Untrue Love(14)
ぼくは何日かしてから野球を観ている。となりには、いつみさんがいた。秋空を目の当たりにすることはなく、白い屋根が天井を覆っていた。人工芝の緑はそれでも神々しく、そこで動いている選手たちを華やかなものにしていた。
「ところでですけど、いつみさんは、野球のルールって分かります? 細かい部分とかは抜きにしてでも」
「分かるよ。最低限のことは。誰も三塁の方には走らない。ボクシングみたいに両手にグローブもはめない。サッカーも分かるし、オフサイドも分かる」彼女は満足な答えでしょう! という顔をした。
「難しいのかな、難しくないのかな、それって」
「男性のテリトリーじゃないよ、別に。じゃあ、順平くんは、女性がすることのなにを知ってる? 化粧の順番とかに詳しい?」
「まったく。それに知りたくもない」
「あ、ビール売ってる。いま飲んだら、仕事のときには抜けているかな?」
ぼくは売り子の後ろ姿を見る。指の間にはお札が器用に挟まっていた。
「どうでしょうね、いつみさんなら大丈夫じゃないですか」
「でも、止しとくか。あれで、キヨシが妬くといけないから。いまごろ、せっせと仕度もしているからね」ぼくに同意を求めるように彼女は言った。
「子どものときって、仲良かったんですか?」ぼくは、ふたりの関係がいまだによく理解しきれずにいた。そもそも、誰かを理解し尽くすなど到底不可能かもしれないが、それでも興味があるひとのことは知りたいという気持ちが膨らむのは嘘のない本音だった。
「どうだろうね。わたしは、相談とかもできずに勝手にぱっとすすんで後悔するほうだけど、いや、後悔もしないな。弟は、なんだか律儀にいろいろ母親にも相談していたよ。お父さんもいなかったからね」
「まじめですね」
「そう。まじめな弟に事後報告の姉のコンビ」
「でも、いまでは上手くやっている。あ、打った」ぼくは打球の進路を追う。それはぎりぎり線を越えファールになった。「惜しい」
「え、こっちを応援してたの?」いつみさんは、いままさに裏切られたという表情をした。
「違うんですか?」
「やだな、順平くん。違うよ」彼女は軽蔑に似た視線を向ける。「やだな」
「ほんとですか」ぼくは間違って敵に加担していたスパイのような気持ちになる。「だって・・・」
「いいよ、どっちでも。こうしていられるだけで、楽しいし、ね」
「なんか、買ってきますね」ぼくは、階段を登り、トイレに入った。それから売店に行き、焼きそばとホット・ドッグを買った。ぼくはリサーチというものが足りないと考えている。好きなスポーツのチームを知る。それは最低限、入手すべき情報なのだろうか。そうでもないだろう。じゃあ、ぼくはいったい自分以外のひとを判断するときなにをもってしていたのだろうか。高校時代の交際相手のことを思い出した。すると、ぼくは彼女が示した好悪の感情をまったく知らないことに自分自身で驚いた。それゆえに彼女は不服であり、ぼくに対して不満だったのだろう。大人に近付くというのは、なかなか難しいものだ。
「順平くんのチーム、点を入れられそうだよ」事態は逆転し、塁上には攻撃側の選手がいた。
「ほんとだ。買ってきましたよ。これから熱を入れて応援しないと」
「ダメ。わたしの応援を届けるから」彼女はそれから大声を出した。結局は、ぼくらはそれぞれのチームを応援することになる。ぼくの座っているのは内野のぼく側のチーム。いつみさんが絶叫するたびに周りは怪訝な顔をする。そんなことには頓着なしに、彼女は自分の意思を通す。これまでも。そして、これからも。
次の打者はヒットを放ち、ランナーは生還する。いつみさんはぼくの腕をバンバンと叩く。もう裏切られたという表情はなかった。ただ快活であり、仕事を離れたすがすがしい午後だけがあった。その表情を見られたことはぼくの喜びにつながった。しかし、彼女が身を入れて応援しているのは野球の選手だ。その声が耳に届いているのか分からない。ぼくは、横にいてその声を聞いている。いつものあの店に座っている彼女と違う。ある環境とは別の場所で誰かの本当の姿が分かるのだ。すると、新宿の街の路上にいないユミのことも、靴を売っていない木下さんのことも気にかかる。だが、それは後で思いついたことで、このときは、ぼくはいつみさんのすべてを知りたいと思っていた。
最後には逆転してぼくの応援しているチームが勝った。彼女はすこしふくれる。それが演技だとしたら見事な可愛さだった。ぼくらはその白い屋根の球場をあとにして駅まで向かっている。橋を渡り、改札に入る。ぼくらはそれぞれ仕事があった。いまから行けば、ふたりともまだ間に合いそうだった。
「ありがとう、今日は誘ってくれて。借りができた」
「いつみさんは、いつもそう言いますね。椅子を運んだときも、飲みに来いって言ったし」
「なんだか関係を終わらせることが恐いのかねも。貸しとか借りがあると、関係って、永遠につづくと思わない?」
「なくても、つづくときは、つづきますよ。きっちりと」
ぼくらはいっしょに駅を抜けた。彼女は自分の店へ。そこで別れてぼくは自分のバイト先に向かった。借りがあるなら、ぼくこそが父に借りがあった。それをどのように返済すればよいのかバイトがはじまっても考えていたが、次第に疲労とともにそれも忘れた。
