爪の先まで神経細やか

物語の連鎖
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壊れゆくブレイン(120)

2012年09月09日 | 壊れゆくブレイン
壊れゆくブレイン(120)

「また、泳ぎをはじめようと思う」
 雪代は自分の身体の前で購入したばかりの飾り気のない水着をあてた。彼女はもともと泳ぐのが得意であった。ぼくはその姿を高校生のときに見ていた。彼女は優雅に、疲れた顔など見せずに泳いでいた。
「あの姿、覚えてるよ」
「いつの話?」
「まだ大学生だった雪代も」
「ひろし君もスリムで筋肉だらけの身体だった」それから笑った。
「何か言いたげだね?」
「別に」そして水着をもう一度、丁寧にたたんでからしまった。「あのお腹、まだ隠れてるのかね」

 平日の休みに彼女は泳いでいるようだった。ぼくらの家の近くにスポーツ・ジムができた。ぼくは仕事の往き帰りにその建物から発する消毒くさい匂いを嗅ぐ。そばには行きつけのスポーツ・バーがあった。ある日ぼくと雪代は、ぼくの仕事帰りに待ち合わせた。泳ぎ終えてからそれほど時間が経っていないのか彼女の髪はまだいくらか濡れていた。
「プール、混んでるの?」
「そんなには」
「雪代さん、あそこに通っているんですか? やっぱり、いつまでも健康で美しくありたいもんですよね。うちのバイトの子も何人か通ってますよ」店長は注文を訊きにきたときにそう言った。

 ぼくらはふたつのジン・トニックを前にしている。雪代は泳いで喉が渇いていたのだろう美味しそうにグラスを口にしていた。ぼくは汗をかいた後に取る冷え切った水分の爽快さを忘れているようだった。夕方から夜に完全に移行する前のちょっとした静寂がそのときは感じられたが、直ぐに多くのお客さんが場を占めていった。

「なんかあるんだっけ、今日?」と、ぼくは店長に訊く。
「やだな、サッカーの試合ですよ。書き入れ時です」
「そうか、じゃあ、家帰ってから見よう」
 ぼくらはスーパーに寄り、食材を買った。閉店になる前の店は安売りの時間になっていた。刺身や果物を買って、レジを通過して袋に入ったものをぼくはもっている。
「なんだか、泳ぐと眠くなるね」
「耳に水が入ったりしない?」
「あれ、いやだよね」

 手の込んだ料理はなくても満足だった。ぼくはビールを見ながらサッカーの試合を見ていた。雪代も軽くつまむ程度に食べたがソファに横たわり、そのうち居眠りをはじめたようだった。ぼくは前半を見終えて、また冷蔵庫からビールを取った。むかしのウエスト回り。もう誰も覚えていないのかもしれない。

 後半になる。ぼくの応援している側は負けていた。これから巻き返しをするのを楽しみにしている。笛の合図とともに22人が動くが、出鼻をくじくように勝っているチームが得点を決める。ぼくは嘆きの声をだした。

「点、取られた?」雪代もテレビのほうに視線を向けた。
「うん、無理かもしれないね」ぼくは逆転の期待を押し殺すように言ったが、実際はあきらめてもいない。チームの動き自体は良かったのだ。調子が良くても不図点を取られることがたまにある。いまはそのたまたまのアクシデントなのだ。
「ねえ、水取ってくれない?」

「いいよ」ぼくはコップに水を注ぐ。彼女は受け取るとまた美味しそうに飲んだ。疲労と回復のための水。ぼくはまたむかしのことを思い出した。雪代とはじめて会ったぐらいのときだ。練習後、自動販売機で雪代がジュースを買ってくれた。思ってもみなかったが、信じられないことに彼女はぼくのことを知っていた。ぼくは彼女のことをまったく知らない。目の前に突然おとずれた女性がジュースを握りぼくに渡そうとしている。だが、その一日だけの邂逅で未来が大幅に変わってしまうであろうことは予測として知っていたのかもしれない。

 雪代はクッションを首の下に敷いて枕代わりにした。そして、負けている側の応援に加わった。彼女の応援がぼくを勇気付け、力を倍化させた日々があった。そういう目に見えない力が振動や波動となってぼくのもっている気持ちの核のようなものを次第に上昇させた。核は熱を帯び、それを発するときにエネルギーに化け、ぼくはスポーツ選手としての能力を発揮する。自分の潜在能力を信じてこなかった訳ではないが、雪代はいとも簡単にそのぼくの袋のようなものの端を破き、秘められたものを爆発させる機会を作ってくれた。無数の応援を必要としていたのではない。ただ、雪代にぼくの最高の姿を見せ付けたいという自負心のようなものがあった。

 テレビの中では負けているチームは本来の力を取り戻し、なにがきっかけとしてあったのか分からないが、それぞれの役割が機能してボールをまわし始めた。すると1点を取り、直ぐに同点に持ち込んだ。相手チームは勢いという目に見えないものを恐れはじめ、身体の動きも緩慢になった。敗者はこうして敗因をうみだし育てていくのだというものがあらわれていた。雪代はもう寝そべっていなかった、椅子に座り、リモコンで音量のボリュームを上げた。

 試合の結果はぼくらの応援している方が逆転勝ちを決めた。アナウンサーは勝利を呼び寄せたという表現を使った。それが呼べば簡単に来てくれるものなのか誰も分からない。ただ、片方は片腕を頭上に突き上げて喜び、もう一方のひとりは膝を地面にくっつけ肩をおとした。ぼくは両者の気持ちが痛いほど分かった。

「ひろし君の最後の試合もこうだったね」
「どっち?」
「勝った方。わたしは誇らしかった」ぼくはその夜にみなで勝利の祝賀会をして、雪代と過ごした。「ひとりでゆっくり泳ぐのもスポーツの一部だと思うけど、こうして勝者と敗者が決まってしまう残酷なものでもあるのよね。わたしはそれに深く関わらないでよかった」と言って、最後の水を飲んだ。

 ぼくはそれはスポーツに限ったことではないと考えている。明日、普通に起きるということが勝利の連続であるならば、永遠に眠ってしまうということは単純に負けなのだと感じ、辛い記憶をよみがえらせることを自分に許していた。
コメント
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