壊れゆくブレイン(116)
「デリケートな話なんだけど、健康診断を受けたら、再検査になっちゃった」
ぼくはなぜだか病気にかかるのは裕紀だけだと決め付けていた。それを向こうの世界に彼女は肉体とともに運んでしまったのだと。だから、雪代がいつもと変わらない自然な表情でそう告げたことに驚いていた。
「どこが、悪いの?」
「どこも悪くないよ、再検査というだけで。可能性があるだけ」雪代はあらゆる方法をつかって心配させないように努力しているようだった。ぼくは、そういう面ではかなりナイーブになっていた。「心配しないで」
「心配するよ」
「彼女は特別だったのよ」ぼくらはふたりの間で裕紀の名前を決して出さなかった。口にしないから居ないということではない。逆にぼくの胸にはいつもいた。雪代がどれほど考えているのかまったく分からない。だが、例外的にその存在を明るみに引っ張り出した。それは妥当な瞬間でもあった。ぼくは一度失い、二度もそれを経験することは避けたかった。妻を病気で。なぜ、ぼくは病気を必ず死と向かい合わせ、つなげてしまうのだろう。それは極端に過ぎた。冷静に判断すれば。
結局のところ胸のしこりは良性だった。その結果が出るまでは気が気ではなかった。でも、その報告はぼくに安堵をもたらせてくれながらも、いつか、魔の手がのび、ぼくを苦しめることもあるのだという萌芽をも含んでいた。
「広美も、そういう一通りの検査は受けているのかね?」ぼくは素朴な疑問を口にする。年齢が若いからといって、ぼくらは病気から完全に守られているわけではないという事実を、ぼくはふたたび思い出した。
「訊いてみる。それで、受けるように言ってみる」もうその話はここで中断という意志がその口調にあらわれていた。病気を脇に置いておけるひとたち。ぼくと雪代の考えは、その点では一致しないのだろう。お互い、配偶者を亡くしていたが、ぼくは病気の看病をし、雪代は事故で一瞬にして島本さんを失った。どちらが、より悲しいかという問題ではなかった。ぼくは弱っていく状態を、何の助けにもならず、黙認するしかなかったのだ。あの無力感をぼくは二度と味わいたくない。自分になにか失点があり、その結果として苦しみたかった。それを勝手に送りつけられることに、うんざりしていたのだろう。だが、雪代がその話題を膨らませないことを決めた以上、ぼくもそれに同調した。かなり、不本意でもあったのだが。
「ここなのよ」雪代は風呂上りにそこの部分を自分でさすった。「どう?」
「ぜんぜん、分からないね」ぼくもその胸の箇所を触る。そこには対象物がまったくなかった。ぼくは不思議と裏切られたような形になる。まるで、それを発見できることを楽しみにでもしていたように。
「だから、心配しすぎなのよ」彼女は、安心させるように笑った。その検査結果が来るまでは、自分もすこし動揺をしていたことを隠しおおせたように。
「でも、今後も定期的に受けた方がいいよ」
「分かってる」彼女はビールをふたつのグラスに注ぐ。ぼくは若いころのスポーツの好影響なのか、まったく病気と無縁でいられた。自分がそういうものたちに侵されることすら想像できなかった。だからといって、その恐ろしさを知らないわけではない。誰よりも認識しているのだという驕った気持ちもあった。遠くに突き放すこと。それを目指していたのだ。それと同時に知識としては、胸に飛び込むことをこころがけていた。お前たちのやり口を自分は知っているのだから勝手なことはさせまいとも思いたかった。だが、実際はその存在を知ったときには脅え、手遅れになるのだという恐怖感すらあった。でも、こうしてふたりでビールをゆっくりと飲んでいると、ぼくらはこうしてこのまま太平でいられるのだという気持ちも残っていたのだ。
「適度に働いて、適度にビールでも飲んで」ぼくは自分でもなにを話すのか分からなかった。「もうがむしゃらに何かをすることもないよ」
「でも、小さな面倒なことが増えるでしょう。大人になればなるほど」
実際、その通りだった。「とげ」とまでは言わないが、小さなものが生きることに挟まってくる。それはきれいに抜けることもなく、体内に勝手に居場所を作っている。在ることすら忘れ、日常の営みには何ら影響を及ぼしてこない。だから、ないと誤解する。
「もっと人付き合いを悪くするとか・・・」
「わたし、これでもお客さん商売だから」
雪代はパジャマの首元をしっかりと合わせ、飲み終わったグラスをシンクのなかに片付けた。それから自室に消えた。ぼくはまだ飲み足りなかった。スポーツ・ニュースを見て、別番組で知っている情報を再度ながめた。また缶ビールを開け、すわって引退をする予定の選手の最後の頑張りを見ていた。裕紀は病気になったことを泣きながらぼくに詫びた。詫びる必要などどこにもなかった。そして、泣くのはぼくが先であるべきだった。あの過去の一日をぼくは思い出す羽目になる。早目に眠ってしまってすべてを忘れたかったが、そうしなかった。引退する選手は来年どうするのだろう。生計の心配はあるのだろうか。生きることと等しかったスポーツをすべて投げ打った彼の喪失感の重みはどれほどなのだろう。ぼくはつまらないことを考え続けていた。
「寝ないの? テレビの音が外にも漏れるよ」と、雪代が部屋から首を出した。彼女は無事だった。ぼくにはまだまだ彼女のいくつかを発見する時間が宿った。