ぼくは何日かしてから野球を観ている。となりには、いつみさんがいた。秋空を目の当たりにすることはなく、白い屋根が天井を覆っていた。人工芝の緑はそれでも神々しく、そこで動いている選手たちを華やかなものにしていた。
「ところでですけど、いつみさんは、野球のルールって分かります? 細かい部分とかは抜きにしてでも」
「分かるよ。最低限のことは。誰も三塁の方には走らない。ボクシングみたいに両手にグローブもはめない。サッカーも分かるし、オフサイドも分かる」彼女は満足な答えでしょう! という顔をした。
「難しいのかな、難しくないのかな、それって」
「男性のテリトリーじゃないよ、別に。じゃあ、順平くんは、女性がすることのなにを知ってる? 化粧の順番とかに詳しい?」
「まったく。それに知りたくもない」
「あ、ビール売ってる。いま飲んだら、仕事のときには抜けているかな?」
ぼくは売り子の後ろ姿を見る。指の間にはお札が器用に挟まっていた。
「どうでしょうね、いつみさんなら大丈夫じゃないですか」
「でも、止しとくか。あれで、キヨシが妬くといけないから。いまごろ、せっせと仕度もしているからね」ぼくに同意を求めるように彼女は言った。
「子どものときって、仲良かったんですか?」ぼくは、ふたりの関係がいまだによく理解しきれずにいた。そもそも、誰かを理解し尽くすなど到底不可能かもしれないが、それでも興味があるひとのことは知りたいという気持ちが膨らむのは嘘のない本音だった。
「どうだろうね。わたしは、相談とかもできずに勝手にぱっとすすんで後悔するほうだけど、いや、後悔もしないな。弟は、なんだか律儀にいろいろ母親にも相談していたよ。お父さんもいなかったからね」
「まじめですね」
「そう。まじめな弟に事後報告の姉のコンビ」
「でも、いまでは上手くやっている。あ、打った」ぼくは打球の進路を追う。それはぎりぎり線を越えファールになった。「惜しい」
「え、こっちを応援してたの?」いつみさんは、いままさに裏切られたという表情をした。
「違うんですか?」
「やだな、順平くん。違うよ」彼女は軽蔑に似た視線を向ける。「やだな」
「ほんとですか」ぼくは間違って敵に加担していたスパイのような気持ちになる。「だって・・・」
「いいよ、どっちでも。こうしていられるだけで、楽しいし、ね」
「なんか、買ってきますね」ぼくは、階段を登り、トイレに入った。それから売店に行き、焼きそばとホット・ドッグを買った。ぼくはリサーチというものが足りないと考えている。好きなスポーツのチームを知る。それは最低限、入手すべき情報なのだろうか。そうでもないだろう。じゃあ、ぼくはいったい自分以外のひとを判断するときなにをもってしていたのだろうか。高校時代の交際相手のことを思い出した。すると、ぼくは彼女が示した好悪の感情をまったく知らないことに自分自身で驚いた。それゆえに彼女は不服であり、ぼくに対して不満だったのだろう。大人に近付くというのは、なかなか難しいものだ。
「順平くんのチーム、点を入れられそうだよ」事態は逆転し、塁上には攻撃側の選手がいた。
「ほんとだ。買ってきましたよ。これから熱を入れて応援しないと」
「ダメ。わたしの応援を届けるから」彼女はそれから大声を出した。結局は、ぼくらはそれぞれのチームを応援することになる。ぼくの座っているのは内野のぼく側のチーム。いつみさんが絶叫するたびに周りは怪訝な顔をする。そんなことには頓着なしに、彼女は自分の意思を通す。これまでも。そして、これからも。
次の打者はヒットを放ち、ランナーは生還する。いつみさんはぼくの腕をバンバンと叩く。もう裏切られたという表情はなかった。ただ快活であり、仕事を離れたすがすがしい午後だけがあった。その表情を見られたことはぼくの喜びにつながった。しかし、彼女が身を入れて応援しているのは野球の選手だ。その声が耳に届いているのか分からない。ぼくは、横にいてその声を聞いている。いつものあの店に座っている彼女と違う。ある環境とは別の場所で誰かの本当の姿が分かるのだ。すると、新宿の街の路上にいないユミのことも、靴を売っていない木下さんのことも気にかかる。だが、それは後で思いついたことで、このときは、ぼくはいつみさんのすべてを知りたいと思っていた。
最後には逆転してぼくの応援しているチームが勝った。彼女はすこしふくれる。それが演技だとしたら見事な可愛さだった。ぼくらはその白い屋根の球場をあとにして駅まで向かっている。橋を渡り、改札に入る。ぼくらはそれぞれ仕事があった。いまから行けば、ふたりともまだ間に合いそうだった。
「ありがとう、今日は誘ってくれて。借りができた」
「いつみさんは、いつもそう言いますね。椅子を運んだときも、飲みに来いって言ったし」
「なんだか関係を終わらせることが恐いのかねも。貸しとか借りがあると、関係って、永遠につづくと思わない?」
「なくても、つづくときは、つづきますよ。きっちりと」
ぼくらはいっしょに駅を抜けた。彼女は自分の店へ。そこで別れてぼくは自分のバイト先に向かった。借りがあるなら、ぼくこそが父に借りがあった。それをどのように返済すればよいのかバイトがはじまっても考えていたが、次第に疲労とともにそれも忘れた。