか」はアメリカ軍の冷静な観察記録である点に大きな意味がある。
これが慶良間の「集団自決」を理解する重要な手掛かりだ、ということをぼくは「はじめに」示唆していたのだ。そして第2話「慶良間で何が起きたのか」を伝えようとしたのだ。
今、語る者はいないが、伊江島住民は沖縄戦の中で最大級の戦死者を出した。伊江島戦の直前に島に残っていた四千五百人(推定)の住民のうち二千五百人(推定)が軍と運命を共にし、戦死した。生き残った二千四十一人(確定数)は飛行場建設というアメリカ軍の都合により、慶良間諸島の渡嘉敷、座間味、慶留間に送られた。そして伊江島の住民は「みんないなくなった」のだ。
 こうして、ぼくは第1話で多くの伊江島住民が日本軍と完全一体となって戦い、死んでいったことを読者に伝えた。「みんないなくなった」を入口にして「慶良間で何が起きたか」を伝えようとした。日本軍と一体となって戦った、あるいは戦おうとしたのは伊江島住民だけではない。慶良間の住民も同じ運命を辿るはずだった。ところが、そうはならなかった。第2話「慶良間で何が起きたのか」は渡嘉敷、座間味、慶留間の「軍がいた」島々の「玉砕」と呼ばれた集団自殺と、同じく「軍がいた」阿嘉島で「集団自殺が全く起こらなかったこと」を伝え、「軍がいなかった」屋嘉比島で「集団自殺があったこと」を伝え、その時の島々の住民の心理状況を徹底的に分析し、「集団自決」そして今では「集団死」とか「強制集団死」とかの言葉が新聞紙上や書籍に氾濫している現状も徹底的に分析しようと考えた。そして、戦後の援護法を“玉砕者”あるいは“集団自殺者”の遺族に適用する過程で真相が歪められ、隠されていったことを明らかにするつもりだった。
 2007年6月17日、ぼくは前泊記者に「慶良間で何が起きたのか」についての添付ファイル2件を送った。写真を入れて、5回分だった。その冒頭でぼくは次のように書いた。「今、沖縄の新聞は「軍命による集団自決」が教科書から削除されてようとしている問題で国に対して厳しい批判をしている。この問題は渡嘉敷の海上挺進第三戦隊長であった故赤松嘉次さんの弟と座間味の海上挺進第一戦隊長であった梅澤裕さんが「自決命令をだしていない」としてその名誉を傷つけたとされる「沖縄ノート」の著者大江健三郎さんと岩波書店、そして新崎盛暉さんを大阪地裁に訴えたことに起因する。“集団自決”が行われた慶留間、渡嘉敷、座間味で一体どのようにして“集団自決が始まり、終わったのか、そして、なぜ集団自決が起きたのか、これから詳しく検証しよう。読者の多くは自決命令があったかなかったか既に結論を出しているはずだ。この物語を読む前に、読者は頭を白紙にする、つまり結論は最後に下すことだ。いかなる結論を下すにしても、検証の前に結論があっては、真実は見えてこない。」
 この時点では気づかなかったが、前泊ら四人組の編集委員が過激に反応するとは思わなかった。ぼくは読者に語りかけているのであって、編集委員らのことは頭になかった。第一、ぼくは既に十年以上も前に「沖縄戦ショウダウン」の長い「注:渡嘉敷で何が起きたのか」で新聞、特に沖縄タイムスを徹底的に批判し、新報の記者らはよくぞ書いてくれたな、と賞賛してくれたからだ。第二に、言うまでもないことだが、ぼくの「表現の自由」の権利は憲法で守られていることに疑問はないからだ。四人組の編集委員らが反応したのはこれだけではない。被告側の第4号証書には2007年6月19日付と記され、この日「慶良間で何が起きたのか」が始まることになっていたことを示している。だが、この証書には1945年4月2日付のニューヨーク・タイムズの「渡嘉敷の集団自殺」についての記事がスッポリ抜けているのだ。1985年に発表した時との大きな違いはsoldiersを「日本兵」と訳したが、実は「防衛隊」だったということだ。この違いは大きい。今、渡嘉敷の集団自決の碑には同じ記事の抄訳が記され、末尾に日本兵とは防衛隊のことである、との注が付いている。これが被告側がニューヨーク・タイムズの記事を隠した大きな理由だったのだ。
 ぼくは6月15日(金)に前泊が東京に行く前に彼に会った。その時までに原資料と「慶良間で何が起きたのか」の原稿を渡していたが、彼は「おもしろそうだな」と上機嫌で言った。東京で誰に会ったか想像はつくが、想像は事実ではないからここでは述べない。そして彼がどのようにして四人組の仲間に連絡したのかも知るところではない。だが、6月18日の月曜日、例の“集団リンチ事件”とぼくが呼んでいる言論封殺事件が起きたのだ。彼らは事件が起きたのは6月27日だとしているが、それは嘘だ。ぼくの物語を丹念に読んでいた江崎孝さんが毎日のように言論封殺をブログに記し、6月19日には新報にどうなっているんだ、と電話していることをブログに記している。この時にはぼくは江崎さんとは面識がなかったことを特に述べておく。
 2011年6月18日時点の四人組の氏名と職名は前泊博盛(次長・編集、論説委員)、上間了(編成、整理本部長)、枝川健治(次長兼文化部長)、玻名城泰山(次長・報道本部長・現在編集局長)であった。6月25日には時期はずれの人事が発令され、上間は論説委員長、枝川は編成、整理本部長に昇格している。詳しいことは知らないが、新報内部の闘争があったことを伺わせるものだ。この四人組が6月27日にぼくとの“話し合い”があったとしているのは“十分に検討して話し合った”と言いたいのだろうが、それは作り話にすぎないことを指摘しておこう。実はこの頃、新報もタイムスも一大キャンペーンを張っていたのだ。2007年3月31日の新報、タイムスの紙面は「文部科学省が教科書検定に際して集団自決は軍による命令、強制によるとの表現を削除するよう教科書会社に求めた」とする記事で埋め尽くされた。その日から両紙は「集団自決は軍命によるもの」とする大学教授や沖縄戦の研究者と称する文化人や知識人の意見、論文を連日のように載せ、社説で各市町村議会に意見書を提出するよう、けしかけ、ついに2007年5月14日、豊見城市議会が「軍による強制は明確」との意見書を出し、翌日には那覇市議会が「集団自決が日本軍による命令、強制なしには起こりえなかった」とする意見書を出し、5月29日には座間味村議会、6月14日には渡嘉敷村議会も同様の意見書を出し、6月28日の嘉手納町議会、国頭村議会の意見書により沖縄県内41市町村議会全てが全く同じ内容の意見書を出した。沖縄県議会も6月22日、7月11日と二度にわたり意見書を出すという異例の対応だった。そのキャンペーンを先導したのが、琉球新報であり、沖縄タイムスだった。その詳しい内容は弁護士から提出することになろうが、戦時中の“鬼畜米英”を皆が信じ、玉砕していった狂気の裏返しとしかぼくには思えないのだ。
そんな中で被告琉球新報はぼくが“沖縄住民は軍民完全に一体となって戦死した”とか“援護金が欲しいがために赤松さんと梅澤さんを犠牲にした”とか真相を告げることは言語道断と言っているのだ。だが、それこそが言語道断なのだ。ぼくには確信がある。日本国憲法の「表現の自由」は厳として生きており、新聞社がそれは守ることは当たり前のことだ、と。
現実にはぼくは言論封殺に遭い集団自殺の真相を読者に伝えることができないでいる。

