壊れゆくブレイン(113)
気がつくとぼくは二日酔いで目を覚ましていた。こういう状態になるのは、裕紀を亡くした直後以来だった。あの頃は、それが日常でもあった。いまは、ベッドから起き上がるのも億劫で、その日は休日だったこともあり、その中でダラダラと過ごしていた。
「お酒、飲み過ぎ?」と、いつまでも姿を見せないぼくにやきもきしたのか、雪代が訊いた。心配というより、いささかあきれたという様子に近かった。
「うん。ひさしぶりだよ、こんなの」
「気をつけてよ。もう、わたしも、頼れるひとがそんなにいないんだから」
「うん。気をつける」自分の返事は気転も利かないそのままのオウム返しだった。
「冷たい炭酸でも飲む?」
「うん、そっちに行くよ」
ぼくはベッドから足を出し、床に足裏をつけた。思ったより床はひんやりとしていた。もしかして、足の方が暑過ぎたのかもしれない。
ぼくはテーブルにあった氷入りのコップを一気に飲み干す。生き返ったという実感があったが、直ぐに気持ちの悪さに逆戻りした。それを無言で雪代は見ている。
「もう、まったく。ふたりで暮らしているのに、ひとりが、それじゃ」それ以降の言葉は出てこなかった。
「なんだか、楽しかったから」
「辛いことが多いより、いいけど。身体の心配もしてよ」
「うん、また寝る」
そう言ってベッドに戻っても、眠り自体は訪れず、目を閉じて考え事をしているだけだった。遠くで雪代が家事をしている際にたてる音がきこえる。それが時折り高い音を発し、ぼくの五感に響いた。ぼくらの間には、ぼくが前の妻との死別から立ち直れない古い記憶が淀みのようにただよっていることを思い出させた。
二時間もしないうちに、ぼくはやっとその重荷から解放されつつあった。浴室に行き、そこで熱いシャワーを浴び、その残り滓も流し尽くしてしまうように勢いを強めた。
「直った?」
「やっと。ごめん」
「むかしもこうだったね。あのときはこころは弱っていたけど、身体はまだ若かった。いまは、もう身体も疲れてきているんじゃない?」
「さっきから、爺さん呼ばわりだな」ぼくはまた冷たい飲み物を口にする。
「だって、なにかあって倒れでもしたら、わたし、ひとりだし・・・」
「まだそんな状態にならないよ」
「でも、いつまでも、10代や、20代じゃないんだよ」
「分かってるよ。でも、直ると、途端に腹減った」
その言葉を機に雪代の機嫌がなおったのか笑顔を見せた。ぼくらは外にでる。風は穏やかで、少し奥のほうで痛む頭以外は、すべてが順調になった。すると、雪代の電話が鳴った。娘が東京から電話をかけてきた。彼女は立ち止まり、そこで少し話しはじめた。
「なんだって?」
「とくに用はないけど、お金が要るみたいなことを言ってた。勉強に必要なんだって」
「緊急?」
「ううん、違う」それ以上、つづけなかった。「便りがないのは、良い便り」
「子どもなんて、心配させるのが仕事みたいなものだから」
「きょうのひろし君は、あまり、そういう強気なこと言えた義理じゃないよ」
ぼくらは飲食店に入る。となりの席ではビールを旨そうに飲んでいる男性がいた。だが、今日だけはぼくはそんな気分になれなかった。また、明日にでもなれば、忘れてしまうだろう。簡単に忘れてしまえる出来事があり、同じ過ちを繰り返す愚かなこころがあり、まったくその反対のものもあった。いつまでも忘れ去らない情景があり、二度と失敗しないよう防御をしていることもあった。妻はぼくより先に死んではいけない。そうなれば、ぼくは、今日以上の苦しみをまた連続して経験しなければならなくなるのだろう。あおの日々のように。連日連夜。一度の人生で、二度もそんなことが起こってはならないのだ。
ぼくは思い出したかのように、旨そうにスパゲッティを食べた、それはかなり美味しかった。突然に起こった空腹感がそういう気持ちにさせたのか、それを抜きにしても味が良かったのだろうか。その様子を雪代はじっと見ていた。
「むかしから、それ好きだったよね?」
「そうだったかな」
「自分では気付いてないの?」
「うん。でも、好みなんて変わらないものだからね」
「変わったら困るよ。わたしのことを好きになったひろし君が急にいなくなったら、あれは、全部うそだったらって言われたら、わたしの人生、どうしてくれるんだろう」
「どうしようもしないよ」
「もっと、強い二日酔いで、寝てたら良かったのに」彼女もフォークを回転させる。その行為自体に楽しみを見つけたように口に運ばずにくるくると指先を器用に動かしていた。
ぼくは食べ終え、ナプキンで口の周りを拭いた。今更、ぼくはこれが好物だったのかと発見し直し、空になった皿の上を名残惜しく見つめていた。それは、ランクの10番目にも入らないものだと思っていた。しかし、雪代の観察からすると、ぼくはいつもそれを注文していると言った。どちらが正しいのだろう。多分、どちらも間違っていなかった。目の前の女性を空白の期間がありながらも、三十年近くもぼくは見て来たのだ。旅で不図目にした見知らぬ土地の気になった風景では決してなく、それは日常的な愛着を持ち続けた見慣れた景色になっているのだろう。その長くなりつつある期間こそ、ぼくの人生と等しくなるのだ。二度と繰り返したくない二日酔いから覚めた自分は、毎日、接し続けてきた女性の魅力にあらためて悩殺されていたようだった。
