Untrue Love(9)
明日が休みになるという前々日に木下さんに話しかけられた。一週間、がんばったご褒美に遅くまで遊びたいということだった。それに付き合いなさいという趣旨の言葉が交わされたのだ。ぼくは彼女の周りにただよう上品な空気がとても好きだった。ユミの奔放さとはまったく違う気高き雰囲気。それは友情を求めず、愛する感情や相手をも遠ざけてしまうようなもろさがあった。もろさ? だが、それはぼくが勝手に解釈しただけであり、彼女には冷たさなど微塵もなかった。ただ、それに気付かない鈍感さが世間にあるようだった。
「閉店前のパンを買ってきたから、これでもお腹につめて」映画館のレイト・ショーを見るべくロビーにいるとバックから木下さんがパンを出した。映画を見て、食事でもしてという順番だったが、その時間までぼくの空腹が耐えられないという心配からの優しさだった。同時に彼女もひとつ食べた。ぼくは立ち上がり、ジュースを2つ買った。彼女は無心にストローを吸っている。この瞬間しかぼくは彼女のことを知らないのだ、という焦燥があった。それは後から考えてそう意味をくっつけているのかもしれない。多分、その瞬間の彼女を独占して知っているという満足も確かにあったのだ。しかし、数年前の彼女や学生のときのことなども訊いてみたかった。だが、徐々にその情報や新鮮な驚きを増し加えていけばよいのだろう。明日やあさってに終わる関係でもないのだ。そもそも、なにも具体的にはじまっている訳でもないのだが。
ぼくは暗闇にいる。となりには木下さんがいる。もぞもぞとお尻を動かすようなこともなく、じっとしていた。彼女の靴はきれいに磨かれていた。ぼくは先ほど見たその映像を暗いなかで思い出している。反対に、ぼくの薄汚れたスニーカー。もちろん、行っている仕事がまったく違っていた。彼女はお客さんに靴を販売して、ぼくは裏方として誰にも見られずに物を運んでいた。だが、なぜ、彼女はぼくになど興味をもつのだろう。
そんなことばかり考えていたら、映画の内容自体がすんなりと頭に入って来なかった。だが、もう一度見たい内容でもなかったのでそれでよしとした。彼女と過ごせるという時間以上に重要なものは、いまはそれほどなかったのだ。
映画館を出ると小雨が降っていた。服の色が変わってしまうほどの強さもなく、ただ目の前のライトがぼんやりとにじむようなかすかな雨だった。ぼくらは近くの店に入る。夜通し営業しているような店だった。ぼくはその店のなかで目の前にすわる木下さんをあらためて見つめる。
「どうしたの、そんなに見つめて」
「木下さんは、友だちも恋人も必要じゃない気がするなって」
「そんなひといる? それって、淋しくない」
「まあ、そうですね。ただ、なんとなく完結しているような、ひとりで」
「遠回しに、誘われたことを迷惑がっているようにきこえるよ」
「それは、全然。とても、嬉しいですから」
「順平くんは仲間たちと、たむろして話しているのがとても楽しそうね」
「たまに、主任におこられます」
「そうでしょうね。評判が大切な仕事だからね」
木下さんは言い終わるとメニューに視線を移した。聞き慣れない料理名がある。ぼくはユミが作ってくれた素朴なサンドイッチの味をすでに懐かしいものと考えていた。また、女性と男性という2つのグループに属するそれぞれのひとたちのなかでも、彼女らは両極端にいるような感じがしていた。南国のフルーツのような女性と、雪のしたに眠る小さな可憐な花のような女性。そのどちらと自分の相性が良いのかまだまだ自分には分からない。それを掴むことは可能なのかという心配もあった。
店員さんは木下さんの声に耳を傾ける。それを真剣なビジネス的な表情で書き写していた。それから、低音の声で同じ内容を繰り返した。ぼくが友人たちといく居酒屋の大きな声での復唱とはかなり隔たっていた。それが、また木下さんと合っていた。
「けっこうな量を頼みましたね?」
「余ったら、順平くんが全部、食べてね」
店員がスパークリング・ワインを運ぶ。2つの背の高いグラスに気泡が浮かぶ。その一連の過程をぼくらは押し黙って見ていた。店員は自分の動作に満足したように靴音も立てずに消えた。
「今日は、付き合ってくれてありがとう」木下さんが小さな声でささやく。
「ぼくの方が誘ってもらって、うれしいから、感謝しています」
「彼女はいないの? 唐突でごめんね」
「いまのところは・・・」
「いたら、来なかった?」
「さあ、仮定の質問に仮定で答えるのも、なんですね」
彼女は防御を解くように笑った。そんなにも大笑いをする彼女を見たことはなかった。その原因をつくっていることに満足し、彼女が笑うなら永遠の道化でいようという決意も考えていた。
一時近くなってぼくらは路上にいる。雨は止んだが路面が濡れ、反射する街のあかりが美しかった。彼女は片手を上げる。すると、タクシーが停まる。ぼくらは乗り込み、彼女が行き先を告げる。それは彼女のアパートがある場所だった。ぼくは、どこに連れて行かれるのかを考えていた。彼女の頭がぼくの肩にある。重くはない。ただ幸福な負荷だった。ぼくはタクシーの車内の足元を見る。雨のあとの道を歩いたことをまったく感じさせない木下さんの靴があった。彼女と同じように無垢な姿であった。
