壊れゆくブレイン(121)
風が強い日だった。ビルの合間を通り道にして、前後の見境なく風が吹きすさんでいた。ランドセルを背負った子どもが吹き飛ばされそうになり、ガードレールにしがみついていた姿もあった。別のひとりの頭のうえに乗っていた帽子が飛ばされた。まるで風船のように軽やかに道路をコロコロと転がりつづけ、木の幹に引っ掛かった。ぼくはそれを取りに向かったが正面から来る風が思いのほか強かった。すると、風を背にしたセーラー服姿の中学生が幹の根元の帽子を取った。
「はい」それがぼくの持ち物であるかのように手渡した。
「ありがとう」ぼくは礼を言う。「なんだ、君か。優しいね」ぼくはその女性の顔を見る。それは美緒という女性だった。正直に言って、この瞬間までその少女のことを忘れていた。裕紀の兄の娘。ひとり娘。ぼくはその外見が誰から受け継いだのかを知っている。
「知り合いの男の子ですか?」
「違う。全然、知らない。仕事の途中だから、この通り」ぼくは揺れるスーツの襟を無意味に握った。彼女はそのままの姿勢でぼくの次の言葉を待っているようだ。「返してくるね」
ぼくは風を背にしてその帽子の持ち主のところまで歩いて行った。「もう、被らないほうがいいね。ランドセルの中にいれちゃいなよ」と言ってそこに突っ込んだ。ぼくはまた先ほどの場所を振り返った。その少女は風に揺られて立っている。自然とぼくの足はそこに向かう。
「学校の帰り?」
「塾があるんです。その前にちょっと本屋に寄りたかったんですけど・・・」
「うん?」
「こんなに風が強くなるとは思ってもみなかった。あきらめてどこかで時間を潰そうと思います」
ぼくは腕時計を見る。ぼく自身もどこかで時間を無駄に費やす必要があるようだった。でも、それを無駄という箱に押し込めることもないのかもしれない。
「何時から、塾って?」
「5時半です」
「そう、あと、4、5十分あるんだ。お茶でも飲む?」相変わらず風は強く、どこかに入りたい心理があった。「知らないおじさんという訳でもないし」
「なんですか、それ?」
「いや、知らないおじさんに付いていっちゃいけないと散々、子どものころに言われたでしょう。うちも言ってたから」彼女は微笑む。ぼくの心臓の鼓動はいくらか早くなる。ぼくは、そこにいつも裕紀の陰を思い出す。
「ここですか?」ぼくらの横には丁度、手頃な店があった。半分は喫煙スペースがあり、半分は学校帰り大学生らしきひとたちが話し込んだり、ノートに何かを書き込んだりしていた。
「いいよ、ここでも。いい?」
ぼくらは肩を並べて入る。あのころの裕紀よりまだいくらか小柄だ。だが、総体的な身体のバランスはやはりいまごろの子どもだった。手足が長く、顔は小さく作られている。だが、眉間から目頭までの流れる感じや眉などは裕紀そのままだった。探せば、もっともっとあったが、そこまで見つめつづける勇気や度胸もない。
「あの本、読みました」
「え、あ、あれか」ぼくはすっかり忘れている。彼女に裕紀が仕事で関わった絵本をあげたのだ。「気に入った?」
「ええ」彼女は両手で紅茶のカップを包むようにして持った。爪にはなにも塗られていない。指輪もない。彼女の年代では当然のことであるのかもしれないが、ぼくはそのことを新鮮な気持ちで眺める。顔にも化粧の予感すらない。これから、塾に行くのだ。知らないことを多く学び、自分に必要なものを取得していく過程にいる。ぼくは、これはもういらないのだと自分にあきらめ、捨てることに慣れていく年代に足を踏み込んでいた。裕紀もそのような気持ちをいずれ持ったのだろうか? 彼女はやはり何事にも挑むような前向きな姿勢を失うことはなかっただろう。それは途中で奪われたのだが。
「勉強、好き?」
「好きなひとっていますか? しなきゃならないと思ってますけど」普通の子たちなら皮肉に響くであろう言葉も、彼女を通すとさっぱりとした真実というものに近かった。遠回りや虚飾はいらないという意味合いも含んでいるようだった。
「好きなひともいるでしょう。辛いけど解けると楽しいとか。じゃないと何でもつづかないよ」