去る10月中旬、沖縄のメディアが「世界のウチナーンチュ大会」で浮かれて騒いでいる時、ぼくは兵庫県に向かい、故赤松嘉次さんの実弟秀一さんに迎えられ、一緒に加古川市のお寺の赤松嘉次さんが眠るお墓に花束と泡盛を捧げ黙祷した。ぼくは神も仏も遠い存在だったが、人として当たり前のことをやり遂げ、永年の肩の荷が降りた気がした。

琉球新報だけでなく沖縄の人々に伝えたい事がある。梅澤裕さんは九十三歳の高齢だが、まだ健在であられる。一日も早く、梅澤さんに心を込めて謝罪し、許しを乞うことだ。彼はきっと感涙し、「ありがとう」と言ってくるはずだろう。その日が近いことを祈る

 

激戦化の沖縄で 日米兵士が会食

米軍文書に秘話

 

 

1945年阿嘉島の平和交渉

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 1945年6月26日、慶良間諸島の阿嘉島の海岸で、阿嘉島に進駐していた海上挺進隊第二戦隊の野田隊への降伏勧告の交渉が行われた。

従来信じられた戦記を書くのは楽。

そうでないことを書くとバッシングを受ける

 

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コメント (2)

牧港篤三談執筆者が語る『鉄の暴風』裏話 『ウソの暴風』か?追記あり

2023-06-03 11:06:29 | 資料保管庫
 

 

執筆者が語る『鉄の暴風』裏話 『ウソの暴風』か?追記あり

2009-08-07

文末に【追記】あり。

集団自決の歪曲報道は『鉄の暴風』に始まる。 『鉄の暴風』が米軍のプロパガンダ本として米軍の厳しい検閲の結果だということを示す比較的最近の記事がこれ。↓

<沖縄タイムス 1998年1月6日 朝刊 6面>

<翌日、座安さんと一緒に『鉄の暴風』の出版許可をもらいにライカムへ行ったことを覚えている。

                   ◇

大阪地裁の深見裁判長は、被告側が隊長の自決命令の証拠として提出した『鉄の暴風』に対しては、「戦時下の住民の動き、非戦闘員の動きに重点を置いた戦記として、資料価値を有するものと認めるのが相当である」と評価した。

その瞬間、原告側が提出するいかなる証拠も、『鉄の暴風』という間違った基準で判断されることになる。

それは「戦後民主主義」の呪縛に絡め取られた裁判長が、その象徴とも言える大江健三郎と岩波書店を必死に護った瞬間でもあった。

『鉄の暴風』が米軍の強力な検閲の元に出版されたということは、ジャーナリストの鴨野守氏を始め多くの研究者によって明らかにされている。

原告側に立つ論者が、『鉄の暴風』の生い立ちのいかがわしさや数多くの捏造箇所を指摘しても、被告側としては、裁判長が一定の評価をした以上、なるべくこの問題には触れずに頬被りをするのが得策である。