気がつくとぼくは二日酔いで目を覚ましていた。こういう状態になるのは、裕紀を亡くした直後以来だった。あの頃は、それが日常でもあった。いまは、ベッドから起き上がるのも億劫で、その日は休日だったこともあり、その中でダラダラと過ごしていた。
「お酒、飲み過ぎ?」と、いつまでも姿を見せないぼくにやきもきしたのか、雪代が訊いた。心配というより、いささかあきれたという様子に近かった。
「うん。ひさしぶりだよ、こんなの」
「気をつけてよ。もう、わたしも、頼れるひとがそんなにいないんだから」
「うん。気をつける」自分の返事は気転も利かないそのままのオウム返しだった。
「冷たい炭酸でも飲む?」
「うん、そっちに行くよ」
ぼくはベッドから足を出し、床に足裏をつけた。思ったより床はひんやりとしていた。もしかして、足の方が暑過ぎたのかもしれない。
ぼくはテーブルにあった氷入りのコップを一気に飲み干す。生き返ったという実感があったが、直ぐに気持ちの悪さに逆戻りした。それを無言で雪代は見ている。
「もう、まったく。ふたりで暮らしているのに、ひとりが、それじゃ」それ以降の言葉は出てこなかった。
「なんだか、楽しかったから」
「辛いことが多いより、いいけど。身体の心配もしてよ」
「うん、また寝る」
そう言ってベッドに戻っても、眠り自体は訪れず、目を閉じて考え事をしているだけだった。遠くで雪代が家事をしている際にたてる音がきこえる。それが時折り高い音を発し、ぼくの五感に響いた。ぼくらの間には、ぼくが前の妻との死別から立ち直れない古い記憶が淀みのようにただよっていることを思い出させた。
二時間もしないうちに、ぼくはやっとその重荷から解放されつつあった。浴室に行き、そこで熱いシャワーを浴び、その残り滓も流し尽くしてしまうように勢いを強めた。
「直った?」
「やっと。ごめん」
「むかしもこうだったね。あのときはこころは弱っていたけど、身体はまだ若かった。いまは、もう身体も疲れてきているんじゃない?」
「さっきから、爺さん呼ばわりだな」ぼくはまた冷たい飲み物を口にする。
「だって、なにかあって倒れでもしたら、わたし、ひとりだし・・・」
「まだそんな状態にならないよ」
「でも、いつまでも、10代や、20代じゃないんだよ」
「分かってるよ。でも、直ると、途端に腹減った」
その言葉を機に雪代の機嫌がなおったのか笑顔を見せた。ぼくらは外にでる。風は穏やかで、少し奥のほうで痛む頭以外は、すべてが順調になった。すると、雪代の電話が鳴った。娘が東京から電話をかけてきた。彼女は立ち止まり、そこで少し話しはじめた。
「なんだって?」
「とくに用はないけど、お金が要るみたいなことを言ってた。勉強に必要なんだって」
「緊急?」
「ううん、違う」それ以上、つづけなかった。「便りがないのは、良い便り」
「子どもなんて、心配させるのが仕事みたいなものだから」
「きょうのひろし君は、あまり、そういう強気なこと言えた義理じゃないよ」
ぼくらは飲食店に入る。となりの席ではビールを旨そうに飲んでいる男性がいた。だが、今日だけはぼくはそんな気分になれなかった。また、明日にでもなれば、忘れてしまうだろう。簡単に忘れてしまえる出来事があり、同じ過ちを繰り返す愚かなこころがあり、まったくその反対のものもあった。いつまでも忘れ去らない情景があり、二度と失敗しないよう防御をしていることもあった。妻はぼくより先に死んではいけない。そうなれば、ぼくは、今日以上の苦しみをまた連続して経験しなければならなくなるのだろう。あおの日々のように。連日連夜。一度の人生で、二度もそんなことが起こってはならないのだ。
ぼくは思い出したかのように、旨そうにスパゲッティを食べた、それはかなり美味しかった。突然に起こった空腹感がそういう気持ちにさせたのか、それを抜きにしても味が良かったのだろうか。その様子を雪代はじっと見ていた。
「むかしから、それ好きだったよね?」
「そうだったかな」
「自分では気付いてないの?」
「うん。でも、好みなんて変わらないものだからね」
「変わったら困るよ。わたしのことを好きになったひろし君が急にいなくなったら、あれは、全部うそだったらって言われたら、わたしの人生、どうしてくれるんだろう」
「どうしようもしないよ」
「もっと、強い二日酔いで、寝てたら良かったのに」彼女もフォークを回転させる。その行為自体に楽しみを見つけたように口に運ばずにくるくると指先を器用に動かしていた。
ぼくは食べ終え、ナプキンで口の周りを拭いた。今更、ぼくはこれが好物だったのかと発見し直し、空になった皿の上を名残惜しく見つめていた。それは、ランクの10番目にも入らないものだと思っていた。しかし、雪代の観察からすると、ぼくはいつもそれを注文していると言った。どちらが正しいのだろう。多分、どちらも間違っていなかった。目の前の女性を空白の期間がありながらも、三十年近くもぼくは見て来たのだ。旅で不図目にした見知らぬ土地の気になった風景では決してなく、それは日常的な愛着を持ち続けた見慣れた景色になっているのだろう。その長くなりつつある期間こそ、ぼくの人生と等しくなるのだ。二度と繰り返したくない二日酔いから覚めた自分は、毎日、接し続けてきた女性の魅力にあらためて悩殺されていたようだった。