「デリケートな話なんだけど、健康診断を受けたら、再検査になっちゃった」
ぼくはなぜだか病気にかかるのは裕紀だけだと決め付けていた。それを向こうの世界に彼女は肉体とともに運んでしまったのだと。だから、雪代がいつもと変わらない自然な表情でそう告げたことに驚いていた。
「どこが、悪いの?」
「どこも悪くないよ、再検査というだけで。可能性があるだけ」雪代はあらゆる方法をつかって心配させないように努力しているようだった。ぼくは、そういう面ではかなりナイーブになっていた。「心配しないで」
「心配するよ」
「彼女は特別だったのよ」ぼくらはふたりの間で裕紀の名前を決して出さなかった。口にしないから居ないということではない。逆にぼくの胸にはいつもいた。雪代がどれほど考えているのかまったく分からない。だが、例外的にその存在を明るみに引っ張り出した。それは妥当な瞬間でもあった。ぼくは一度失い、二度もそれを経験することは避けたかった。妻を病気で。なぜ、ぼくは病気を必ず死と向かい合わせ、つなげてしまうのだろう。それは極端に過ぎた。冷静に判断すれば。
結局のところ胸のしこりは良性だった。その結果が出るまでは気が気ではなかった。でも、その報告はぼくに安堵をもたらせてくれながらも、いつか、魔の手がのび、ぼくを苦しめることもあるのだという萌芽をも含んでいた。
「広美も、そういう一通りの検査は受けているのかね?」ぼくは素朴な疑問を口にする。年齢が若いからといって、ぼくらは病気から完全に守られているわけではないという事実を、ぼくはふたたび思い出した。
「訊いてみる。それで、受けるように言ってみる」もうその話はここで中断という意志がその口調にあらわれていた。病気を脇に置いておけるひとたち。ぼくと雪代の考えは、その点では一致しないのだろう。お互い、配偶者を亡くしていたが、ぼくは病気の看病をし、雪代は事故で一瞬にして島本さんを失った。どちらが、より悲しいかという問題ではなかった。ぼくは弱っていく状態を、何の助けにもならず、黙認するしかなかったのだ。あの無力感をぼくは二度と味わいたくない。自分になにか失点があり、その結果として苦しみたかった。それを勝手に送りつけられることに、うんざりしていたのだろう。だが、雪代がその話題を膨らませないことを決めた以上、ぼくもそれに同調した。かなり、不本意でもあったのだが。
「ここなのよ」雪代は風呂上りにそこの部分を自分でさすった。「どう?」
「ぜんぜん、分からないね」ぼくもその胸の箇所を触る。そこには対象物がまったくなかった。ぼくは不思議と裏切られたような形になる。まるで、それを発見できることを楽しみにでもしていたように。
「だから、心配しすぎなのよ」彼女は、安心させるように笑った。その検査結果が来るまでは、自分もすこし動揺をしていたことを隠しおおせたように。
「でも、今後も定期的に受けた方がいいよ」
「分かってる」彼女はビールをふたつのグラスに注ぐ。ぼくは若いころのスポーツの好影響なのか、まったく病気と無縁でいられた。自分がそういうものたちに侵されることすら想像できなかった。だからといって、その恐ろしさを知らないわけではない。誰よりも認識しているのだという驕った気持ちもあった。遠くに突き放すこと。それを目指していたのだ。それと同時に知識としては、胸に飛び込むことをこころがけていた。お前たちのやり口を自分は知っているのだから勝手なことはさせまいとも思いたかった。だが、実際はその存在を知ったときには脅え、手遅れになるのだという恐怖感すらあった。でも、こうしてふたりでビールをゆっくりと飲んでいると、ぼくらはこうしてこのまま太平でいられるのだという気持ちも残っていたのだ。
「適度に働いて、適度にビールでも飲んで」ぼくは自分でもなにを話すのか分からなかった。「もうがむしゃらに何かをすることもないよ」
「でも、小さな面倒なことが増えるでしょう。大人になればなるほど」
実際、その通りだった。「とげ」とまでは言わないが、小さなものが生きることに挟まってくる。それはきれいに抜けることもなく、体内に勝手に居場所を作っている。在ることすら忘れ、日常の営みには何ら影響を及ぼしてこない。だから、ないと誤解する。
「もっと人付き合いを悪くするとか・・・」
「わたし、これでもお客さん商売だから」
雪代はパジャマの首元をしっかりと合わせ、飲み終わったグラスをシンクのなかに片付けた。それから自室に消えた。ぼくはまだ飲み足りなかった。スポーツ・ニュースを見て、別番組で知っている情報を再度ながめた。また缶ビールを開け、すわって引退をする予定の選手の最後の頑張りを見ていた。裕紀は病気になったことを泣きながらぼくに詫びた。詫びる必要などどこにもなかった。そして、泣くのはぼくが先であるべきだった。あの過去の一日をぼくは思い出す羽目になる。早目に眠ってしまってすべてを忘れたかったが、そうしなかった。引退する選手は来年どうするのだろう。生計の心配はあるのだろうか。生きることと等しかったスポーツをすべて投げ打った彼の喪失感の重みはどれほどなのだろう。ぼくはつまらないことを考え続けていた。
「寝ないの? テレビの音が外にも漏れるよ」と、雪代が部屋から首を出した。彼女は無事だった。ぼくにはまだまだ彼女のいくつかを発見する時間が宿った。