メモ:
「集団自決」訴訟の所在尋問で入廷する金城重明さん(中央)=2007年9月10日、那覇市
「沖縄戦の真実伝えた」集団自決を生き残った金城重明さん死去 関係者ら生前をしのぶ
渡嘉敷島で起きた「集団自決(強制集団死)」を生き残った金城重明さん(93)が19日、亡くなった。体験の重みを背負いながら語り、平和を訴え続けた。活動を共にした人たちは「戦争の真実を伝えてくださった」と生前をしのんだ。
家永教科書裁判支援全国連のメンバーだった村上有慶さん(72)は「(家族を手にかけた)『加害』の証言は本当に苦しいものだったと思う」。話しづらそうにとつとつと体験を語る金城さんの姿を覚えている。
1988年、法廷での金城さんの証言を振り返り、「あの証言があったから、他の人も親族間での『集団自決』の証言をしてくださるようになった」と話した。
歴史教育者協議会元委員長の石山久男さん(86)は「亡くなられたのは本当に残念」と声を落とした。2006年度の高校教科書検定で「集団自決」の軍の強制などが削除された教科書問題で「金城さんに『集団自決』の真実をしっかり伝えていただいたことはとても大きかった。金城さんのこれまでの証言や思いを私たちが何とか引き継いでいかなければ」と声を強めた。
渡嘉敷島で「集団自決」を体験した吉川嘉勝さん(83)は「先生の行動に勇気付けられて自分も語る活動を始めた。思い出したくない記憶を語り始めた先生の勇気は、多くの人に戦争の真実を伝えた」と振り返る。
祖父母や母が座間味島の「集団自決」で生き残った宮城晴美さんは、会うと優しく声をかけてくれた金城さんの姿を思い出す。「身を切り裂かれるような思いで体験を語ってくれた。どんなに大変だっただろう」と声を詰まらせた。(社会部・當銘悠)
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>「沖縄戦の真実伝えた」集団自決を生き残った金城重明さん死去
金城重明氏は、「沖縄戦の真実伝えた」歴史の証人どころか歴史を歪曲をした張本人であり、集団自決の実相とは、自分が犯した大量殺戮に対する自己弁護と責任転嫁に過ぎない。
大東亜戦争末期、慶良間諸島で起きた集団自決は、金城氏らにより「軍命」によって起きたと語り継がれていた。千九百五十年に発行された沖縄タイムス編著『鉄の暴風』は沖縄戦のバイブルとされ、同書を出典として数え切れない引用や孫引き本が出版され続けてきた。また、旧日本軍の残虐行為を告発する戦記本も『鉄の暴風』が引用されて来た。
■1970年3月27日。…金城重明がメディアに初登場
その日は、渡嘉敷島で25回目の戦没者慰霊祭の当日で、沖縄タイムスは、前日の26日、慰霊祭に参列のため那覇空港に降り立った渡嘉敷島の元戦隊長赤松嘉次氏と空港で待ち受けた約40名の「抗議団」とのトラブルを大きく報じている。
その日の沖縄タイムス社会面トップを飾った大見出しはこうだ。
忘れられぬ戦争の悪夢
<赤松元海軍大尉が来島>
空港に“怒りの声”
抗議のプラカードを掲げた抗議団。 それに取り囲まれた赤松氏の写真と共に、沖縄タイムスは約40名の抗議団の赤松氏に対する「怒りの声」を報じている。
I
赤松元陸軍大尉のことを、「元海軍大尉」(実際は陸軍大尉)と大見出しで事実誤認する沖縄タイムスの無知は笑止だが、それはさておき、その記事から「県民の声」を一部拾うとこうなる。
「赤松帰れ」
「今頃沖縄に来てなんになる」
「県民に謝罪しろ」
「300人の住民を死に追いやった責任をどうする」
「慰霊祭には出てもらいたくない。 あなたが来島すること自体県民にとっては耐えがたいのだし、軍国主義を全く忘れてしまったとしか思えない。 現在の日本の右傾化を見ろ」
紙面に躍る「県民の声」を見ると、読者は「鬼の赤松の来県に抗議する渡嘉敷島の住民」という印象を刷り込まれてしまう。
わずか40名前後のサヨク団体の抗議を、あたかも県民代表あるいは渡嘉敷住民の猛抗議であるかのように報じた沖縄タイムスは沖縄戦を歪めた首謀者であり、その罪はきわめて重い。
赤松元大尉に罵声を浴びせた実際の抗議団は那覇市職労を中心にしたサヨク団体であった。赤松氏に抗議文を突きつけたのも渡嘉敷村民ではなく、那覇市職労の山田義時氏であった。
