16歳-25
水槽を変えた所為なのか金魚が死んだ。十数年飼ったというわけでもないが、やはり居なくなれば淋しいものだった。実際に肌に触れて、気持ちや感情を交換するような類いの生きものでもない。機嫌に応じて吠えかけることもしない。ぼくのそれまでの喪失の体験といえば、どう掻き集めても小学生のときのちっぽけなそれが最大のものだった。
水槽が汚れれば掃除をする。ひとりではできないので母に手伝ってもらった。夏場は水遊びの延長でもあったので快適で楽しいものだったが、冬場は凍えた。その手間がなくなってよかったとも思えるが、しかし、水中で優雅に泳ぐ姿(夜店でもらうようなものではなかった)を見たり、餌をあげて、水面で口を開ける任せっきりの信頼の様子を観察した機会を奪われるのとを比較すれば、喪失というのは当然に後味が悪いもので、厄介でもあった。
ぼくは生身の人間と気持ちを通わせている。一日一日の小さな歴史が通常のこととなる。ぼくは毎日、通学ということもしていない。そのことに未練はないので仮説はもろくも崩れそうになるが、愛を傾ける対象に限ってと注釈をいれれば仮説は正当化される。
立ち止まって考える。友情というのも楽しみをいっしょに経験したり、ときには摩擦したりしながら多くの時間を過ごすことによって深まっていく。そうすると、ぼくはもうそうした関係に深入りしないことで得るものも、反対に失うこともあるのだろう。失った重さを計る術も知らないから、答えようもない。アフリカの大地の景色を知らないのと同じ程度で知らなかった。
ぼくは彼女との一日の積み重ねが自分に影響を与えているなど考えてもいなかった。母親の手料理を信頼していれば、独自に栄養学を身につけなくても健康を損なうことなどないとおぼろげに予測しているように。突然、母がいなくなれば、ぼくら兄弟はバランスのとれた食事と簡単に無縁になる。ぼくは彼女が提供するすべてのものから大事なものを吸収していた。笑顔。笑い声。ぼくは、こんなにも哀れで陳腐な表現しかできない。しかし、気張った、意気込んだ表現などあの当時の彼女にふさわしくもない。
秋から冬の短い季節は、楽しみの多い少ないにかかわらず、あっという間に過ぎてしまう。金魚より短い命。ぼくは水槽の中のものより、もっともっと短い期間しか彼女を知らないことになる。
ぼくは数行でこの物語についてもペンを置くべきなのだ。だらだらと無節操に蛇の足を書き込んでいる。蛇はいずれ帽子をかぶり、靴下まで履くようになってしまう。段々と彼女を拡大化させることによって、自分もすべても相対的に矮小化されていく。レンズの焦点から外れてしまったように。ぼくはそのことを望んでいたのだろうか。癒しのために、ぼくはあの彼女の姿をペンで追跡している。追跡ではない、追悼なのだろうか。ぼくはもう葬るべきなのだ。金魚を玄関の脇の固い地面に無残に埋めてしまったように。
しかし、葬らない生き方もぼくの前にずっとつづくこともあり得たのだ。誰かが、邪魔をしたわけでもない。両親や教師がぼくらの関係を攻めたのでも、引き離そうと計画したのでもない。ぼくには先生という立場すらいない。その役割はいったい誰が担うのだろう。
ぼくはバイトに行く。雨の坂道の最後に濡れた鉄板があって思わず自転車ごと転がった。痛みは恥辱に敵わない。ぼくは立ち上がり、傘をもう一度さして家に戻った。
ひとの対処などすべてそのように簡単に行えるのだ。自転車を立て直し、金魚は埋める。水槽は処分して、新たな生き物は飼わない。しかし、自転車は傷つき、軋む音を立て、生き物から得られる愉しさはのこり、もう一度、同じ経験をしたいと願う。
ぼくは彼女の寒さに抵抗する肌をながめる。鼻のあたまと頬はかすかにピンクに染まる。目は大人に完全に移行する前にぼくのことを眺めるために使われる。
スケジュールなどないぼくらだったが、いくつかの約束はする。ぼくには一切、騙そうとか、おとしいれようという気持ちはなかった。後年、もしかしたらそのような気持ちで女性に接したことがあったかもしれない。だが、この時点まではぼくは完全に純粋であったのだ。自分にも負の感情がなく、誰もがぼくに対して用いなかった。
しかし、パラダイスに生きているわけでもない。母はぼくの同級生の母に、「最近、学校の方はどう?」と訊かれる。ぼくが学校を辞めたことを、その女性は確実に知っている。世の中にはそういう難しさと面倒があることを知る。母の面子をつぶす。ぼくはなぐさめることも戦うこともしない。そのような世の中に薄いレースのカーテンのようなものを間に敷こうと思う。そこにぼくの彼女だけは入ってもらおう。
何かを死なせたり、楽しい関係が終わってしまうことは避けられないのだ。ぼくはもっと前にその事実を強く認識しておくべきだった。だが、何度も言うが誰かが策を練ってぼくに挑んだわけでもない。ぼくが勝手に自分に許したのだ。だが、まだほんの少しだけ先だ。水槽は入れ替わっていない。なかに優雅に泳ぐ生き物がいる。それはぼくの彼女でもある。翌朝のひかりの下で、ぼくはまた見守る。寒かろうが、手が切れるほど痛もうが、ぼくはこの状態を清浄なまま保つ努力をするのだろう。ほんとうは、するべきだったのだろう。