ところが『鉄の暴風』の集団自決の章の執筆者の遺稿に、誤記の部分を単なるウワサで書いたと告白し、「ウワサだけど当時は仕方なかった」と正直に吐露している部分がある。

詳細については『沖縄戦「集団自決」の謎と真実』(PHP研究所 秦郁彦編)の《『鉄の暴風』と太田良博》(171頁~180頁)を参照されたい。↓

沖縄戦「集団自決」の謎と真実
秦 郁彦
PHP研究所

このアイテムの詳細を見る

 

関連エントリー⇒星雅彦氏の疑義!『鉄の暴風』と地裁判決へ

『鉄の暴風』の取材背景 梅澤隊長“生死”の誤記 


今回これに加えて、張本人の沖縄タイムスが自社の出版物で、しかも『鉄の暴風』のもう一人の執筆者・牧港篤三氏の談話として米軍の圧力について語っている記述を発見した。

沖縄タイムス発行の『沖縄の証言』(上巻)(沖縄タイムス編 1971年)が、『鉄の暴風』発刊の裏話を7頁にわたって掲載し、「米軍の“重圧”の中で」「三カ月かけて全琉から資料を集める」「書けなかった、ある一面」などの小見出しの下に、米軍の監視のもとに書かざるを得なかった執筆の内幕を書いている。

1971年といえば沖縄が返還される一年前。

まさかその30数年後に『鉄の暴風』が原因となる裁判沙汰が起きようなどとは夢想もせずに、二人の執筆者は気軽に本音を吐いていたのだろう。

関連部分を一部抜粋する。

原稿は、翁長俊郎(元琉大教授)に翻訳を依頼し、英文の原稿を米軍司令部へ提出した。 当時の軍政長官シーツ少将が、感嘆久しくした、といううわさも伝わった。 にもかかわらず、しばらく反応はなかった。 あとでわかったのだが、米軍司令部で関係者が目をとおしたのち、「オレにもよませろ」と、ほかにも希望者が続出して許可が遅れたのだという。 米側にも公表だったわけである。>『沖縄の証言』(上巻)(303頁)

脱稿後翻訳して米軍に出版の許可を仰いでいることはこの記述で明らか。

「鉄の暴風」(初版)の序文には、米軍のヒューマニズムが賞賛されている。 「この動乱を通し、われわれが、おそらく終生忘れ得ないのは、米軍の高いヒューマニズムであった。 国境と民族を超えた彼らの人類愛によって、生き残りの沖縄人は生命を保護され、あらゆる支援を与えられて、更生第一歩を踏み出すことができた。 このことを特筆しておきたい」。 たしかに、戦場の各所で、多くの住民が米軍に救出され、米軍に暖かいイメージを抱いたとしても不思議ではない。 沖縄住民は日本に見離され、米国の被保護者に転落していたのだから。 
しかし、「鉄の暴風」が米軍のヒューマニズムを強調したのは、そこに出版の許可条件を満たすための配慮もなされていた、という時代的な制約を見落としてはならないだろう。>(304頁)

太字強調部分は多くの研究者が言及していたが、沖縄タイムス自らがこれを認めた記事は珍しい。

<1949年5月、具志川村栄野比で戦後のラジオ放送の第一声を放った琉球放送(AKAR)は、翌年10月1日の午後7時45分から、毎晩きまった時期に「鉄の暴風」-全文433ページを朗読放送した。 朗読担当者は川平朝清アナウンサー。 クラシックの音楽をバックに流して効果を出したという。>(305頁)

「鉄の暴風」のラジオ放送は、1945年(昭20)12月9日からNHKで放送された、ラジオ番組「真相はこうだ」を明らかにい意識していた。

「真相はこうだ」は、NHKの独自番組のように放送されたが、実際は脚本・演出までGHQの民間情報教育局が担当した。

内容は満州事変以来の軍国主義の実態を暴露するドキュメンタリーで、アメリカの都合で故意に歪曲された部分も少なくなかった。

ちなみに沖縄版「真相はこうだ」ともいえる「鉄の暴風」のラジオ朗読をした川平朝清アナウンサーは、ディスク・ジョッキーのジョン・カビラ、元日本マクドナルドマーケティング本部長の川平謙慈、そして俳優の川平慈英という3人の父親である。

<苦しかった執筆条件
牧港篤三談(執筆者の一人ー引用者注)

戦記執筆前に日本の戦記出版類をたいてい読み、太田君もトルストイの「戦争と平和」を精読したと言うことでした>(307頁)

「鉄の暴雨風」の問題の箇所「集団自決」を執筆した太田良博氏は、沖縄タイムス入社直前まで米民政府に勤務する文学愛好家であった。 

戦前からのベテラン記者であった牧港篤三氏が執筆の前に準備として目を通したのが日本の戦記物だったのに対し、文学青年の太田氏が精読したのは戦記の類ではなく、トルストイの「戦争と平和」であったという事実は「鉄の暴風」の性格を知る上で興味深いものがある。

米軍占領下の重ぐるしい時代でしたから、米軍関係のことをリアルに書けば、アメリカさんは歓迎すまい、といった、いま考えると、つまらぬ思惑があったのも事実です。 タイムリーな企画ではあったが、書く条件は苦しかった。>(307頁)

