爪の先まで神経細やか

物語の連鎖
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Untrue Love(17)

2012年09月29日 | Untrue Love
Untrue Love(17)

 今日もバイトを終える。従業員の通用口を出ると、いつみさんの店がある。実際には駅の方面にちょっとだけ歩くとある。普段、別のルートは使わないので大体は前を通った。彼女の姿が直ぐに見えることもあれば、お客さんの背中しか確認できないこともあった。そうすると、ぼくはまっすぐ前を見て歩いているわけでもなかった。横目で見て店内の様子をうかがう。誰かを自分の視線を通して確認したいということ。それが好意の最初の段階なのかもしれない。だが、すでに好意以上のものが内包されているのかもしれない。だが、自分自身を分析するということは、とても厄介だ。分析より当事者でいるほうが余程、楽しいものだ。だから、ぼくはできれば何事も当事者でいたいと願っていた。

 そのようなことを考えていると、いつみさんの視線がこちらに向けられていることに気付いた。彼女は微笑む。そして、手招きをする。彼女が外に出られる時間ではない。店に寄るひととしか交流ができない。

「帰っても寝るだけなんでしょう? ちょっと寄っていきなよ」彼女は断定的にそう言った。
「決めつけないでくださいよ」
「誰かから、電話が来るとか?」そう言いながらも彼女は空いている座席を示した。
「待ってないですけど」
「こんばんは、順平くん」奥から男性の声がきこえる。
「こんばんは。今日も忙しそうですね」ぼくは声が届いたか分からないがそう返事をした。しかし、きちんと伝わったらしい。

「それほどでも。いま、何か作ってあげるよ」彼がそう言うと、何人かがお会計のために立ち上がった。夜はこの付近の場所にある店と比較すると遅くまで開けていなかった。客も常連が多く、それぞれのしきたりを守っているようにも思えた。その規則を作ったのは彼らではなく、彼らの母だった。子どもが待っているため、それほど遅くまで開店させているわけにもいかなかったらしい。そこには小さな歴史があり、時間の積み重ねが良い方向に流れていた。

 彼らのためにいつみさんは清算をしている。小銭の音がする。そして、レジの機械が閉まる音がする。ぼくのバイトは直接、お金に関わってこない。そのため、お金についてのミスもない。多く貰いすぎることもなければ、お釣りを間違えることもなかった。その小さな数字の積み重ねもやはり店の歴史だった。

 ぼくの前に皿が出される。中味はピラフのようなものだった。
「順平くんは、好き嫌いはないんだろう?」すべてを把握しているような口調でキヨシさんが言った。
「とくにはないですね」ピーマンの緑色が多めにあった。切り過ぎたのかもしれない。
「良いことだよ。店にとってもありがたい。野菜の生産者にとってみれば、もっとありがたい。ところで野球はどうだった? いつみは、なにも話してくれない」

「うそばっかり。いままで、一回も訊かなかったくせに」
「弟は遠慮しているんだよ。姉が怒ると恐いからね」彼はタオルで手を拭き、それをまた腰にくくりつけた。
「楽しかったですよ。だけど、応援しているチームが別々だった」ぼくは率直な感想を語る。「それで、喧嘩になるようなことはなかったですけど」
「ちょっと、びっくりした」
「応援というのは難しいもんだよ。勝つのが分かりきっているチームを応援する意味がオレにも分からないしね」

 すると、最後のお客さんも消えた。高価なスーツを着込み、その上にコートがある。白が混じった髪をしていた。そういう相手をするときは、いつみさんはぼくとの対話のときより、きちんとした言葉遣いをした。ずっとここにいる訳でもないので本当のところは分からないが、そのかしこまった中にもくつろいだ関係があるようだった。その為に、その最後のお客さんも度々、通ってくるのだろう。ぼくも何度かその姿を見かけていた。

「そろそろ、時間だな。あとはグラスを洗ったり。いつみ、お金をまとめたら、先に帰ってもいいよ」
「ほんと?」
「だって、順平くんと同じ方角なんだろう? 送ってもらえよ」
 ぼくはピラフを食べ終え、ビールを飲み干した。口を拭い、散歩に連れて行かれるのを待つ犬のような気持ちになった。
 いつみさんは壁にある扉を開き上着をだした。それを着込み、最後の仕上げのように髪をゆすった。
「じゃあ、甘えて先に帰るよ」皿を洗っている音がする方にいつみさんは声をかけた。少し金属的な声。その所為かよく声が響いた。
「はい、どうぞ」

 ぼくらはふたりで外に出る。冷たい空気だが、新鮮さもあった。でも、山の空気のように澄んでもいない。そもそも、ぼくはそれがどういうものか深くは理解していない。木下さんなら適切な表現ができるのだろう。山の上に帽子のように積もっている雪たち。見てきたひとと、見てこなかったひとの違い。

「まだ、混んでるね」いつみさんはホームに着くと、目でひとを数えるように見回しながらそう表現した。
「いつもは、もう少し遅いんですか」
「これ、終電から、まだ2、3本前だよね。いつもは最後の電車」
「寝過ごしたりしないですか?」
「あまり、寝ないね」

 ホームに電車が着いた。何人かが乗り換えのためか急いで降り、我先に階段を駆けのぼる。その内のひとりの足が酔いのためかもつれて階段を踏み外す。事故にはならなかったが、少し危なかった。それを背にぼくらはその電車に乗り込んだ。ひとつだけ席が空いており、そこにいつみさんが座ったので、ぼくは吊り革を握り彼女を見下ろすような形になった。