爪の先まで神経細やか

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壊れゆくブレイン(129)

2012年09月18日 | 壊れゆくブレイン
壊れゆくブレイン(129)

 12月になり大学が休みになった広美が戻ってきた。およそ一年半ほど大学に通い、東京での生活もすっかり慣れたようだ。しかし、家に帰ると大人びた様子を捨て去った。朝早く起きることも止め、朝食時にいないことも多かった。だが、そういう場所があるということは本人にとっても良いことなのだろう。

 ぼくらは雪代がいないときには、またスポーツ・バーに通う。大きなサッカーの大会が年末に行われていて、ぼくらはそこで鑑賞する。

「広美ちゃんは、もうお酒を飲めるようになったんだっけ?」そこの店長が彼女との時間が開いたことに対するためらいもなしに質問をした。
「年齢的には来年から。もう少し」
「残念だね。うちでパーティーをしてあげるよ。請求はひろしさんに回すけど」
「いいよ」ぼくは普通の表情で返事をする。

「もっと喜ぶとか、感激とかないんですかね」と店長はがっかりした表情で奥に消えた。
「ママ、最近どう?」
「どうって、いつも通りだよ。あの通り」
「そう」
「なんかある? 変わったところとか」
「とくにないけど、本人に訊くより正確かなと思って」
「毎日のように会っていると分からないよ。それより、間があいているひとの方がよく分かると思うけど」
「じゃあ、変わってないね」

 広美にジュースが運ばれ、ぼくにはビールが出された。来年にでもなればいっしょにお酒が飲める。その事実にやはり少しだけ驚いている。驚愕という大きなものではないが戸惑うという表現がより近いのだろう。普通の父親なら、病院で母の隣に寝ている娘というものがはじめての対面だろうが、ぼくらは違かった。ぼくは、小学生の彼女を、運動会で走る姿を見たのが最初だ。実際は、彼女の幼少期に一度だけ会った。ぼくはその小さな子を抱いた。いずれ、彼女の未来に対して責任ある立場になるとも思っていなかった。以前の交際相手が子どもを産んだ。ぼくは客観的にその子に接する。それっきりで済むはずだった。

 テレビではサッカーの決勝が行われる。店内は興奮した雰囲気が徐々に満ち始める。ぼくはトイレに行き、手を洗いながら鏡で自分の顔を見た。40代半ばの顔。20才前の娘がいっしょに出歩くことを拒否しないぐらいにはまともで、その時期の自分の思い出はもう遠くにあるぐらいのことは認められる年齢だった。そう悪いものでもない。

 席に戻ると試合ははじまった。一喜一憂があり、店内は盛り上がりを見せていく。会場の興奮が伝染し、ぼくらにも乗り移ったようだった。家でひとりで見ているより体内の血液が行き巡っていることが本能的に理解できた。冷静ではいられず、また大騒ぎするにはもったいないほどの良くできすぎた試合だった。

 前半が終わる。試合はどちらもゴールを決められず、引き分けだった。ぼくは白ワインを飲みはじめている。

「ちょっと飲んでいい?」ぼくが返事をする前に広美がそれに口をつけた。「おいしいね」と彼女はぼそりと言う。
「見つけましたよ。補導してもらわないと。親子ともども」と店長は言い、新たなジュースを広美の前に置いた。このハーフタイムの時間は忙しく、彼は店内を慌ただしく歩き回り、注文を取り、皿やグラスを運び、使い終わった皿を調理場にもっていった。
「来年に帰ってきたときは、ゆっくりと飲もう」

 普通であれば、父親はそのときまでに20年間をいっしょに過ごしたことになる。それはある意味、重い関係に思えた。ぼくは10年ほどの期間を有している。それも重いことには変わらなかった。ぼくは最初の妻になるひとと東京で再会してから死別するまでの時間も10年しかなかった。それが重いならば、娘との10年も等しく重かった。

 後半がはじまる。試合はなかなか動かない。だが、どちらかが点を多く入れないと試合は終わらない。その単純さが限りなく美しく感じられた。遠慮もなく、自分の最大限の力を発揮するのだ。それが不可能だと思っているひとは、ひとりもここに来られないのだろう。

 後半も半ばを過ぎたころ、イングランドのチームの選手が点を入れる。その1点で試合は決まったかもしれず、また逆転をする可能性もまだまだ残っていた。

「いつか、大人になったら訊こうと思っていたんだけど・・・」と、広美が突然、言った。
「どうしたの? そんな、まじめな顔して」試合はまだ数分だけ残っている。まじめと言われたことに抵抗するように彼女は急にへらへらと笑い出した。
「いやね。わたしも誰かを好きになってきたけど、何人かそれもいる」
「そうだろうね」
「うまくいったり、別れたり・・・」彼女は自分のジュースを飲んだ。「ひろし君は2回、結婚したでしょう。うちのママと裕紀さんというひとと」
「そうだね」広美はなにを言い出すのだろう?
「本当はママとそのひととどっちが好きだった?」

 これはずっと自分に問いかけるべき質問としてどこかに存在していた。ぼくは、だがそれを目にも耳にも入れてこなかった。だが、この年の暮れのサッカーの決勝の日に質問される。それも義理の娘から。ぼくは、どう返答したらいいのだろう。

 ぼくは大きな画面を見る。赤い悪魔といわれたチームの赤ら顔の監督が勝利をもぎとった瞬間が映し出されていた。彼にとってどちらの選手の方がより大事なのだろう。スターがそこにはふたりいた。ウェイン・ルーニーというボクサーのような体型の人物か、それとも、クリスティアーノ・ロナウドというファッション紙で香水でも振り撒いている広告が似合いそうな人物か。彼にとってみたら、どちらも大切なことは当然で、優劣などつけられないだろう。ぼくは返事を躊躇する。世界中が知っているひとと比べてみても仕方がない。だが、ぼくにとってはふたりとも輝けるヒロインであった。そして、ただ画面を一心に見ることによって答えの代わりにしようとしていた。
コメント
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