「戦後民主主義」の呪縛に取り込まれた深見裁判長が、必死になって大江健三郎と岩波書店を守るための根拠となる『鉄の暴風』に誤った評価を与えても、執筆者の太田良博氏や、牧港篤三氏がその遺稿や談話で「『鉄の暴風』はウワサで書いた」とか「米軍重圧の思惑のもとに書いた」と吐露している以上、『鉄の暴風』に資料的価値を求める深見裁判長の判断は、逆説的意味で正しいという皮肉な結果になる。

つまり、書かれた昭和24年当時の沖縄が、戦記を書くにはウワサで書くのもやむえなかった時代であり、米軍のいやがることは書けなかった時代であったという歴史を知るために、『鉄の暴風』の資料的価値は充分にあるということになる。


【追記】

太田良博記者が『鉄の暴風』を書いたとき、米軍の顔色伺いながら書いたと、吐露する場面が『ある神話の背景』に描かれている。 以下は『沖縄戦「集団自決」の謎と真実』(秦郁彦編)よりの引用です。

曽野綾子は『ある神話の背景』の取材で太田にあったときから、すでに太田の記者としての危うさを察知していた。 曽野は、逆説的に“玄人”という表現を使って、米軍と『鉄の暴風』の関係について、同書の中で次のように述べている。

《太田氏は、この戦記について、まことに玄人らしい分析を試みている。「太田氏によれば、この戦記は当時の空気を反映しているという。 当時の社会事情は、アメリカ軍をヒューマニスティックに扱い、日本軍閥の旧悪をあばくという空気が濃厚であった。 太田氏はそれを私情をまじえずに書き留める側にあった。 「述べて作らず」である。 とすれば、当時のそのような空気を、そっくりその儘、記録することもまた、筆者としての当然の義務の一つであったと思われる。 
「時代が違うと見方が違う」
と太田氏はいう。 最近沖縄県史の編纂所あたりでは、又見方が違うという。 違うのは間違いなのか自然なのか。」(「ある神話の背景」)》

驚いたことに太田氏は『鉄の暴風』を執筆したとき、その当時の米軍の思惑を自著に反映させて「アメリカ軍をヒューマニスティックに扱い、日本軍閥の旧悪をあばく」といった論旨で書いたことを正直に吐露していたのである。
このとき太田は後年曽野と論争することになるとは夢にも思わず、『鉄の暴風」を書いた本音をつい洩らしてしまったのだろう。(『沖縄戦「集団自決」の謎と真実」(183頁、184頁)

 

『鉄の暴風』発刊の黒幕座安盛徳 おまけー目取真様への伝言

2020-08-09

沖縄戦史の再検証のため、過去ブログをサルベージして『鉄の暴風』発刊の黒幕座安盛徳 おまけー目取真様への伝言2009-07-29 06:00:18

を一部編集の上再掲する。

                ★

沖縄タイムス創設者の一人座安盛徳氏は、『鉄の暴風』発刊の黒幕として知られていている。

座安氏が米軍側からの情報収集のパイプ役を果たしていたことは研究者の間ではよく知られたことが、この座安氏と米軍との関係を如実に示す沖縄タイムス記事がある。

それも比較的最近のウェブ記事なので、タイムスも削除しそこなったのか。

<沖縄タイムス 1998年1月6日 朝刊 6面>

忘れ得ぬあの取材
比嘉敬さん
岸・高嶺会談
写真撮影に没頭 メモ忘れた
 入社したのは一九五〇年。新聞広告を見て応募したが、正直言って、新聞社なのかどうか、よく分からずに応募した。比嘉博さんら採用予定枠の二人はすでに決まっていたので、どうなるのか分からなかった。そこへたまたま通りかかった専務の座安盛徳さんが私の兄をよく知っているということで、机の上にあった紙に簡単な略歴を書かされて「あしたからすぐ来い」と言われた。

 翌日、座安さんと一緒に『鉄の暴風』の出版許可をもらいにライカムへ行ったことを覚えている。

 入社三年ほどで東京勤務になった。五七年六月十一日、日本規格協会理事長の高嶺明達さんを介して、訪米前の岸信介首相と本社の高嶺朝光社長の対談を企画することができた。明達さんは岸首相のブレーンの一人だった。

 取材では、写真が肝心といわれていたので、頭には写真のことしかなかった。フラッシュをたかずにバチバチやっていたら、岸首相が「そこは逆光だから、こっちにいらっしゃい」と明達さんを明るいところへ呼ぶなど、気を使ってくださった。

 写真撮影に一生懸命なあまり、メモを取ってなかったので、対談の内容はほとんど覚えてなかった。あとで「どんな話でしたかねえ」と社長に聞いたら、「君は取材に来て、メモも取らないのか」とこっぴどく怒られた。(談)(元沖縄タイムス社長・現琉球朝日放送社長)

                     ◇

記事の主題は岸首相だが、『鉄の暴風』がライカム(米軍)の許可の下に出版されていることが、何気なく語られている。

ちなみに座安氏と新人記者の比嘉さんが『鉄の暴風』の出版許可を貰いに言ったライカムとは、在沖米軍を統率した琉球米陸軍司令部(Ryukyu Command)の略称のこと。

ライカムの跡地には現在、大手スパーイオンが「ライカム」の名を残して巨大ショッピングセンターを営業中である。

https://okinawarycom-aeonmall.com/イオンモール沖縄ライカム 2015年4月25日グランドオープン.

