壊れゆくブレイン(115)
暗くなった車道には、それほどの車の量がなかった。スムーズな車のモーターの回転音がする。だが、音楽をかけると、その路上にいることも忘れてしまう。
となりでは雪代が寝息をたてていた。かすかな音。それは音というしっかりとした呼び名を必要としていないのかもしれない。ただの振動。世の中を乱さない震え。先ほど海で見た大きな波とは大違いだ。数分後、サービスエリアで車を停め、ぼくはコーヒーを買った。手にのった丁度の重さの小銭。雪代にも同じものを買っておいた。彼女は車が停まっても、そのままの体勢から動かなかった。
「コーヒー?」ドアを開けると、飲み物を手にしたぼくに雪代が訊いた。
「飲む?」
「ううん、いらない。いま飲んだら、多分、夜に眠れなくなるから」ぼくはコーヒーの作用より、いまの眠りのほうが、睡魔とそのここちよい導きに影響を及ぼすような気がした。また車を流れに戻すと、雪代はもう眠らなかった。「わたし、寝てた?」
「うん。気持ち良さそうだった」
「不思議だけど、車を運転している夢を見てた。寝ているのに、アクティブ」
「どこら辺を?」
「さあ、分からないけど。まだ、ひろし君は免許を持っていなかった。それで、わたしが運転していた」
その時期を特定するのは簡単だった。ぼくらが交際していながらも、まだぼくは車の運転を法律によって規制されているころ。そんなにも長い期間ではない。
「なにか話していた?」
「ひろし君は拗ねているようだった。ひじや手首とかが擦り剥けている」
「まだラグビーをしているんだ」
「多分、最後の試合だったのかもしれない」
それこそがぼくの分岐点だったのだろう。いまになって思い返せば。
ぼくは地方予選の試合を勝ち進み、ライバル校についに勝った。それを目指してぼくの三年間は費やされたとも言えた。あとは、もう一試合だけ準決勝の対戦校より弱い相手と戦うだけだった。だが、ぼくの身体は痛みが覆っている。それも、興奮した気持ちが軽減させている状態であることを知らなかった。ぼくは雪代に誘われる。彼女の存在を知ってから、それは知るという単純な出来事ではなく、憧れるというもっと精神的な深い部分での能動的な決意でもあったわけだが、二年以上の月日が経っていた。憧れとは別に、ぼくには裕紀という同年齢の愛すべき女性がいた。ぼくと裕紀の関係は順調だった。いますすんでいるこの道のように。
ぼくは自分にご褒美をあげたかったのだろう。こんなにまで苦労して勝ちをおさめた自分には、もっと大きな喜びと、反対にその喜びを沈静化させる必要があった。そこに雪代がいた。ぼくの腕のなかにはじめて彼女がいる。彼女は前の交際相手と別れたばかりだったと思う。ぼくには裕紀がいた。だが、あの勝利を祝うにはこうするしか方法がなかったのだ。それは言い訳でもない。ぼくが自分に選んだプレゼントだった。勝利への願いと報い。
そのことを誰かが裕紀に告げた。彼女は近いうちに留学をすることになっていたが、それを早めた。ぼくは見送ることもできない。気が付けば、ぼくは彼女と会うことを絶たれていた。ただ、裏切ったのだ。得たものに比べれば、代償は小さいのだとぼくは結論をくだそうとした。自分自身のことも、周りのことも一切分からない無知で幼稚な自分がいた。
「あの頃のことか」ぼくがその返事をする間には、このような出来事が頭のなかをうずまいていた。
「となりで勝利に酔っているはずの男の子が拗ねていた。これから、それで偉いことに巻き込まれてしまうような恐れをいだいて」
「自分が望んだことだし、誰よりも自分が選びとったことだよ。分岐点になったけど」
「たしかにね」
「別れて東京に行ったことも同じように分岐点だった」
「道、間違えるよ」
ぼくは過去の思い出を考え過ぎ、いま通過する場所を間違えそうになった。家に帰るには右。左に行けば山に入ってしまう。ハンドルを調整し、ぼくはすすむべき道に戻る。
「わたしもあの男の子を応援することを生き甲斐にまで感じていた。その結果が身体を傷だらけにすることによって証明されることになったんだ。そんな風に思って、車を運転しながら横目で見てる。あのときは考えもしなかった。傷ついたのは、傷つけたのは身体だけじゃないかもしれない。わたしも随分と欲張りだったなって」
「でも、良かったよ、すべて」
「悪いとも思ってないよ、これっぽっちも」暗い車内で雪代は指を動かしたようだったが、ぼくは、そちらを見ることができない。すれ違う車の光がぼくの視界に入る。与えられた命の用い方として自分の生き方や選んだものは正しかったのかとぼくは思案した。そこには利益や損害という考えは余剰なもので、入り込ませる余地もなかった。笑いや涙というものも違っていた。ぼくの擦りむいたひじや痛む節々こそ正しかったのだとみなしたかった。それは、ぼくだけが受けるものではない。ぼくは他者にも同じように無数のものを刻んだ。能動的に。加害者として。それが許されるのかどうかも問題ではない。エンジンの音を聞いて、帰るべき家にたどり着く。それだけが正しいのだ。みな、自分の拠りどころを見つけ、帰るべきところに到着してほしかった。途中に転がっている石ぐらいにしか自分の意味もないし、善も悪意もなかったのだと、頭のなかで、まるで旗でも振り回し騒ぐ誇大なものを戒めた。
