爪の先まで神経細やか

物語の連鎖
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Untrue Love(10)

2012年09月22日 | Untrue Love
Untrue Love(10)

 ぼくはバイトを終えてアパートのある駅まで戻った。今日はそのまま帰らずに矢口いつみという名の女性が待っている店まで歩いた。その店は普段使う駅の出口とは反対側にあった。だから、ぼくもその場所にあまり馴染みがなかった。彼女はよくきくと隣駅に住んでいた。彼女の仕事は休みで、仕事と関係ない場所でゆっくりと飲みたいと言った。ひとりでも。もしくはそれほど騒がしくない男性か女性と。

「おごるから、来なよ」と前日に言われた。彼女が放っているものを感じる。ワイルドで、このひとは世界のどこにいても何とかやっていけるのだという自信のようなものが窺えた。だからといってガサツではない。細やかなところもある。大いにある。その細やかな優しさを覆い隠すようにわざと粗雑に見せているのかもしれない。

 店に入ると、彼女はひとりでカウンターに座っている。カウンターのなかで働いている女性と楽しそうに話していた。
「こんばんは、いつみさん」
「お、やっと来た。待ってたよ」彼女はこちらに向かって手を振った。「さっき話してた子だよ。バイトばっかりしてるんだ」今度は店のひとに向かって説明していた。
「よく来るんですか?」
「なんで? はじめてだよ」
「そうなんだ。あまりにも親しそうだったから」

 ぼくは目の前に置かれたビールの美しい泡を眺めた。それは一瞬にして壊れるものだが、それでも美しいものでなければならない。求められているものは、海辺にある砂の城。一瞬の貴さなのだろう。横にいるいつみさんもそう見えた。

「じゃあ」彼女は自分のグラスをささげる。「疲れた?」
「もう、それほどでも」
「そうか、逞しいな」彼女はぼくの肩のあたりをぐっと掴む。「お客さんという立場は楽しいな、ね」
「大変ですか、毎日?」
「わたし?」彼女は小皿に盛られたピクルスを指すのに手間取っていた。
「ええ」何回か突き刺すのを試し、成功すると彼女は自分の口にもっていった。「はい、いつみさんが」
「大変そうに見えてる?」やっと、こちらを向いた。
「そうは見えないですね。でも、店を一軒切り盛りしているぐらいだから」

「あそこは料理も弟がしているし、その仕入れも彼の担当。楽なもんだよ」彼女は笑う。近くで見ないと気付かないのだが、目尻に傷があることが笑うと分かる。それが美しさを損なうのかといわれれば、まったくの逆だった。アクセントの役目をその小さな裂け目は担っているようだった。「いま、ここ、見てたでしょう?」彼女はその部分を小指で指差した。
「気になるほどでもないんですが・・・」

「これね、わたし、順平くんぐらいの年齢のときに方々を旅していた。親からちゃっかりお金を貰って。トルコとかモロッコとか。ある日、店で喧嘩がはじまって飲み物の瓶が割れた。その欠けらがここに当たったんだ」いつみさんはもう一度そこに触れた。「いま、振り返ると、そのときの旅の思い出になっている。パスポートにスタンプを押されたみたいに」
「だからですかね、いつみさんは、どこに行っても、なんだか生活できそうな匂いがしている」
「よく言われるけどね。甘えるのを拒否されているような気もするので、あまり好きじゃない意見」その甘えを誰に試そうとしたのかをぼくは考えた。だが、ぼくに答えはない。すると突然、いつみさんは別の提案をだした。「今度、野球でも観に行かない。もう、シーズンも終わるけど」

「好きなんですか?」
「あれで、弟がずっとしていたんだ」
「キヨシさんが・・・」
「そう。打てば見事にヒット。投げるのも得意。だから、女の子にももてた。だけどね、結局は彼は女の子にまったく興味がない。あの女の子たちが応援してた気持ちってどうなるんだろうね。まったくの無駄。時間の浪費」
「幼いうちから宣言するわけにもいかないですしね」

「それが正しいのか、正直な胸のうちか本人にも分からないからね」
「いまでも野球をするんですか?」
「身体を鍛えるのに手っ取り早い方法があるみたいだから。その弟の野球を観に行った。母は、遅くまで酔っ払いを相手にしていたのに、早起きしてわたしを連れて、土手にあるグラウンドに行った。ああいうところで食べるお弁当って、なんで、おいしいんだろうね」
「母親のお手製?」
「そう。おかずはちょっと子どもが好きな味覚とずれてるんだけど」

 ぼくは、いつみさんのいくつかの情報を手にする。それによって彼女が立体的になる。ぼくは子どものころに作ったプラモデルを思い出していた。ただの箱に平面として納められている部品たち。そのひとつひとつをもぎ取り組み立てていくと、パッケージと同じものになる。いつみさんが見知らぬ土地を旅している。着飾っているわけでもない。野球のグラウンドで弟を応援しているが、母との関係は密接というわけでもない。だが、どちらの側も愛情を示したいと思っている。それは、いまのぼくの気持ちにも似ているようだった。それから、何杯かずつお酒を飲み、いっしょに店を出た。彼女は通りがかったタクシーを停め、ひとりであっという間に乗り込んだ。

「じゃあ、野球のこと忘れないでね」と言ってから運転手がドアを閉めた。ぼくは深夜、ひとりでそこに立ち尽くす。ぼくは行ったこともない北アフリカや大陸の最果ての一都市に紛れ込んだかのような不安があった。だからといってその不安を解消させるべく話しかけられるひとも見渡す限り誰もいなかった。