沖縄タイムスが忌み嫌う米軍統治の象徴である「ライカム」をショッピングセンターの名に冠しても、沖縄県民には何の抵抗はないと考えたのだろう。

沖縄には「ライカム」の他に「バークレー」など米軍統治時代を象徴するショッピングセンターがある。 これが、沖縄県民の本音と考えれば沖縄タイムスが喧伝する「米軍出ていけ!」の論旨が皮肉に思える。

■もう一つの米軍統治の象徴、ユースカー

『鉄の暴風』の執筆者の太田良博氏は、タイムスの記者になる1949年まで、ライカムと同じく米軍による沖縄住民統治に強権を振るったユースカーに勤務していた。

ユースカーとは、琉球列島米国民政府の略称で、アメリカ軍が沖縄に設けた統治機構。英語での正式名称はUnited States Civil Administration of the Ryukyu Islands、略称USCAR(ユースカー)。

米国民政府に直前まで勤務し、新聞記者としては素人同然の太田良博氏が、沖縄タイムスに呼ばれれて『鉄の暴風』の執筆を始める事は次のエントリーで触れた。

『鉄の暴風』と米軍の呪縛


 では、素人同然の太田記者に『鉄の暴風』に執筆という重責をゆだねた沖縄タイムス社が、交通も通信もままならぬ当時の沖縄で、現在の新聞社のような機動力をもって短期間で「体験者」を集めることが出来た理由は何のか。

  当時の沖縄では、交通・通信等の手段を独占していた米軍の強大な協力なくして、沖縄タイムスが情報源を確保することは考えられなかった。

 沖縄タイムス創立の昭和24年当時は民間人が沖縄全島を自由に通行することが許可されてからまだ2年しか経っておらず(昭和22年 3月22日許可)、何よりも、住民の足となる日本製トラックが輸入されるようになるのが、その年(昭和24年)の12月17日からである。

 住民の交通事情をを考えても、その当時米軍の支援なくしての『鉄の暴風』の取材、そして執筆は不可能である。

 太田氏が取材を始めた昭和24年頃の沖縄タイムスは、国道58号から泊高橋を首里城に向かって伸びる「又吉通り」の崇元寺の向かい辺りで米軍払い下げのコンセット(カマボコ建築)を利用していた。

 その頃の那覇の状況といえば、勿論又吉通りは舗装はされておらず、通行する車両といえば米軍車両がホコリを撒き散らして通るくらいで、沖縄タイムス社向かいの崇元寺の裏手から首里方面に向かう高台には、まだ米軍の戦車の残骸が放置されているような有様であった。

 太田記者はドキュメンタリー作品の基本である取材に関しては、何の苦労もすることもなく、米軍筋を通してでかき集められた「情報提供者」達を取材し、想像で味付けして書きまくればよかったのだ。

 「取材」は沖縄タイムスの創刊にも関わった座安盛徳氏(後に琉球放送社長)が、米軍とのコネを利用して、国際通りの国映館(映画館)近くの旅館に「情報提供者」を集め、太田氏はそれをまとめて取材したと述べている。

  三ヶ月という短期間の取材で『鉄の暴風』を書くことができたという太田氏の話も納得できる話である。

 余談だが座安氏が「情報提供者」を集めたといわれる旅館は、当時国映館近くの現在の浮島通りにあった「浮島ホテル」ではないかと想像される。

 
 その後同ホテルは廃業したが、通りにその名前を残すほど当時としては大きなホテルで、米軍の協力で座安氏が「情報提供者」を全島から集められるほど大きな「旅館」は、当時では同ホテルを除いては考えにくい。

国映館は今はないが、太田記者が取材した昭和24年にも未だ開業しておらず、後に世界館として開業し、国映館と名を変えた洋画専門館(『風と共に去りぬ』や『ベンハー』などが上映)である。

 このように太田記者の経験、取材手段そして沖縄タイムス創立の経緯や、当時の米軍の沖縄統治の施策を考えると、『鉄の暴風』は、米軍が沖縄を永久占領下に置くために、日本軍の「悪逆非道」を沖縄人に広報するため、戦記の形を借りたプロパガンダ本だということが出来る。 

当時の沖縄は慶良間上陸と同時に発布された「ニミッツ布告」の強力な呪縛の下にあり、『鉄の暴風』の初版本には米軍のヒューマニズムを賛美する「前書き」があったり(現在は削除)、脱稿した原稿は英語に翻訳され、米軍当局やGHQのマッカーサーにも提出され検閲を仰いでいた。