「お仕事、楽しいですか?」
「まあ、楽しいね。大人だからいろいろなひとに対して良い顔を見せないといけない場合もあるけど」ぼくはそこで彼女の父の周りで起こった不祥事を思い出した。それで、突然に話の風向きを変える必要を生じた。「学校でも周りの子たちに話を合わせたりするのと同じだよ」
彼女はきょとんとした顔をする。それがどういう意味だか分からないような表情だった。孤立というものとも違っており、一本だけ池に刺さっている杭に細い足でとまっている白鳥を思わせた。ぼくらは声の悪い群れる鵞鳥だ。仕事終わりに酒場でたむろしている姿はそれに近いのだろう。そして、彼女はまた外の様子を確認するように窓のそとを見た。風はいくらかおさまったようで街路樹の揺れ方もそれほどではないようだった。
「これからもお仕事ですか?」
「うん、約束がある。この資料を相手に見てもらって、納得してもらえるか、拒絶されるか。そうしたら、もう一回だけやり直し」
「でも、楽しい・・・」
「楽しいよ。きちんとした正解はないのかもしれないけど、気に入ったものに近づける喜びがあるからね」
「やり直しがあっても?」
「そう。やり直すたびに、相手の満足が近付いてくる」ぼくは何度もやり直すというセリフを使っていた。しかし、実際の仕事以外には何事もやり直せないことを痛切に感じてきた過去があった。裕紀にとても良く似た少女からも「やり直す」という言葉を聞いた。それは正解でもなく近くにもない。さっき、少年に返してしまった帽子のように居場所も分からない。ただ、この時間はすすみ、直ぐに過去になった。この少女の一瞬の美しさも過去になり、指の爪はあざやかな色になる。顔は化粧を覚え、笑顔も単純なものではなくなるのかもしれない。いくつかの埋もれていた表情が前面にあらわれ、その言葉や目付きで未来を作る。ぼくは、裕紀のいくつかの表情を忘れてしまっていた。だが、美緒という少女のガイドを通して、再び手に入れる。風は止み、また外に出る。ぼくのこころに穴が残り、そこを身勝手な風が許可もなく通過する。
風が強い日だった。ビルの合間を通り道にして、前後の見境なく風が吹きすさんでいた。ランドセルを背負った子どもが吹き飛ばされそうになり、ガードレールにしがみついていた姿もあった。別のひとりの頭のうえに乗っていた帽子が飛ばされた。まるで風船のように軽やかに道路をコロコロと転がりつづけ、木の幹に引っ掛かった。ぼくはそれを取りに向かったが正面から来る風が思いのほか強かった。すると、風を背にしたセーラー服姿の中学生が幹の根元の帽子を取った。
「はい」それがぼくの持ち物であるかのように手渡した。
「ありがとう」ぼくは礼を言う。「なんだ、君か。優しいね」ぼくはその女性の顔を見る。それは美緒という女性だった。正直に言って、この瞬間までその少女のことを忘れていた。裕紀の兄の娘。ひとり娘。ぼくはその外見が誰から受け継いだのかを知っている。
「知り合いの男の子ですか?」
「違う。全然、知らない。仕事の途中だから、この通り」ぼくは揺れるスーツの襟を無意味に握った。彼女はそのままの姿勢でぼくの次の言葉を待っているようだ。「返してくるね」
ぼくは風を背にしてその帽子の持ち主のところまで歩いて行った。「もう、被らないほうがいいね。ランドセルの中にいれちゃいなよ」と言ってそこに突っ込んだ。ぼくはまた先ほどの場所を振り返った。その少女は風に揺られて立っている。自然とぼくの足はそこに向かう。
「学校の帰り?」
「塾があるんです。その前にちょっと本屋に寄りたかったんですけど・・・」
「うん?」
「こんなに風が強くなるとは思ってもみなかった。あきらめてどこかで時間を潰そうと思います」
ぼくは腕時計を見る。ぼく自身もどこかで時間を無駄に費やす必要があるようだった。でも、それを無駄という箱に押し込めることもないのかもしれない。
「何時から、塾って?」
「5時半です」
「そう、あと、4、5十分あるんだ。お茶でも飲む?」相変わらず風は強く、どこかに入りたい心理があった。「知らないおじさんという訳でもないし」
「なんですか、それ?」
