爪の先まで神経細やか

物語の連鎖
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壊れゆくブレイン(117)

2012年09月06日 | 壊れゆくブレイン
壊れゆくブレイン(117)

 ぼくは妹の家にいる。広美が東京に行ってから休日をひとりで過ごすことが多くなった。妻は仕事がら毎週のように土日を休めるわけでもなかった。妹はもともとぼくのラグビーの後輩と結婚していたから気持ちの上でも楽だった。さらに、甥や姪も大人になりはじめ、きちんとした考えをもつようになり会話をしてもそれなりな対応ができた。

 大人同士で話すときは、もうぼくらは未来を前提にすることもなく視野に入れてもいないらしかった。すべては行われたあとの後始末のようだった。そういう会話の中身になっていると、ある日、姪が言った。

「それは、仕様がないよ。ぼくらは、歩んだ過去の幅が長くなり過ぎたから」と、ぼくは言い訳をする。しかし、甥や姪と話すときは、未来に向けて意見を放った。未体験や展望を会話に含め、経験の不足も愛すべきことのひとつにした。ぼくにもそういう時代があった。そういう日々が永遠につづいてほしいとも願っていたが当然のこと無理なお願いな部類にそれは属した。

 ぼくは夜まで居つづけ彼らといっしょに酒を飲みはじめる。妹の手料理を食べながらそれらを嗜むということも以前だったら考えられなかっただろう。彼女が家事をてきぱきとこなす女性になるなど考えもしなかった。ただ元気で外交的な女性のひとりとしてぼくは認識している。いまももとは変わらないが、ふたりの子どもを育てた年季もあった。

 仕事も終わり、雪代も電話をかけてきてこちらに加わるよう促された。すると20分もしないうちに彼女はやって来る。ぼくの妹やその夫である山下は、雪代のことを当初は愛すべき裕紀から奪った女性として、負の存在として彼女のことを認定した。その裕紀と結婚し死別したあとぼくに立ち直る力を与えた女性として彼女を認識し直した。ぼくらはなぜ、決断を早く下してしまうことを止めないのだろう。最初は否定的だった気持ちもいつか改善され肯定的な印象を勝ち取る。ぼくはそれらのひとの感情の動きや高低への揺れを客観的にながめていた。だが、また同じようにぼくもひとのことを瞬時に判断した。手持ちの情報もそれほどはないのに。だが、ぼくは根底には愛を持ちたいと思っている。悪ばかりではひとは成り立たないのだと思いたかった。だが、そういうやつもたまにはいた。だが、それもぼくの信念らしきものになりはじめた考えを打ち壊しはしないのだという無駄な自信があった。それはもともとがぼくにあった考えではないのかもしれない。ぼくは勉強のため席を外した子どもたちを抜いた大人三人を前にして口には出さないがそんなことを思いつづけていた。では、誰が持っていたのかと問われれば、それは裕紀の考えだったとの答えに導かれる。彼女が死んでも、それはいくらか形を変えながらもぼくに移植されたのだろう。だから、ぼくはその思いを大切にする。

「広美がいなくなってから、ひろし君は暇を持て余すようになったのよ」雪代は、ただ事実だけを提示するように言った。その解決も代案ももっていないようだった。ぼくらの義理の親子関係はそれほどうまく行っていたのだろう。ただの友人のように。どちらかが大人であったのか、どちらかが子どもでいたからそれはうまく機能したのだろうか。原因は分からない。それに原因を追究するような問題でもない。仲の良い友だちは、ただ、気が合うとしか説明できない。

「お兄ちゃんは面倒見が良かったから」
「オレら後輩には厳しかったぞ」山下がそう付け足す。
「お前がいま教えていることに比べれば優しいものだよ」彼はぼくらの母校でコーチをしていた。
「コーチと先輩では態度も威厳も違うから。だから、恐い先輩は恐い先輩」

 ぼくにも厳しかった何人かの先輩が思い出された。だが、あの恐さはいまになると思いやり以外の何物でもないように感じられた。甘すぎる飲み物のように思い出の濃度は、はるかに濃かった。それも印象を変えてしまう、時の推移のひとつの現象なのだろう。ぼくらは厳しかった人物の無理な注文を許し、愛の記憶とでもいうように化けることさえ許していた。これこそが、さっき姪が言っていた「後ろ向きな会話」とでも呼べるのだろう。厳しさの名残りさえも美しい記念碑となるほどまでに。

「お皿洗い手伝うね」と雪代は言って台所に向かった。ぼくの妻はぼくの妹と両肩を並べ会話をしながら皿を洗っていた。雪代がしているのは見慣れた風景だったが、ぼくはそれこそがぼくのたどり着いた、いや、目的とした人生のゴールだとも思っていた。幼かった妹は、ぼくと喧嘩して勝ち目がなかったことに対して癇癪を起こし泣いていた。泣きながらまだ懲りずに立ち向かってきた。両親はそういう気の強い部分をなげいた。ぼくは異性をあれほどまでに熱烈に愛し、焦がれることなどまったく知らなかった年代である。あの妹も恋をするなど思ってもみなかった。だが、それぞれ愛すべき妻や夫を見つけ、落ち着くところにきちんと納まっていた。ぼくには紆余曲折があったが。そういうことを思い、まだ背中を見ていた。机の向こうでは疲れたのか山下が居眠りをしていた。ぼくは練習中にその姿を見つけていたら怒鳴っていたはずだ。だが、そうする資格をもう有していない。彼の先輩でもない。彼は、ただの妹の旦那だ。厳しさなど、もうぼくにはなかった。多分、過去にもなかったのだろう。ぼくは全国大会に出ることにしがみついていた。その為に、彼らの力を必要としていた。彼らの実力を総ざらいしてもまだまだ足りなかった。もともと、ぼくにも彼らにも高すぎた目標だったのだろう。それゆえに挫折もし、ライバル校に勝てたときには舞い上がり交際をしてもいない雪代と関係をもった。そして、裕紀は追い出された。

「おじさん、試験でも終わったら、また飯でもおごってよ」と甥がぼくらが帰る間際に階段を降りてきて見送りながらそう言った。
「連れて行ってもらいなさい。うちの子が東京に行ってから、週末は淋しくしているんだから」と雪代も言った。ぼくは曖昧な返事だけ残し、夜の見慣れた景色をなつかしく感じていた。