肝心の渡嘉敷村は赤松氏の慰霊祭出席を歓迎していた。 そのため、村民を代表して玉井喜八村長が出迎えのため空港に出向いていたくらいだ。
『うらそえ文藝』編集長の星雅彦氏は、偶々そのときの那覇空に居合わせ、その「騒動」の一部始終を目撃していた。
一連の騒動で赤松氏は那覇に足止めを食い、赤松氏と同行の元部下たち一行は那覇市松山の大門閣ホテルに一泊する。翌27日、船で渡嘉敷に向かうことになるが、星氏は同じ船に便乗し慰霊祭にも参加した。
星氏は、前日空港で目撃したの左翼団体の暴挙と、これを県民の意志であるかのように報道する地元マスコミの報道を見て、沖縄で流布する集団自決の「定説」にますます疑問を持つようになったという。「定説」とは、「赤松元大尉の命令で集団自決が起きた」という『鉄の暴風』の伝聞による記述だ。
星氏は元赤松隊一行と共に渡嘉敷に向かう。船の中で赤松隊一行は持参の経文の書かれたお札のようなものを広げてずっとお経を唱え続けていた。そして渡嘉敷港が近づくと持参の花束とお経のお札を海に撒いていた。
慰霊祭の最中に「赤松が上陸する」との知らせを受け、マスコミと左翼団体が現場に飛んで行ったが、赤松氏は個人で別の舟をチャーターして島に接岸し、島民に弔文と花束を託すに止め、結局上陸することなく島を去った。
赤松氏は、慰霊祭で徒に騒ぎを起こすこと避け、別行動をした。
この赤松元大尉の配慮も、琉球新報の報道は「赤松元大尉、ついに雲がくれ」と悪意に満ちた大見出しで紙面トップを飾っている。
■沖縄戦史を歪曲した記事■
赤松元大尉の那覇空港での騒動を報じた1970年3月27日の沖縄タイムスの記事は、沖縄戦後史を歪な方向へ書き換え、県民を「沖縄分断」という「タイムス史観」へ扇動していくマイルストーンの役割りを果たすことになる。
先ず、この記事を見た県民は、「住民に自決を命じ、自分はおめおめと生き残った卑劣な鬼の赤松隊長を追い返す渡嘉敷住民」といった印象を強烈に刷り込まれる。
■大江健三郎が『沖縄ノート』を書く切っ掛けとなる記事
またこの記事を見た大江健三郎氏は作家としての想像力を強く刺激され、『鉄の暴雨風』などによる沖縄戦の即席勉強と共に、沖縄タイムスの新川明氏記者らの即席ブリーフィングから「軍命論」を「真実である」と信じるようになる。 そして、そのにわか仕込みの知識で、現地取材をすることなく、作家としての想像力を逞しくして『沖縄ノート」を『岩波書店』から出版することになる。
後に梅澤隊長らに提訴される「大江岩波訴訟」の原点は『鉄の暴風』だが、直接の引き金になったのは、この1970年の沖縄タイムスの記事ということが出来る。
ちなみに「大江岩波訴訟」は、大江が『鉄の暴風』の内容を真実と信じたのは止むを得ないとする「真実相当性」という法律概念を適用し、大江の名誉棄損を免責している。
沖縄集団自決のセカンドレイプともいえる第二の悲劇は、まさに『鉄の暴風』に始まり、「1970年のタイムス記事」によって決定的になる。
■「軍命派」の重要証人、金城重明氏がマスコミに初登場
この記事には、金城重明氏が首里教会の牧師という肩書きでマスコミに初登場し記者の質問に答えている。金城氏はその後、集団自決の証言者の象徴として、マスコミ出演や著書出版したり全国各地で講演するなどで八面六臂の活躍をするのは周知のことである。
後に詳述する重要証言者の宮城晴美氏は過去に発刊した自著によって論破されるという世にも奇妙な論文を書いて大方の失笑をかった。
過去の新聞記事の発言で自分が論破されるという点では、金城重明氏も負けてはいない。
■殺人者の陶酔--39年前の金城重明氏の証言■
金城重明氏は、沖縄タイムスのインタビューで、記者の「集団自決は軍の命令だ」との執拗な誘導質問を拒否し、心の内を正直に語っている。
米軍の無差別な艦砲射撃を受け、肉親殺害に至る心理を、「一種の陶酔感」に満ちていたと証言している。
「ランナーズ・ハイ」とは聞いたことがある。まさか「キラーズ・ハイ」(殺人者の陶酔)が世の中に存在するとは氏の証言で初めて知った。
その状況を「異常心理」だと正直に認めながらも、一転して「あの光景は軍部を抜きにしては考えられないことだ」などと強弁する。 その矛盾に、贖罪意識と責任転嫁の狭間で揺れる心理が垣間見れる。