「いや、知らないおじさんに付いていっちゃいけないと散々、子どものころに言われたでしょう。うちも言ってたから」彼女は微笑む。ぼくの心臓の鼓動はいくらか早くなる。ぼくは、そこにいつも裕紀の陰を思い出す。
「ここですか?」ぼくらの横には丁度、手頃な店があった。半分は喫煙スペースがあり、半分は学校帰り大学生らしきひとたちが話し込んだり、ノートに何かを書き込んだりしていた。
「いいよ、ここでも。いい?」
ぼくらは肩を並べて入る。あのころの裕紀よりまだいくらか小柄だ。だが、総体的な身体のバランスはやはりいまごろの子どもだった。手足が長く、顔は小さく作られている。だが、眉間から目頭までの流れる感じや眉などは裕紀そのままだった。探せば、もっともっとあったが、そこまで見つめつづける勇気や度胸もない。
「あの本、読みました」
「え、あ、あれか」ぼくはすっかり忘れている。彼女に裕紀が仕事で関わった絵本をあげたのだ。「気に入った?」
「ええ」彼女は両手で紅茶のカップを包むようにして持った。爪にはなにも塗られていない。指輪もない。彼女の年代では当然のことであるのかもしれないが、ぼくはそのことを新鮮な気持ちで眺める。顔にも化粧の予感すらない。これから、塾に行くのだ。知らないことを多く学び、自分に必要なものを取得していく過程にいる。ぼくは、これはもういらないのだと自分にあきらめ、捨てることに慣れていく年代に足を踏み込んでいた。裕紀もそのような気持ちをいずれ持ったのだろうか? 彼女はやはり何事にも挑むような前向きな姿勢を失うことはなかっただろう。それは途中で奪われたのだが。
「勉強、好き?」
「好きなひとっていますか? しなきゃならないと思ってますけど」普通の子たちなら皮肉に響くであろう言葉も、彼女を通すとさっぱりとした真実というものに近かった。遠回りや虚飾はいらないという意味合いも含んでいるようだった。
「好きなひともいるでしょう。辛いけど解けると楽しいとか。じゃないと何でもつづかないよ」
「お仕事、楽しいですか?」
「まあ、楽しいね。大人だからいろいろなひとに対して良い顔を見せないといけない場合もあるけど」ぼくはそこで彼女の父の周りで起こった不祥事を思い出した。それで、突然に話の風向きを変える必要を生じた。「学校でも周りの子たちに話を合わせたりするのと同じだよ」
彼女はきょとんとした顔をする。それがどういう意味だか分からないような表情だった。孤立というものとも違っており、一本だけ池に刺さっている杭に細い足でとまっている白鳥を思わせた。ぼくらは声の悪い群れる鵞鳥だ。仕事終わりに酒場でたむろしている姿はそれに近いのだろう。そして、彼女はまた外の様子を確認するように窓のそとを見た。風はいくらかおさまったようで街路樹の揺れ方もそれほどではないようだった。
「これからもお仕事ですか?」
「うん、約束がある。この資料を相手に見てもらって、納得してもらえるか、拒絶されるか。そうしたら、もう一回だけやり直し」
「でも、楽しい・・・」
「楽しいよ。きちんとした正解はないのかもしれないけど、気に入ったものに近づける喜びがあるからね」
「やり直しがあっても?」
「そう。やり直すたびに、相手の満足が近付いてくる」ぼくは何度もやり直すというセリフを使っていた。しかし、実際の仕事以外には何事もやり直せないことを痛切に感じてきた過去があった。裕紀にとても良く似た少女からも「やり直す」という言葉を聞いた。それは正解でもなく近くにもない。さっき、少年に返してしまった帽子のように居場所も分からない。ただ、この時間はすすみ、直ぐに過去になった。この少女の一瞬の美しさも過去になり、指の爪はあざやかな色になる。顔は化粧を覚え、笑顔も単純なものではなくなるのかもしれない。いくつかの埋もれていた表情が前面にあらわれ、その言葉や目付きで未来を作る。ぼくは、裕紀のいくつかの表情を忘れてしまっていた。だが、美緒という少女のガイドを通して、再び手に入れる。風は止み、また外に出る。ぼくのこころに穴が残り、そこを身勝手な風が許可もなく通過する。