爪の先まで神経細やか

物語の連鎖
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Untrue Love(13)

2012年09月25日 | Untrue Love
Untrue Love(13)

 数日間だけだが木下さんの姿がなかった。店内に飾られている靴たちもいくらか淋しそうに見えた。いちばんの理解者を手放してしまったように。彼女を通して靴はお客さんとの接点を見つける。雑に履かれるのもいやだろうし、サイズが違う場所にも行きたくない。靴ずれを生じさせることは木下さんにとっても誰にとっても悪徳なのだ。そのようなことを留守中のぼくは考えていた。

 そして、何日か経って彼女の姿がいつもの場所にある。靴は自分たちのかかとを鳴らして歓声をあげる。だが、そんなことはまったく起こらない。彼らは寡黙にじっと待っている。だが、ぼくには思ったことを告げる口があった。

 それで、仕事が終わりお茶を飲みながらぼくは考えたことを木下さんに伝えた。
「順平くんはアニメが好きなの? そういう映画があったら楽しそうね」そして、笑った。
「でも、なんで休んでいたんですか?」
「友人が結婚したのよ、それに出席するため。田舎に帰っていたんだ」
「そうなんですか。そうだ、田舎って、どこですか?」
「あんまり遠くもないんだけど、長野」

 ぼくにその場所の情報はあまりない。本州の真ん中あたり。ボクサーなら狙われたくないところ。静かそうな場所なのだろうか? 避暑に行くぐらいだから、そうだろう。
「なんだか、木下さんに合っていそうですね。静かで、雪が積もっていて」
「順平くんが育ったところは雪は積もらない?」
「降っても、年に1、2回。パラパラと降っておしまい。気まぐれに終わります」
「そう。わたしのところはずっと積もっていた。なんだか、面倒になって学校にも行きたくないようなときがあったけど、そういうわけにもいかないからね。理不尽だなとか思っていた」
「じゃあ、いまは暖かいところの方が好きですか? 沖縄とかハワイのようなイメージのところ」快晴の青い空。
「全然。日焼けも嫌だし、汗が顔を伝わるとかもっときらい」

 ぼくは笑う。彼女がそういう状態にあるところをイメージできなかったからだ。でも、木陰で長いストローで飲み物を吸い、ふんわりとした柔らかな素材の洋服を着ていることは想像できた。これは口にしなかったが。
「それで、どうでした、友人の結婚は?」
「あのひとたちは、わたしが学生のときからずっと付き合っていたからね。大きな問題がなければ、結婚するとも思っていた。それに、大きな問題を起こすようなひとたちでもないから」

「そうなんだ。お似合いのふたり。久代さんは、そういうひとはいなかったんですか?」
「いたよ」
「自分のなにもかも知ってくれているような?」
「そういうことって、わたしにはありえないような」
「どうしてですか?」
「秘密主義というか、ひとりでいる時間も取っておきたいような」
「べったりとしない?」
「うん、しない」
「なにをしていたひとなんですか?」この質問が中途半端なことを口に出してから気付く。学生以外のひとではないだろう。
「同じ年の野球をしていたひと」

 みんなが、ここ最近、過去に野球をしていたひとたちばかりが、ぼくの耳に集まってきているようだ。
「人気があった?」
「それほどでも。打順も後ろのほう。セカンドを守っていて、それはかなりうまかった」
「ルールとか、じゃあ、久代さんは分かるんだ?」
「偏見ね。女性は野球のルールが分からないとでも?」
「そんなこともないけど。そのひとは、帰ったときに会ったりしない?」
「どこか、別の場所に住んでるみたいだけど。関西の方ね」
「会いたい?」
「特には。もう終わったことだからね。雪が積もる場所にもあまり未練もないし、むかしの関係も大事にしないみたいだから。なんだか、冷たい人間にきこえる?」彼女は自分自身の性格に驚いたようにすこし目を剥いた。
「いや、まったく」

「そろそろ、帰ろうか」木下さんは窓の外を見た。冷たそうな風が戸外に吹いているのか、チラシのようなものが道路のうえを転がっていた。それはどこまでも進みつづけるようだった。木下さんはバッグにハンカチを入れた。木下さんらしい清楚な柄だった。ぼくは彼女の過去のひとときを想像する。彼女はセーラー服を着て、冷気のためか少し頬を紅くしている。雪が静かに降っている。その雪のかたまりが周りの音を消す。彼女は手袋をはめ、両足をゆっくりと交互にすすめる。転ばないように。足元はどのような靴を履いているのだろう。それほど、洗練されたものは履かない。だが、実用一本やりも彼女に合っていない。「どうしたの?」と彼女は言ってぼくが立ち上がるように促した。

「外、風が強そうですね」
「地下鉄の駅まで直ぐそこじゃない」
「セカンドゴロのアウトから逃げるようにダッシュしますか?」
「やだ、おいてかないで」と言って、彼女はバッグを握った。ぼくは店の前で足を止め、振り返って彼女を見た。そこが雪国だったら情景として美しいのにな、といくらか残念な気持ちになった。出入り口の横には、仕事が終わったトラックが斜めに停まり、通行をほんのわずかだが妨げていた。しかし、ぼくは長野の一都市にどれほど雪が積もるのか知らなかった。けれども、かまくらから顔を出した少女時代の木下さんのことも想像していた。いつか、そのような場所にも行ってみたいと単純にだが思った。