爪の先まで神経細やか

物語の連鎖
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壊れゆくブレイン(126)

2012年09月15日 | 壊れゆくブレイン
壊れゆくブレイン(126)

 あまりにも自分の得た分が多いことを知った数日だった。何度も同じ本を繰り返して読むように裕紀のことも考えていた。それはぼくから奪われたものとしてずっと記憶されていたが、思い出は数限りなく、同じ本が新たな発見をもたらし新鮮さを失わないように、紙はいくらか黄ばんできたとしても、ぼくの喜びの源泉になっていた。でも、やはり新しいページを付け加えてほしいとどこかで望んでいた。

 きちんとぼくには新しいものももたらされていた。毎日、息をしているのだから。広美の孤立を心配してか上田さんが東京で気にかけている。彼の会社の後輩であった笠原さんが広美と友人のようになってくれた。彼女の子どもと遊んでいる広美の写真が送られてくる。それをアルバムに収めながら、広美が子どもと接している写真が多いことを知る。彼女に勉強を教えたまゆみという女性の子どももいた。学校の実習で行ったキャンプで多くの子どもたちと遊ぶ広美もいた。同年代との交際だけでは味わえない楽しさを彼女は身をもって感じているのだ。そして、抱っこをしたりいっしょに笑い合っている姿がとても自然であった。ひとり娘として育った人間がそのことにどう左右するのかは分からないが、彼女はうまくやっていた。

「子どもが多く写ってるんだね」ぼくは、その写真をみて気付いたことをありのままに言う。
「そう言われると、そうね。保母さんにでもなれるのかしら」雪代はいくらか、口に出したりはしないが娘の将来を案じているのだろう。「わたしもOLみたいなこと、やってみたかったな。こころのこり」
「目立つだろう、会社内にいたら」
「失敗して、みんながそれに対して陰口を言って、謝ってもらってばかりいて・・・」
「違うよ。そわそわして、仕事が手につかなくて。会社員なんてみんな地味にできてるから」
「褒めてるんだ?」
「そうだよ」彼女は照れたように笑う。

「この上田さんの会社の女性のひと、優しいお母さんのモデルのような表情をしてるね」雪代はその一枚を指差す。「ちょっと、こっち見て。わたしのお母さん時代。もっと神経質そうな顔していない?」雪代は古いアルバムを引っ張り出した。
「そうでもないよ。雪代は写真に撮られ馴れてる。それに比べると、広美は男の子かどっちか判断つかないな」
「それが仕事だったからね。いちばん好きな角度とか。これ、夏だったからかしら、ちょっと、髪短すぎるわね、広美」

 その写真を撮ったのは当然、島本さんであるのだろう。彼は存在しないが、彼の手を通した写真はここに残っている。ぼくは、いまはそれを不思議なことと感じていた。彼らがどこかの世界に移ってしまったならば、彼らの痕跡も同時に向う側に連れて行ってしまうような錯覚があった。ぼくがあまりにも裕紀の残したものに、例えば写真などにも、接してこなかったせいだろうか。彼女はぼくのこころに居場所を作りすぎていた。永久的な借地権でももっているように。

「広美のそばにいると、どの子も自然体でいるんだね。この子はちょっと、はしゃぎすぎだけど」
「同じような幼稚な部分を見抜かれるんでしょう」
「幼い部分。同じ目線になるって大事なことだよ」

 島本さんが夏のプールで浮き輪のなかに入っている広美を見つめている場面の写真があった。水の中なので身長差はなく、目の高さの位置も同じだった。それをプールサイドで雪代が撮ったのだろう。ぼくはタイムマシンでもあれば、その様子をのぞいてみたかった。だが、本当はそんなものがなくても自由に行ける気がした。ふたりのことは、いや、三人のことは既によく知っていたのだから。

 自分はいったいそのころ何をしていたのだろう。まったく同じ日に、彼らがプールで泳いでいるころ、15年ぐらい前のその日。ある場面が思い浮かぶ。デパートにぼくらは行った。裕紀は服を選んでいる。ぼくはいっしょに回るほど優しくもなく退屈して屋上に出た。冷たいビールを飲みながら、子どもたちが遊具に乗り歓声をあげているのをぼんやりと見ていた。裕紀もその方が気兼ねなく選べるといって不満そうでもなかった。だが、いまになれば数回に一度は付き合ってあげるべきだった。服をどちらにするか迷っている裕紀。結局は、大きな袋をぶら提げた裕紀が屋上にやって来る。待っているのが、短いときもあれば、長いときもあった。彼女は青い服を着ている。服を買ったときに生じる高揚した顔を彼女はしていた。ぼくはビールの残りを見る。

 それは同じ日なのだろうか? ぼくらはプールで子どもを遊ばせる役目などなかった。ただ屋上の素朴な乗り物で楽しむ子どもたちを眺めることぐらいができる範囲だった。それでも、幸せだった。あの機会が奪われていいはずもなかった。

「これだけ、夏の炎天下で遊べばぐっすり眠れるんだろうな、子どもって」
「島本君が、そういうのを抱っこするのが得意だったから。わたしは、直ぐに彼に任せた。引越しのときも重い荷物を軽々と運んでいたし」

 それが雪代の思い出だった。それぞれが別の人間の愛情ある情報をたくわえていた。写真にものこっていないが、それゆえに鮮明でもあり色が褪せることもなかった。
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