爪の先まで神経細やか

物語の連鎖
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Untrue Love(16)

2012年09月28日 | Untrue Love
Untrue Love(16)

 その日は長時間、バイトをしていた。それで休憩時間もいつもより多くあった。社員も利用する食堂でぼくはそばを食べて、時間も余っていたのでぼんやりとしていた。少し離れた席に目を移すと、木下さんも座っていた。彼女の前にはコーヒーか紅茶のカップらしきものがあり、手には本が置かれて、それを読むためにうつむいていた。彼女の周りにはいつもながら静かな空気がただよっていた。

「木下さん、読書ですか?」ぼくは、黙っているのが苦痛になってきていた。それで、そばの器を戻した後に声をかけた。
「あ、順平くん」彼女は本を閉じる。その前にしおりを挟んだ。「順平くんも読書、好き?」
「まあ普通ですね。普通に読みます。父が本を集めるのが趣味みたいなひとなんで、家にはけっこう揃っているんですよ」
「そういうお仕事?」
「そういうお仕事みたいなもんです。売る方じゃないけど」
「なにか書くんだ?」

「書くみたいですね。名前は公表されないみたいだけど」
「そんな仕事あるんだ」彼女は飲み物を飲むタイミングか考えているような表情になった。でも、結局、口をつけなかった。「じゃあ、子どものときから親しんできた?」
「そうでもないですよ。ただ、家具の一部みたいに視野のなかに入っていただけだから。壁の時計といっしょです」
「このそばは大きな本屋さんがあっていいよね」
「たくさん並びすぎていると疲れません?」

「そう? わたしは未知なる土地に出向く探検家のような気持ちになるけど」彼女の外見からはその姿を想像すること自体が困難だった。どこかの城にでもいて、一歩も外に出ることを許されない女性と言われたほうが容易に思い浮かべやすかった。
「本を読むと、いろいろなところに行けますよね。肉体的じゃなく、精神的な領域で」

「分かってるんじゃない」
 しかし、ぼくの休憩時間はそこで終わった。ぼくは挨拶をして食堂を出る。出る前に木下さんの方へ振り返ると彼女はまたうつむいていた。その姿は探検家のようではなかった。どこかで隔離されている女性。

 ぼくはまた肉体を動かした。冬場は汗をかくことも少ない。その分だけ仕事は楽になる。楽になると意に反してミスをする。そのミスの原因を作っているのは、慣れはじめて安心したこころと、それに伴う自分の空想する力だった。ぼくは木下さんが古い城にでもいて、本を読んでいる姿を想像している。彼女は世の中の流れなど一切関係ない世界で暮らしているのだ。ぼくはその考えにとらわれてバイト仲間にミスを指摘される。それで、途中まですすんでいた作業をいちからやり直していた。

 そして、一日も終わりぼくは外に出た。さきほどの会話に影響されたのか本屋に寄った。店は閉店間際の時間だった。ぼくは何冊かぱらぱらとめくり、ほとんどのものをもとの棚にもどした。残った一冊をレジにもって行き、それにカバーをかけてもらった。

 帰りの地下鉄でぼくはその文庫を開く。文字の羅列だけで世界を構築する必要を感じているひとたちがいるのだ。ぼくは停車する電車のなかで窓にうつった自分の顔を見る。髪の毛を切ってもらい、そのスタイルで印象が変わる。それも世間とのかかわりの一部だった。靴を売る女性。その靴も世界とのかかわりでもあり、自分をアピールすることでもあった。ぼくは目の前にすわる男性のいかつい腕時計をみた。それも世界へのアピールのような気がした。段々と自分の考えていることが分からなくなり、文庫を閉じて目をつぶった。情報があまりにも自分に流れ込みすぎた不安のようなものがあった。それをどこかで遮らなければならない。それがいまなのだ。

 ぼくは目をつぶったまま、流れ込む女性のイメージを少しずつ入れた。本を読む木下さんの姿。ユミの電話を通した声。彼女のはつらつとした印象は電話ではうまく伝わってこなかった。なぜ、誰かの声を聞きたいと思うのだろう。ぼくらが好意をもつのは、その実体を通してではないのだろうか。声などに実体はどれほど含まれているのだろう。そう考えていると駅に停まった。ぼくは流れに押され扉の外にでた。

 駅からアパートまでの距離はもう何も考えることなく歩いている。いままで知らなかった土地が自分の一部になっている。考えないといいながらも、ぼくは実家に並んだ本を数えていた。それは手付かずの宝かもしれないし、征服を待つ城塞の内部にあるものかもしれない。それが木下さんの姿と重なる。かんぬきが扉に挟まれ、開かれることを拒んでいた。いや、拒んでもいない。ぼくは今度、実家に帰ったときにでも父から数冊を借り受けることを願っていた。彼のアドバイスはどういうものだろう? 多くを語らないかもしれない。それは手の平のなかで開かれることを待っているのだ。ぼくが歩み寄らないとなにも教えてくれない。それも、木下さんと似ているような気がした。自分からはたくさんのことを教えてくれない。だが、垣根を越えれば彼女の優しさも美もそこでは開花をまっているだけなのかもしれなかった。