『週刊新潮』 2009年7月16日号
日本ルネッサンス・拡大版 第370回
沖縄で生まれ育った上原正稔氏は、長年、沖縄戦を取材してきた。戦争という極限状況は、個々の人間の真の姿を、否応なく剥き出しにする。醜さとともに、至高の美しさも見せてくれる。その人間模様に魅せられて、上原氏は、ドキュメンタリー作家として戦争下の人間の行動を追ってきた。
沖縄戦の悲惨さが際立つ理由のひとつは、日本軍が、住民を守るどころか足手まといとして突き放し、死に追いやったとされてきたことだ。米軍上陸を目前にした1945年3月、日本軍が住民に命じたとされる集団自決である。
“集団自決の軍命”を最初に報じたのが『鉄の暴風』だ。50年に朝日新聞から、後に沖縄タイムスから出版されている。ノーベル文学賞受賞の大江健三郎氏は同書を基に『沖縄ノート』(岩波書店)を著し、集団自決は軍命だったとした。
沖縄生まれの上原氏は、軍命は当然あったと信じていたが、取材を通して軍命はなかったと突き止め、衝撃を受けた。氏は07年、沖縄の有力紙『琉球新報』での連載、「パンドラの箱を開ける時 沖縄戦の記録」でそのことを取り上げようとした。すると、信じ難いことに「新報の方針に反する」として掲載を拒否され連載は中断されたのだ。
異論を封ずる琉球新報をはじめ、沖縄のメディアの異常さについて、氏は、小さな文芸誌『うらそえ文藝』第14号(09年5月刊)の星雅彦編集長(77)との対談で詳細に語った。続いて両氏は6月9日、記者会見も行った。
沖縄出身の言論人が、公式に記者会見で集団自決軍命説を否定したのは初めてだ。それだけでも報道する価値はある。だが、地元の2大紙、琉球新報と沖縄タイムスは完全に無視した。両氏の記者会見開催までの経緯を辿ると、沖縄のメディアが抱える欠陥とその偏向体質が見えてくる。
7月2日、両氏に那覇市内で会った。上原氏は沖縄の人間にとって、集団自決軍命説は「生まれたてのヒナ鳥が最初に見たものを母親と思い込む刷り込みのようなもの」だと語った。
「私は今66歳、沖縄に生まれ、アメリカ統治下で育ちました。ロングセラーを続ける『鉄の暴風』で刷り込まれた沖縄戦の印象は長年私の中に残っていました。集団自決の軍命は、当たり前のこととして、あったと。何の疑いも抱かなかった。曾野綾子さんが(73年に)『ある神話の背景』を発表して、軍命はなかったことを詳述したときも、そんな話が本当に成り立つわけがないというくらいにしか、読めなかった」
氏の沖縄戦の取材は80年代から始まり、83年には「1フィート運動」を立ち上げた。
「沖縄戦に関するアメリカの映像資料などを収集し、戦争の実態を伝えていく運動です。わずか5ヵ月で1,000万円が集りました。しかし、金目当てで活動に参加する人々の醜さも見た。反戦・平和運動とはこんなものかと嫌気が差しました」
氏は自分を反戦・平和の闘士と誤解してほしくないと強調する。戦争で人間が試され、千差万別の究極の物語が生まれる。その人間の姿に興味があると語る。
沖縄戦の取材を深めた氏は、85年、沖縄タイムスに「沖縄戦日誌」を150回にわたって連載した。
「戦時中のニューヨーク・タイムズの報道に関心をもち、米国の公文書館などで資料を読み漁り、沖縄に紹介したのです。当時、僕はまだ、集団自決は軍命だという前提に立っていました」
変化は突然やってきた。氏自身が渡嘉敷島を訪れたときだ。同島では住民300人以上が赤松嘉次大尉の命令で集団自決をしたとされていた。曾野綾子氏が丹念な取材で軍命説を覆したのも渡嘉敷島でのことだ。
「僕はグレンという米軍人の手記の内容を確認するために渡嘉敷に渡ったのです。そこで当時のことを知る数少ない生き残りの金城武徳さんと大城良平さんらから『軍命なんてなかった』と聞いた。心底、驚いた。
大城良平さんは自分の奥さんが自決しているんです。赤松大尉を問い詰めた大城さんは、住民を死なせるので機関銃を貸してくれと村の指導者が言ってきたが、赤松大尉が断ったことを知ったそうです。僕の先入観は真っ向から否定され、崩れていきました」
「沖縄の人々の責任」
実は上原氏は、このときの取材の成果を96年6月1日から同25日まで琉球新報で報じている。連載、「沖縄戦ショウダウン」には、赤松隊長の副官だった知念朝睦氏の言葉が、次のように引用されている。