沖縄タイムスに初めて登場する金城重明氏は、正直に心の内を吐露してはいる。 だが、当時から金城氏にとって「軍命」とは、自分が犯した「殺人」に対し一生叫び続けねばならぬ一種の免罪符であったのであろう。
金城氏は、後に沖縄キリスト教短大の教授、そして学長になるが、当時は一牧師として証言している。
≪1970年3月27日付沖縄タイムス
集団自決の生き残りとして
ー牧師となった金城重明さんの場合ー
記者:当時の状況はどうでしたか。
牧師:わたしは当時16歳だったが、当時のことはよく覚えている。しかし、あくまで自分の考えていたことと自分のやった行為だけだ。
記者:赤松大尉が村民に自決を命じたといわれているが。
牧師:直接命令を下したかどうかはっきりしない。 防衛隊員が軍と民間の連絡係りをしていたが、私の感じでは、私たちの間には生きることへの不安が渦まいていた.。 つまり敵に捕まったらすごい仕打ちを受けるとか生き恥をさらすなというムードだ。 そして戦況も、いつか玉砕するというところに少なくとも民間人は追いこまれていた。
記者:自決命令についてはどう思うか。
牧師:わたしの感じでは、離島にあって食料にも限界があったし、民間人が早くいなくなればという考えが軍にあったように思う。 しきりにそうゆうことがささやかれ、村民の中では、足手まといになるより自決して戦いやすくしたら・・・ということがいわれていたし、こうした村民の心理と軍の命令がどこかでつながったか、はっきりしない。
記者:自決命令は別として西山盆地に集結させたのは軍の命令ですか。
牧師:わたしたちは阿波連にいたが、とくに集結命令というものはなく、人づてに敵は南からくるもので北部に移らなければならないということがいわれた。 事実、米軍の攻撃も南部に集中し、南部は焼け野原になっていた。 二日がかりで西山についた。
記者:村民の集結から自決までの間が不明だが。
牧師:集結した村民は米軍の攻撃にさらされ、絶望のうちに一種の陶酔が充満していた。軍部もすでに玉砕したというのが頭にあった。肉親を殺し、自分も死ぬという集団自決がはじまった。今にして思えば、まったくの異常心理としかいいようはないが、とにかくあの光景は軍部をぬきにしては考えられないことだ。 私自身母親や兄弟を兄弟を殺し、自分も死ぬつもりだったが、どうせ死ぬなら敵に切りこんでやれということで米軍のいる方向へむかった。 しかし、そこで玉砕したはずの日本軍が壕にたてこもっているのをみて、なにか悪夢から覚めたようになった。 この壕は赤松大尉がずっとたてこもり村民を近づけなかったところで、住民を保護すべきはずの軍隊が渡嘉敷では反対になっていた。はっきり言って、沖縄戦で最初に玉砕したのは渡嘉敷であるが、日本兵が最後まで生き残ったのも渡嘉敷であった。(1970年3月27日付沖縄タイムス)》
◇
1970年当時、金城氏は「西山盆地に集結したのも軍命ではなかった」と正直に証言している。
ところが後年、裁判が起きると、「西山盆地に集結したのは軍命である」と前言を翻し、さらに「手榴弾軍命説」が破綻すると、今度は「西山盆地に移動させたのが自決命令だ」と、とんでもない詭弁を弄すことになる。
沖縄県民は概して時間にルーズであり、集合時間にもなかなか集まらないとは良く聞く話だ。
沖縄県民の習性を熟知する村役人が、何事かを村民に指示するとき「軍命」を借用して村民に敏速な行動を促したことは容易に想像できる。
同じ「軍命」でも「○○に集合」程度なら、軍から直接聞かなくとも(現場に軍人がいなくとも)村役人よりの伝聞のみで容易に「軍命」に従うだろう。
だが、「自決せよ」という生命に関わる重大な「軍命」に対して、伝聞やウワサだけで、発令者の臨場もなく自主的に実行できるものだろうか。 学校の先生の臨席しない「自習」は「遊び」と昔から相場は決まっている。
■死者の命令で肉親を殺害する不可解■
軍命による村民の自決とは、どのような状況が考えられるか。
自決とは通常自分で自分の命を奪う自殺を意味するが、金城兄弟の場合、「自殺」を試みたのではなく「他殺」で家族を含む多くの他人を殺している。