水槽を変えた所為なのか金魚が死んだ。十数年飼ったというわけでもないが、やはり居なくなれば淋しいものだった。実際に肌に触れて、気持ちや感情を交換するような類いの生きものでもない。機嫌に応じて吠えかけることもしない。ぼくのそれまでの喪失の体験といえば、どう掻き集めても小学生のときのちっぽけなそれが最大のものだった。
水槽が汚れれば掃除をする。ひとりではできないので母に手伝ってもらった。夏場は水遊びの延長でもあったので快適で楽しいものだったが、冬場は凍えた。その手間がなくなってよかったとも思えるが、しかし、水中で優雅に泳ぐ姿(夜店でもらうようなものではなかった)を見たり、餌をあげて、水面で口を開ける任せっきりの信頼の様子を観察した機会を奪われるのとを比較すれば、喪失というのは当然に後味が悪いもので、厄介でもあった。
ぼくは生身の人間と気持ちを通わせている。一日一日の小さな歴史が通常のこととなる。ぼくは毎日、通学ということもしていない。そのことに未練はないので仮説はもろくも崩れそうになるが、愛を傾ける対象に限ってと注釈をいれれば仮説は正当化される。
立ち止まって考える。友情というのも楽しみをいっしょに経験したり、ときには摩擦したりしながら多くの時間を過ごすことによって深まっていく。そうすると、ぼくはもうそうした関係に深入りしないことで得るものも、反対に失うこともあるのだろう。失った重さを計る術も知らないから、答えようもない。アフリカの大地の景色を知らないのと同じ程度で知らなかった。
ぼくは彼女との一日の積み重ねが自分に影響を与えているなど考えてもいなかった。母親の手料理を信頼していれば、独自に栄養学を身につけなくても健康を損なうことなどないとおぼろげに予測しているように。突然、母がいなくなれば、ぼくら兄弟はバランスのとれた食事と簡単に無縁になる。ぼくは彼女が提供するすべてのものから大事なものを吸収していた。笑顔。笑い声。ぼくは、こんなにも哀れで陳腐な表現しかできない。しかし、気張った、意気込んだ表現などあの当時の彼女にふさわしくもない。
秋から冬の短い季節は、楽しみの多い少ないにかかわらず、あっという間に過ぎてしまう。金魚より短い命。ぼくは水槽の中のものより、もっともっと短い期間しか彼女を知らないことになる。
ぼくは数行でこの物語についてもペンを置くべきなのだ。だらだらと無節操に蛇の足を書き込んでいる。蛇はいずれ帽子をかぶり、靴下まで履くようになってしまう。段々と彼女を拡大化させることによって、自分もすべても相対的に矮小化されていく。レンズの焦点から外れてしまったように。ぼくはそのことを望んでいたのだろうか。癒しのために、ぼくはあの彼女の姿をペンで追跡している。追跡ではない、追悼なのだろうか。ぼくはもう葬るべきなのだ。金魚を玄関の脇の固い地面に無残に埋めてしまったように。
しかし、葬らない生き方もぼくの前にずっとつづくこともあり得たのだ。誰かが、邪魔をしたわけでもない。両親や教師がぼくらの関係を攻めたのでも、引き離そうと計画したのでもない。ぼくには先生という立場すらいない。その役割はいったい誰が担うのだろう。
ぼくはバイトに行く。雨の坂道の最後に濡れた鉄板があって思わず自転車ごと転がった。痛みは恥辱に敵わない。ぼくは立ち上がり、傘をもう一度さして家に戻った。
ひとの対処などすべてそのように簡単に行えるのだ。自転車を立て直し、金魚は埋める。水槽は処分して、新たな生き物は飼わない。しかし、自転車は傷つき、軋む音を立て、生き物から得られる愉しさはのこり、もう一度、同じ経験をしたいと願う。
ぼくは彼女の寒さに抵抗する肌をながめる。鼻のあたまと頬はかすかにピンクに染まる。目は大人に完全に移行する前にぼくのことを眺めるために使われる。
スケジュールなどないぼくらだったが、いくつかの約束はする。ぼくには一切、騙そうとか、おとしいれようという気持ちはなかった。後年、もしかしたらそのような気持ちで女性に接したことがあったかもしれない。だが、この時点まではぼくは完全に純粋であったのだ。自分にも負の感情がなく、誰もがぼくに対して用いなかった。
しかし、パラダイスに生きているわけでもない。母はぼくの同級生の母に、「最近、学校の方はどう?」と訊かれる。ぼくが学校を辞めたことを、その女性は確実に知っている。世の中にはそういう難しさと面倒があることを知る。母の面子をつぶす。ぼくはなぐさめることも戦うこともしない。そのような世の中に薄いレースのカーテンのようなものを間に敷こうと思う。そこにぼくの彼女だけは入ってもらおう。
何かを死なせたり、楽しい関係が終わってしまうことは避けられないのだ。ぼくはもっと前にその事実を強く認識しておくべきだった。だが、何度も言うが誰かが策を練ってぼくに挑んだわけでもない。ぼくが勝手に自分に許したのだ。だが、まだほんの少しだけ先だ。水槽は入れ替わっていない。なかに優雅に泳ぐ生き物がいる。それはぼくの彼女でもある。翌朝のひかりの下で、ぼくはまた見守る。寒かろうが、手が切れるほど痛もうが、ぼくはこの状態を清浄なまま保つ努力をするのだろう。ほんとうは、するべきだったのだろう。