  『鉄の暴風』を書いた太田記者の取材源は、「社」が集め、「社」(沖縄タイムス)のバックには米軍の強大な機動力と情報網があった。

 ちなみに民間人の足として「沖縄バス」と「協同バス」が運行を開始するのは翌年、『鉄の暴風』が発刊された昭和25年 の4月1日 からである。

 米軍のプロパガンダとして発刊されたと考えれば、『鉄の暴風』が終始「米軍は人道的」で「日本軍は残虐」だという論調で貫かれていることも理解できる。

平成19年11月5日
真実の攻防 沖縄戦「集団自決」から62年 第2部 <13>

『鉄の暴風』誕生(1) 全社を挙げて取り組む
「米軍の人類愛で更生」
 若きアナーキストたち。右は城田徳明(大杉栄を崇拝して小杉栄と記してある)、中央は山城亀助、左は座安盛徳(県立農林校生)。座安氏は後に沖縄タイムス専務として腕を振るう(浦崎康華『逆流の中で』より) 
 新聞社は、自社の紙面に掲載した連載が、読者からの反響を呼び好評だったものを単行本にまとめるのが通例だ。沖縄タイムス編『鉄の暴風』(昭和二十五年八月、朝日新聞発行)もまた、同じ手順で作成されたと思っていたが、そうではなかった。
 沖縄タイムス社は昭和二十三年七月に創刊するが、その直後から、社を挙げてこの単行本プロジェクトが進められていたのである。本の監修を担当した常務の豊平良顕氏が「月刊タイムス」昭和二十五年一月号に、「“鉄の暴風”と記録文学 沖縄戦記脱稿記」という一文を寄せている。

 「高嶺社長以下全社員の熱意によつて、沖縄タイムス創刊当初より戦記刊行が企てられ、終戦四年目の昨年五月、本書編さんを、豊平(監修)、牧港(執筆)、大田(同上)の三名に託し、半年を経て、上梓の運びに到つたのである」(原文のまま)

 同社の専務の座安盛徳氏は、取材記者のために証言者を旅館にかき集めたり、沖縄に本の印刷機がないため上京し、朝日新聞社と発行の交渉のため骨を折るなど、まさに会社挙げての事業だったのである。

 豊平氏は脱稿記で『鉄の暴風』が「記録文学」と強調している。

 「記録文学というからには、どこまでも記録によつて、文学たるほかなく、記録というからには事実を基礎とするほかはない。而して文学というからには、作者が事実をどのようにうけとり、いかに自分の血肉と化したかを考えなければならない。しかし主観が働き過ぎてはいけない。事実をみくびり、なめてかかつてはいけない」

 さらに、「事実の中味の重さを尊重するならば、おのづから最小限の言葉の中に事実の全重量を受け止めねばならない」と、「事実の重さ」を格調高く綴(つづ)っている。しかし併せて脱稿記で目を引くのは、米軍へのすさまじいまでの心配りである。

 「なお、この動乱(沖縄戦)を通じ、われわれ沖縄人として、おそらく、終生忘れることができないことは、米軍の高いヒユーマニズムであつた。国境を民族を、越えた米軍の人類愛によつて、生き残りの沖縄人は、生命を保護され、あらゆる支援を与えられて、更生第一歩を踏み出すことができた。われわれは、そのことを特筆した。米軍の高いヒユーマニズムを讃え、その感恩を子々孫々に伝え、ひろく人類にうつたえたい。戦いの暗たんたる記録のなかに珠玉の如き光を放つ、米軍のヒユーマニズムは、われわれをほつと息づかせ、よみがえらせ理解と友情がいかに崇高なものであるかを無言のうちに教えてくれる。血なまぐさい戦場で、殺されもせずに、生命を保護されたということを沁々(しみじみ)と思い、ヒユーマニズムの尊さをありがたく追想したい」

 文中の「更生」とは、好ましくない状態を改めて元の良い状態に戻るという意味だ。ヒューマニズムあふれる米軍を相手に戦った日本軍も住民も愚かでした、そんな自分たちを殺すことなく保護し、あらゆる支援を与えてくださり更生できました、と。「そのことを特筆した」のが、『鉄の暴風』であるというのである。

 筆者の牧港篤三、太田良博両氏は昭和二十四年春から取材三カ月、執筆三カ月という短期間で仕上げて同年十一月に脱稿。その後、原稿を清書して、琉球大学の教授に英訳を依頼して、その全訳を軍政府に出すという作業があった。

 このような手間暇がかかることを考えれば、新聞紙上で一回一回事前チェックを受けて連載するという発想は初めからなかったのであろう。

 結局、米軍政府の許可が下りるのは脱稿から七カ月後の昭和二十五年六月十五日。許可が長引いたのは、時の軍政長官シーツ少将が読み始めて「これは面白い」と、手元に置いて手離そうとせず、部下連中はお手上げだったという。(高嶺朝光著『新聞五十年』)

 だが、それにしても豊平常務はなぜ、許可が下りる前に、大きなスペースで堂々と前宣伝とも言える脱稿記を書けたのだろう。不許可になる可能性を想定していなかったのか。それとも既に、許可については軍政府から暗黙の了解があったのだろうか。

 豊平氏の脱稿記の終わりに気になる一文がある。「沖縄戦記の刊行をタイムス社が承つたことは、あるいは、最適任者を得たものではあるまいかと思う」というくだりだ。果たして豊平常務が、「承る」という丁寧な言葉を使う相手は誰なのか。それを占領下の当時、絶対的な権限を誇示していた米軍政府と読めば、『鉄の暴風』の早過ぎるとも思えるこの手記の発表も合点がいくのである

(編集委員・鴨野 守)

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琉球新報によって削除された「沖縄戦記」

2023-06-03 08:32:38 | 政治
 

 

琉球新報によって削除された「沖縄戦記」

2023-06-02 04:43:50 | ★集団自決

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やはり琉球新報は昨日の夕刊でも、上原さんの連載記事を「削除」した。