「赤松さんは自決命令を出してない。私は副官として隊長の側にいて、隊長をよく知っている。尊敬している。嘘の報道をしている新聞や書物は読む気もしない。赤松さんが気の毒だ」
軍命を否定した上原報道は意外にも、96年当時、なんの非難も受けなかった。
「むしろ、反応は上々でした。担当記者もよく調べたと言ってくれたほどです。けれど、人間は忘れてしまう。その後、大江氏に対する裁判が始まり、教科書の集団自決の記述が問題になり、軍命の有無が殊更話題になりました。そして、私は琉球新報の記者から再び沖縄戦の連載を持ちかけられました」
大江氏の裁判とは、座間味島で集団自決を命じたとされる梅澤裕元少佐らが、『沖縄ノート』の著者の大江氏らを名誉毀損で訴えた裁判のことだ。05年に提訴された同裁判は、大阪高裁が「元戦隊長らが直接住民に命じたかどうか断定できない」とする一方で、名誉毀損は認めない判決を下し、現在、最高裁に上告中だ。
上原氏は先の取材で、島の元住人、比嘉喜順氏から「赤松さんは人間の鑑。我々住民のために、一人で泥を被り、一切弁明することなくこの世を去った。赤松さんのご家族のためにも、本当のことを世間に知らせてください」と頼まれた。事実を知った今、赤松氏や梅澤氏を悪者に仕立て上げた沖縄の人々の責任は重いと、上原氏は感じている。真実を明らかにして、両氏の名誉を回復し、謝罪すべきだとも考えている。そんな思いもあって、上原氏は新たな連載の誘いを受け入れた。
氏は96年の連載で取り上げた集団自決軍命説を否定する記事も再度書くつもりだと、あらかじめ琉球新報側に説明し、連載のタイトルを「パンドラの箱を開ける時」と決めた。連載は07年5月26日に始まり、第1章は6月16日に終わった。第2章は翌週の6月19日から始まるはずだった。
「ところが、6月18日、琉球新報に行くと、担当の若い記者がとても怖い顔で、『上に来い』と。5階に行くと、別の3名の記者がいて、『これ(第2章の記事)はストップする』と言うのです。理由をきくと、『新報の方針に反する』『(96年の)沖縄戦ショウダウンの中身と同じじゃないか』と難癖をつけて掲載を拒むのです」
上原氏は、記者が週末に上京していたことを思い出した。「大江裁判」が継続中であり、記者は否定したが、彼が大江氏に会って相談した可能性もあると推測した。琉球新報との話し合いは1時間を超え、上原氏は4人に吊るし上げられたと感じて言った。
「こんなことでは、連載は続けられない。第2章を載せないのなら、他の章も含めて連載を止めるぞ」
記者が言った。
「ああ構わんよ」
上原氏が振りかえる。
「薄ら笑いを浮かべ、僕を見下すような視線でした。ここまでくれば売り言葉に買い言葉。僕はすぐに記者会見を開くと言った」
だが、翌日、記者が再度、接触してきた。
「上司の当時の編集局長にうまく折り合いをつけるように言われたのでしょう。彼は僕の長年の友人です。彼から、記者会見だけは止めてくれ……と頼まれ、僕は渋々、承諾したのです」
「掲載拒否」
丁度同じ時期、『うらそえ文藝』編集長の星氏も似たような体験をした。
「上原さんの連載中断の約ひと月後、私も琉球新報から原稿掲載を断られました。集団自決軍命説を否定する内容です。文化部の部長から『今回は掲載できない』と言われました。理由は『今の状況にあわない』という、それだけでした」
星氏は沖縄県の文化協会会長、県立芸術大学理事長、国立劇場おきなわの理事をつとめる人物だ。そのような人物が、今、軍命はなかったと公に発言しているのだ。
「私の場合は、なぜ、今まで公に発言しなかったかと、問われるべきかもしれません。なぜなら、もう40年も前、沖縄の本土復帰の前から軍命説に疑問を抱いていたからです。1960年代末に、『沖縄県史第9巻』の執筆を依頼され、沖縄戦の実地調査で『鉄の暴風』に出てくる地域にも足を運びました。そして発見したのは、『鉄の……』の多くの間違いでした。地名、日付。極めつきは集団自決を命じたとされる梅澤隊長が朝鮮人の慰安婦と一緒に死んだと書いていた。周知のように、梅澤さんは今もご健在です。梅澤さんが軍命を下したと証言した宮城初枝さんにも会いました。けれど、様子がおかしい。梅澤さんのことを問うと口を噤むのです。そのときから私は軍命を疑い始めたのです」
星氏は、或る日、『鉄の……』の取材者として活躍した太田良博氏に尋ねた。
「梅澤さんは死んだと書いてあるが、まだ、生きている。おかしいぞ」