金城重明兄弟の「自決」については、同じ渡嘉敷島の出身で当時14歳の山城守治安が『渡嘉敷村史 資料編』で次のように証言している。山城盛治は、「金城重明」その兄「金城重栄」と共に「集団自決」の体験者である。
金城重明兄弟と同じ年頃の山城盛治が三人一組になって村民たちを殺戮している状況が、生々しく描かれている。
≪「翌日の朝九時頃、“集合”と号令がかかって、集まったところで、宮城遥拝をして、手榴弾がみんなに配られ、僕のところに渡されたのは、不発弾だったのか、あんまり押しつけたら、ネジがバカになって、信管がボロッと抜けて、でも火薬を食べたら死ぬんじゃないかと思って、家族の手に、少しずつあけて、なめて見たが、死なないものだから、それで男の人のいるところでは、もう、これじゃだめだから、自分の家族は、自分で始末しよう、といった。
女世帯のところは、もう慌てて、頼むから、あなたの家族を殺したら、次は、私たちを殺してくれ、と、いって、あっちでも、こっちでも殺し合っているのを見ましたよ。
僕らは、叔父がいないものだから、親戚のおじーに頼んであったらしい。でも、おじーは、山の中を逃げまわるうちに、頭がちょっとおかしくなっていた。
そうこうしているうちに、米軍からも弾がボンボン射ちこまれてね。
私は一四歳だったけど、村の青年たちが、死ぬ前に、アメリカーを一人でも殺してから死のう、斬り込みに行こうと話し合ってね。
行く前に、心残りがないようにと、刃物、ほとんどが日本軍のゴボウ剣ですが、どこから持って来たかわからないですがね。
それで(ゴボウ剣で)子どもは、背中から刺し殺し、子どもは、肉がうすいもので、むこうがわまで突きとおるのです。
そして、女の人はですね、上半身裸にして、左のオッパイをこう(手つきを真似る)自分であげさせて、刺したのです。
私は、年が若いし、青年たちに比べて力もないから、女の人を後ろから支える役でしたよ。
私たちは三人一組でね、一人は今、大学の先生をしています、もう一人は、区長、字の世話係りですよ。
年よりはですね、首に縄を巻いて、木に吊すのです。動かなくなったら、降ろして、こう並べるのです」(『渡嘉敷村史 資料編』【昭和62年3月発行】(p399~406))》
上記「大学の先生」とは「金城重明」、「区長」とは金城重明の実兄「金城重栄」のことである。「集団自決」は多様な態様を含むものであるが、『鉄の暴風』による「赤松命令説」は、この多様な態様を全て説明できるものではない。
しかも赤松隊長は、この自決現場に臨場しておらず、「玉砕で既に死亡している」と思われていた。
銃剣で威嚇する軍人に囲まれた村民が、自決拒否や逃亡をすれば直ちに銃殺あるいは惨殺されるされる状況なら、やむなく自分で自分の命を断つことも考えられよう。ところがその時赤松隊長はすでに死亡したと思われていたのだ。
既に死んでしまった人の命令を厳守して「親兄弟を殺害する」のはいかにも不自然ではないか。
このことからも《赤松命令説》の虚構性は明らかである。
ここで描かれているには「集団自決」の現場ではなく「集団殺戮」の現場であるという点に、留意しておくべきだ。
では、大江岩波訴訟の被告側証人として出廷した金城重明は、証人尋問でどのように対応したか。
渡嘉敷島出身で集団自決を体験した山城盛治の証言、つまり「金城重明の殺害記録」が原告側の証拠としてが提出され、反対尋問で原告側弁護士が金城重明に「これは事実ですか」と聞いた。 原告側は金城重明が「殺害記録」を否認すると予測していた。
ところが想定外の事が起きた。
金城が「事実です」と認めてしまったのだ。まさにこの場面は裁判のクライマックスである。
これまで集団自決の語り部として有名になっていた金城牧師は、家族を殺したのは「愛」からだと、告白していた。 そこで原告側弁護士が「貴方は、親兄弟だけではなく第三者の人たちも殺害しましたね」と問い詰めたら、意外にも「はい」と呆気なく認めてしまったのだ。
この機を逃すまいと原告側弁護士が、こう畳み掛けた。
「合計何人殺しましたか」
しかし、金城は沈黙して、答えない。
そこで弁護士が「もう一回聞きます」と繰り返した。
今度は裁判長が介入してきた。 あたかも言葉に詰まる金城に救いの手を差し出すように。