読者には一言の「ことわり」も無く。

ブログなどでも自分の意見と違うコメントに反論できずに断り無く「削除」すると、読者の批判を浴びたりする。

琉球新報は報道機関としてのプライドをかなぐり捨て、連載中の記事を「削除」するという禁じ手を使ったこ。

内容が自分の意見と異なるという非常に分りやすい理由で。

 

沖縄の言論空間は、愈々異様な様相を呈してきたようだ。

サヨクの方々が常用する「戦前のような言論弾圧」がメディア主導で今正に沖縄で行われている。

巷では「新しい歴史を作る会」属していたことがあるという理由だけで、講演会の講師を下ろされる言論弾圧のようなことが平気で行われている。

「つくる会」元副会長講演 県P連が後援中止  

一方、“民意” におもねる講演会は次のように嬉嬉として報道されている。

「記述復活目指したい」 教科書執筆者が講演 (6/20 9:50)

                     

「一フィート運動」の創始者でドキュメンタリー作家の上原正稔さんの琉球新報連載特集「「パンドラの箱と開ける時 沖縄戦の記録」が読者に何の説明も無く突然中止された。

昨日から始まる第二話のテーマは「慶良間島で何が起こったか」の予定だった。

今県内では地元メディアを中心に「市民団体」が県内各議会に「教科書検定意見書撤回」の議決を求めて大運動を展開している。

それに水を差しかねない上原さんの記事は、読者に何の説明も無く中止させられるのが、沖縄の言論空間の実体なのだ。

この新聞は読者の「知る権利」には関知しないようだ。

沖縄には言論の自由もない。

「物言えばくちびるさむし・・・」

これは、琉球新報ビル内に事務所を構える産経新聞・那覇支局庁小山さんが自分のブログで、

思わず漏らした言葉。(「パンドラ」はこのまま封印されるのか? 

                     *

上原さんは、独自のルートで、アメリカで眠っている「沖縄戦映像」を取り寄せる活動を続けている。

沖縄戦記録フィルムに残されている「場所と、人物を特定したい」と沖縄各地を調査し、証言を集めてきた。

上原さんは従来の沖縄戦の研究者のように、戦争の持つ影の部分のみを捉えて無理やりイデオロギー問題に摩り替える手法をとらない。

上原さんは、当初は『鉄の暴風』等によって沖縄のマスコミがつくりあげた虚偽の神話に対する怒りを隠さない多くの集団自決当事者たちの証言に出会い、ようやく沖縄戦の真実に気がついた。

そして、「われわれが真相を知ることが『人間の尊厳』を取り戻す、すなわち『おとな』になることだと信じる」と断ったうえで、

「筆者も長い間『赤松は赤鬼だ』との先入観を拭いさることができなかったが、現地調査をして初めて人間の真実を知ることができた。」と告白している。

彼は言う。

「反戦平和なんてボクには関係ない!」

「大切なことは、沖縄戦を撮影したフィルムに、無数の沖縄住民の姿が映っているということだ。ボクは、フィルムの中の『主人公』たちに、この映像を届けたいんだ!」

そう、沖縄戦を記録した映像の中には、悲惨な戦闘シーンだけではなく、生き残った沖縄の人々の、驚くほどの「笑顔」が残されていた。

そして彼はフィルムに封印されていた沖縄戦の真実の物語を追求している異色の沖縄戦研究家でもある。

                   ◇

◆「一フィート運動」を始めたのは上原氏

沖縄戦記録フィルム1フィート運動の会

 1フィート運動は、正式名称は「子どもたちにフィルムを通して沖縄戦を伝える会」といいます。
 ひとり1フィート(約100円分)のカンパで、アメリカの国立公文書館等に保存されている沖縄戦の記録フィルムをすべて買い取り、 戦争を知らない世代に、沖縄戦の実相を伝え、沖縄を、そして日本を世界平和の原点とする運動です。

 1983年12月8日結成以来、これまでに約11万フィートの記録フィルムを買い取り、それをもとに「沖縄戦−未来への証言」(1989年)、 「沖縄戦−未来への証言(普及版)」(1990年)、「ドキュメント沖縄戦」(1995年)の制作、記録フィルムの上映活動、 沖縄戦体験者の講師派遣活動、平和のシンポジウムなど、沖縄戦の体験を通して、沖縄から世界の人々に、平和の心を伝え、広げるため、 草の根の平和活動を続けています。

「一フィード運動」は、その後同運動に大田昌秀元知事や、新崎盛暉、安仁屋政昭、石原昌家等のサヨク学者が運営委員として加わり、運動がイデオロギー化していく。

創始者の上原氏は「一フィート運動」がイデオロギー化するのを嫌ったのか、組織を離れて独自の活動をするようになる。

皮肉にもその辺の事情を琉球新報の『紙面批評(2004年)』で久場由紀子氏は次のように記している。

 10日付朝刊社会面は、ドキュメンタリー作家・上原正稔さんが米公文書館で入手した沖縄戦の映像を紹介した。沖縄戦記録フィルム1フィート運動の会は顔なしである。上原さんの行動と成果を見るにつけ、かつて1フィート事務局で手伝いをしたことのある私は「何だかなぁ」と思わざるを得ない。もともと1フィート運動は上原さんたちが始めたと聞く。であるならば、上原さんに1フィート運動の会に戻っていただいて再生を図るくらいのことをしてもいいのではないか。