明日が休みになるという前々日に木下さんに話しかけられた。一週間、がんばったご褒美に遅くまで遊びたいということだった。それに付き合いなさいという趣旨の言葉が交わされたのだ。ぼくは彼女の周りにただよう上品な空気がとても好きだった。ユミの奔放さとはまったく違う気高き雰囲気。それは友情を求めず、愛する感情や相手をも遠ざけてしまうようなもろさがあった。もろさ? だが、それはぼくが勝手に解釈しただけであり、彼女には冷たさなど微塵もなかった。ただ、それに気付かない鈍感さが世間にあるようだった。
「閉店前のパンを買ってきたから、これでもお腹につめて」映画館のレイト・ショーを見るべくロビーにいるとバックから木下さんがパンを出した。映画を見て、食事でもしてという順番だったが、その時間までぼくの空腹が耐えられないという心配からの優しさだった。同時に彼女もひとつ食べた。ぼくは立ち上がり、ジュースを2つ買った。彼女は無心にストローを吸っている。この瞬間しかぼくは彼女のことを知らないのだ、という焦燥があった。それは後から考えてそう意味をくっつけているのかもしれない。多分、その瞬間の彼女を独占して知っているという満足も確かにあったのだ。しかし、数年前の彼女や学生のときのことなども訊いてみたかった。だが、徐々にその情報や新鮮な驚きを増し加えていけばよいのだろう。明日やあさってに終わる関係でもないのだ。そもそも、なにも具体的にはじまっている訳でもないのだが。
ぼくは暗闇にいる。となりには木下さんがいる。もぞもぞとお尻を動かすようなこともなく、じっとしていた。彼女の靴はきれいに磨かれていた。ぼくは先ほど見たその映像を暗いなかで思い出している。反対に、ぼくの薄汚れたスニーカー。もちろん、行っている仕事がまったく違っていた。彼女はお客さんに靴を販売して、ぼくは裏方として誰にも見られずに物を運んでいた。だが、なぜ、彼女はぼくになど興味をもつのだろう。
そんなことばかり考えていたら、映画の内容自体がすんなりと頭に入って来なかった。だが、もう一度見たい内容でもなかったのでそれでよしとした。彼女と過ごせるという時間以上に重要なものは、いまはそれほどなかったのだ。
映画館を出ると小雨が降っていた。服の色が変わってしまうほどの強さもなく、ただ目の前のライトがぼんやりとにじむようなかすかな雨だった。ぼくらは近くの店に入る。夜通し営業しているような店だった。ぼくはその店のなかで目の前にすわる木下さんをあらためて見つめる。
「どうしたの、そんなに見つめて」
「木下さんは、友だちも恋人も必要じゃない気がするなって」
「そんなひといる? それって、淋しくない」
「まあ、そうですね。ただ、なんとなく完結しているような、ひとりで」
「遠回しに、誘われたことを迷惑がっているようにきこえるよ」
「それは、全然。とても、嬉しいですから」
「順平くんは仲間たちと、たむろして話しているのがとても楽しそうね」
「たまに、主任におこられます」
「そうでしょうね。評判が大切な仕事だからね」
木下さんは言い終わるとメニューに視線を移した。聞き慣れない料理名がある。ぼくはユミが作ってくれた素朴なサンドイッチの味をすでに懐かしいものと考えていた。また、女性と男性という2つのグループに属するそれぞれのひとたちのなかでも、彼女らは両極端にいるような感じがしていた。南国のフルーツのような女性と、雪のしたに眠る小さな可憐な花のような女性。そのどちらと自分の相性が良いのかまだまだ自分には分からない。それを掴むことは可能なのかという心配もあった。
店員さんは木下さんの声に耳を傾ける。それを真剣なビジネス的な表情で書き写していた。それから、低音の声で同じ内容を繰り返した。ぼくが友人たちといく居酒屋の大きな声での復唱とはかなり隔たっていた。それが、また木下さんと合っていた。
「けっこうな量を頼みましたね?」
「余ったら、順平くんが全部、食べてね」
店員がスパークリング・ワインを運ぶ。2つの背の高いグラスに気泡が浮かぶ。その一連の過程をぼくらは押し黙って見ていた。店員は自分の動作に満足したように靴音も立てずに消えた。
「今日は、付き合ってくれてありがとう」木下さんが小さな声でささやく。
「ぼくの方が誘ってもらって、うれしいから、感謝しています」
「彼女はいないの? 唐突でごめんね」
「いまのところは・・・」
「いたら、来なかった?」
「さあ、仮定の質問に仮定で答えるのも、なんですね」
彼女は防御を解くように笑った。そんなにも大笑いをする彼女を見たことはなかった。その原因をつくっていることに満足し、彼女が笑うなら永遠の道化でいようという決意も考えていた。
一時近くなってぼくらは路上にいる。雨は止んだが路面が濡れ、反射する街のあかりが美しかった。彼女は片手を上げる。すると、タクシーが停まる。ぼくらは乗り込み、彼女が行き先を告げる。それは彼女のアパートがある場所だった。ぼくは、どこに連れて行かれるのかを考えていた。彼女の頭がぼくの肩にある。重くはない。ただ幸福な負荷だった。ぼくはタクシーの車内の足元を見る。雨のあとの道を歩いたことをまったく感じさせない木下さんの靴があった。彼女と同じように無垢な姿であった。