暗くなった車道には、それほどの車の量がなかった。スムーズな車のモーターの回転音がする。だが、音楽をかけると、その路上にいることも忘れてしまう。
となりでは雪代が寝息をたてていた。かすかな音。それは音というしっかりとした呼び名を必要としていないのかもしれない。ただの振動。世の中を乱さない震え。先ほど海で見た大きな波とは大違いだ。数分後、サービスエリアで車を停め、ぼくはコーヒーを買った。手にのった丁度の重さの小銭。雪代にも同じものを買っておいた。彼女は車が停まっても、そのままの体勢から動かなかった。
「コーヒー?」ドアを開けると、飲み物を手にしたぼくに雪代が訊いた。
「飲む?」
「ううん、いらない。いま飲んだら、多分、夜に眠れなくなるから」ぼくはコーヒーの作用より、いまの眠りのほうが、睡魔とそのここちよい導きに影響を及ぼすような気がした。また車を流れに戻すと、雪代はもう眠らなかった。「わたし、寝てた?」
「うん。気持ち良さそうだった」
「不思議だけど、車を運転している夢を見てた。寝ているのに、アクティブ」
「どこら辺を?」
「さあ、分からないけど。まだ、ひろし君は免許を持っていなかった。それで、わたしが運転していた」
その時期を特定するのは簡単だった。ぼくらが交際していながらも、まだぼくは車の運転を法律によって規制されているころ。そんなにも長い期間ではない。
「なにか話していた?」
「ひろし君は拗ねているようだった。ひじや手首とかが擦り剥けている」
「まだラグビーをしているんだ」
「多分、最後の試合だったのかもしれない」
それこそがぼくの分岐点だったのだろう。いまになって思い返せば。
ぼくは地方予選の試合を勝ち進み、ライバル校についに勝った。それを目指してぼくの三年間は費やされたとも言えた。あとは、もう一試合だけ準決勝の対戦校より弱い相手と戦うだけだった。だが、ぼくの身体は痛みが覆っている。それも、興奮した気持ちが軽減させている状態であることを知らなかった。ぼくは雪代に誘われる。彼女の存在を知ってから、それは知るという単純な出来事ではなく、憧れるというもっと精神的な深い部分での能動的な決意でもあったわけだが、二年以上の月日が経っていた。憧れとは別に、ぼくには裕紀という同年齢の愛すべき女性がいた。ぼくと裕紀の関係は順調だった。いますすんでいるこの道のように。
ぼくは自分にご褒美をあげたかったのだろう。こんなにまで苦労して勝ちをおさめた自分には、もっと大きな喜びと、反対にその喜びを沈静化させる必要があった。そこに雪代がいた。ぼくの腕のなかにはじめて彼女がいる。彼女は前の交際相手と別れたばかりだったと思う。ぼくには裕紀がいた。だが、あの勝利を祝うにはこうするしか方法がなかったのだ。それは言い訳でもない。ぼくが自分に選んだプレゼントだった。勝利への願いと報い。
そのことを誰かが裕紀に告げた。彼女は近いうちに留学をすることになっていたが、それを早めた。ぼくは見送ることもできない。気が付けば、ぼくは彼女と会うことを絶たれていた。ただ、裏切ったのだ。得たものに比べれば、代償は小さいのだとぼくは結論をくだそうとした。自分自身のことも、周りのことも一切分からない無知で幼稚な自分がいた。
「あの頃のことか」ぼくがその返事をする間には、このような出来事が頭のなかをうずまいていた。
「となりで勝利に酔っているはずの男の子が拗ねていた。これから、それで偉いことに巻き込まれてしまうような恐れをいだいて」
「自分が望んだことだし、誰よりも自分が選びとったことだよ。分岐点になったけど」
「たしかにね」
「別れて東京に行ったことも同じように分岐点だった」
「道、間違えるよ」
ぼくは過去の思い出を考え過ぎ、いま通過する場所を間違えそうになった。家に帰るには右。左に行けば山に入ってしまう。ハンドルを調整し、ぼくはすすむべき道に戻る。
「わたしもあの男の子を応援することを生き甲斐にまで感じていた。その結果が身体を傷だらけにすることによって証明されることになったんだ。そんな風に思って、車を運転しながら横目で見てる。あのときは考えもしなかった。傷ついたのは、傷つけたのは身体だけじゃないかもしれない。わたしも随分と欲張りだったなって」
「でも、良かったよ、すべて」
「悪いとも思ってないよ、これっぽっちも」暗い車内で雪代は指を動かしたようだったが、ぼくは、そちらを見ることができない。すれ違う車の光がぼくの視界に入る。与えられた命の用い方として自分の生き方や選んだものは正しかったのかとぼくは思案した。そこには利益や損害という考えは余剰なもので、入り込ませる余地もなかった。笑いや涙というものも違っていた。ぼくの擦りむいたひじや痛む節々こそ正しかったのだとみなしたかった。それは、ぼくだけが受けるものではない。ぼくは他者にも同じように無数のものを刻んだ。能動的に。加害者として。それが許されるのかどうかも問題ではない。エンジンの音を聞いて、帰るべき家にたどり着く。それだけが正しいのだ。みな、自分の拠りどころを見つけ、帰るべきところに到着してほしかった。途中に転がっている石ぐらいにしか自分の意味もないし、善も悪意もなかったのだと、頭のなかで、まるで旗でも振り回し騒ぐ誇大なものを戒めた。