「まぁ、そんなところもあるねぇ」と太田氏は苦笑いして、口を噤んだという。
「私は長い間、明確な発言を控えてきました。おだやかな表現で問題提起しただけです。にもかかわらず、琉球新報は掲載拒否です」
一方、連載中断で上原氏の言論を封鎖した琉球新報は上原氏に新しい接触を試みていた。中断から4ヵ月後、先の編集局長直々に、連載再開を依頼したのだ。但し、集団自決は軍命ではないと書かないという条件が、口頭で、伝えられた。
「僕はそこで突っぱねてもよかった。けれど、連載は数年間ということだった。僕の側にも伝えたい物語がたくさんあった。いつか真実を書くチャンスもあると期待した。また、連載再開の道筋をつけた編集局長をこれ以上傷つけたくない思いもあった」
こうして07年10月16日、「パンドラ……」は再開された。だが、連載は数年どころか1年も経たずにまたもや突然、終わった。「もう終わり」と告げられた氏は最終章の執筆に入った。
「僕は、最終回でどうしても集団自決は軍命ではなかったことを伝えたかった。一話完結。それでも編集者は書き換えを要求し、僕は突っぱねた。琉球新報側は社長を含めて協議したそうです。結論は、ボツ。ですから、連載は形としては終わっていない。最終回なら末尾に〈おわり〉と記されますが、いつものように〈火曜―土曜に連載〉となっています」
こうした経緯の末に、両氏は今年6月9日の記者会見に臨んだのだ。
取材対象を黙殺
それにしても、96年に上原氏の「軍命はなかった」という記事を報じた琉球新報が、今なぜ、軍命否定の報道を拒否するのか。上原氏が語る。
「05年夏に始まった大江、岩波裁判、07年に問題となった教科書検定問題で、沖縄タイムスと琉球新報は、一貫して軍命はあったという論調で報じています。それで私の記事を載せるのは具合が悪いと考えたのではないか。彼らの主張の根拠の完全な否定ですから」
これでは琉球新報は、自説を通すためには事実さえも握りつぶす新聞だと言われても弁明できないだろう。
「琉球新報も沖縄タイムスも、黙殺が得意技です。僕らの異論がなかったかのようにしようとしています」
と上原氏。星氏も彼らの陰湿な「黙殺」を感じている。
「私はこの三十数年来、琉球新報で3ヵ月に1回、『美術月報』を執筆してきました。ところが先の論文を巡って対立したあと、暫くたった去年3月、突然、『美術月報』の執筆から外されました。例の論文掲載を拒否した文化部部長が『星さんの文章は難しいから』と言ってきました」
沖縄のメディアの異論の黙殺は、本来なら取材すべき対象にまで及ぶ。大江裁判で原告の梅澤氏側の代理人を務める松本藤一弁護士が語る。
「沖縄タイムスと琉球新報は、大江氏と岩波書店を訴えた我々の裁判に関して、ひたすら我々の主張を否定するかのような報道をしてきました。しかし、提訴以来4年、彼らは一度も我々を取材していません」
松本弁護士は、沖縄のメディアはアメリカの統治下で日本離反政策の報道規制に慣れてしまったために、今も、日本を批判する言論が身についてしまっているのではないかと分析する。
集団自決の真実が余りにも無視され、不条理が横行する背景にメディアの問題があるのは明らかだ。
上原氏が、最後に、非常に言いにくいことだがと前置きして、援護金の問題について語った。
「集団自決の遺族の一部も援護金をもらっています。両親や親族を手にかけて、軍命だと主張し、戦後、億単位のお金を受けとっている。こんな話、恥ずかしくて、世界に通用しないですよ」
氏の言う「億単位」とは、定められた支給額のうち最高額の年額196万6,800円に、戦後の年数を掛け合わせたものであろう。
援護金が遺族の生活の一助となっていることを誰よりも知っていたのが今は亡き赤松氏だった。氏は、すべての不条理に関して一言も弁明せずに亡くなった。梅澤氏も沖縄の人々には心底、同情している。
メディアの役割はこうした事柄を事実に沿って報道することだ。だが、現実には上原氏や星氏は言論の場から排除され、活躍の場を奪われつつある。
一連の経緯について問うと、琉球新報は、上原氏の連載を一方的に中止したことはない、星氏の寄稿の不採用も本人納得のことで、集団自決報道はこれまでの「蓄積」と「裏付け」に基づいていると回答した。
沖縄タイムスは「検討中です」と、わずか一行の回答だった。この種の反省なき言論封鎖が沖縄の未来に影を落とすのだ。