                                         ◇

上原正稔さんの「沖縄戦の記録発掘」に対する姿勢がどのようなものかは、次の沖縄テレビ・サイトから垣間見ることが出来る。


第14回FNSドキュメンタリー大賞ノミネート作品http://www.fujitv.co.jp/b_hp/fnsaward/14th/05-330.html
『むかし むかし この島で』
(沖縄テレビ制作)


<10月31日(月)2時50分~3時45分【10月30日(日)26時50分~27時45分】放送>  
 

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 沖縄という小さな島を襲った、あの激しい鉄の嵐から60年。「島の形が変わった」といわれたほどの地上戦が繰り広げられてから、長い年月が経過した今、この島には次々と、あの沖縄戦を記録したフィルム映像が届いている。
 当時のアメリカ軍には、100人を超えるカメラマンが同行し、沖縄で行われた戦争を詳細に記録していたのだ。
 「捕虜となった老夫婦」「井戸から救出される子供たち」「米軍司令官と話す美しい着物の女性」…
 60年前の映像に秘められたそれぞれの物語を解き明かそうと、調査が始まった。あの戦場にいた人々の記憶により、次々と命を吹き込まれていく沖縄戦記録フィルム。第14回FNSドキュメンタリー大賞ノミネート作品『むかし むかし この島で』(沖縄テレビ制作)10月31日(月)2時50分~3時45分【10月30日(日)26時50分~27時45分】では、眠りから覚めた映像を通し、この島で起きた、あの「戦争」の「真実」に光を当てていく


「見どころ」
 アメリカ公文書館に保管されている、膨大な数の沖縄戦記録フィルムの存在は、20年以上前に話題となり、その映像は、部分的にコピーされ沖縄に届き、上映会が開かれるなどして、大きな反響を呼びました。
 当時届いた記録フィルムは、マスコミにも公開され、地元沖縄の新聞やテレビなどでも、度々使用されてきましたが、沖縄戦を記録した映像は、主に「戦争」という「悲惨」な記憶を表現する「手段」としてしか考えられてきませんでした

 つまり、「戦闘シーン」を中心とした「反戦平和」を訴えるための限られたシーン、「つらく」「悲しい」映像ばかりが紹介されることが多かったのです。
 しかし、沖縄戦記録フィルムには、これまで世に出てこなかった「真実」が封印されていました。

 数千本にものぼるといわれる沖縄戦記録フィルムの検証を続けている作家・上原正稔さん(62)。上原さんは、独自のルートで、アメリカで眠っている「沖縄戦映像」を取り寄せる活動を続けています。「反戦平和なんてボクには関係ない!」と言い放つ彼は、沖縄戦記録フィルムに残されている「場所と、人物を特定したい」と沖縄各地を調査し、証言を集めてきました。

 上原さんはこう言います。

 「大切なことは、沖縄戦を撮影したフィルムに、無数の沖縄住民の姿が映っているということだ。ボクは、フィルムの中の『主人公』たちに、この映像を届けたいんだ!」

 そう、沖縄戦を記録した映像の中には、悲惨な戦闘シーンだけではなく、生き残った沖縄の人々の、驚くほどの「笑顔」が残されていたのです。

 上原さんの強い想いに共感した、番組スタッフは、一緒に「沖縄戦フィルム」に関する調査を開始しました。

 1年半にわたり、沖縄各地で開いた上映会と、そこで得られた証言、そして、人々の記憶と映像とを照らし合わせた結果、フィルムに閉じこめられていた数々の「物語」が、明らかになっていきました。

「せがまれて家族を殺した祖父」
「初めてアメリカの捕虜となった老夫婦」
「幻の収容所シモバル」
「井戸から救出されたこども達」
「600人もの命を救った美しい着物姿の女性」

 映像を通して、60年前の自分と対面した人や、懐かしい家族と再会した人々は、堰(せき)を切ったように、長い間、胸の中に封じ込めてきた想いを語り始め、フィルムに封印されていた真実の物語は解き放たれていったのです。

 

担当コメント>沖縄テレビ報道部・山里孫存
 番組制作のきっかけは、「上原正稔」という、超個性的な人物との出会いでした。沖縄戦の研究に、鬼気迫る執念を持って取り組みながら、「反戦平和なんて関係ない!」と言い放つ上原さんという人間に、惹きつけられました。
 そして、「沖縄戦」と向き合ううちに、僕自身が、60年前の「映像」にハマってしまいました。はじめは「つらい思いをした当事者たちに、この映像を見せていいのか?」と、ちょっと腰が引けながら恐る恐る上映会を開き、調査を行っていたのですが、僕の心配をよそに、どの場所にいっても、「ありがとうね」という感謝の言葉が返ってきました。
 戦争を追いかける取材をして、こんなに清々しい気持ちになれるとは、考えてもいませんでした。
 60年という長い時間が経ってしまった今だからこそ、作ることができた番組なのかなと思っています。
 これまでの「戦争もの」とは、全く違うイメージの番組だと思うので、ぜひご覧になって下さい。


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<スタッフ>
語り : 平良とみ
 
プロデューサー : 船越龍二(沖縄テレビ)
ディレクター : 山里孫存(沖縄テレビ)
撮影・編集 : 赤嶺一史(沖縄テレビ)
ナレーター : 本橋亜希子(沖縄テレビ

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