繁栄の外で(11)
9月になって、結論としては学校を辞めることにする。系統だって勉学をしたのは(生産レーンに乗ってはという意味)およそ10年ぐらいだ。最初の2、3年は勉強ともいえないのかもしれないが、それでも8、9年は残るだろう。短いものだ。
そのことを母に告げる。あまり、表立っての反応はなかった。自分の兄も学校を辞めていたので、うちの家族にはそもそも学問が肌質に合わないのかもしれない、という家庭内の雰囲気もあり、男だったらなにか肉体でもつかって、勝負できるだろう、という未来の安易な予測もあったかもしれない。この辺は当人ではないので分からない。父はいつものように何も言わず、我が判断に、簡単に家族の承認が得られる。
それでも、お世話になった中学の先生には、決断とお詫びに行った。彼も忙しいらしく、そのうち接客にも乱雑さが見えたので数度でやめた。彼にも、それぞれ大切な生徒が多数いるのだ。
自分の決断としては問題ないが、その8年後同じように弟も学校を辞めると言い出したときは、その前例になってしまったことを悪いと思うと同時に悔やんだ。だが、それも仕方がないことだ。
勉強が嫌いになったわけでもないので、学問という一直線の道を最短距離で通過したいという気持ちは残った。しかし、それを高いお金を払って(多分、36万円という父の汗である入学金を棒に振った。あるいはドブに捨てた)系統だって教えてくれるところが学校である、ということをいまの自分は知っている。なので、誰かよその子供がおなじような判断をするならば、是非ともとめたい。しかし、どのルートも最後にはその人自身の表現の一部でもあるのだろう。
それで、こちらは車の工場のように流れ作業で順当に組み立てられていくという工程を失った。24年も経った自分は、自分で同じような車を作ったはずだが、当然のように部品はないので手近のもので代用し、塗装は危険性のある物質をかけ、シートは座り心地がよくないものを完成させる。それは、自分では車だと思っているが、他の人からみたら、まったく別物かもしれない。でも、それで良かったのだ。
辞めてから三週間後ぐらいからバイトをするようになる。お金をためて調理の資格のようなものを取るのも悪くないな、と考えているが、普通のいろいろな計画と同じように頓挫する。ただ、自分には学がないのだ、ということを負荷として考え、それで本ぐらいは読んでおこうと決意する。その決意はいままで辞めていない。そのお陰でなにかしらの世界への取っ掛かりができ、いくつかのオピニオンも考えられる脳をもてた。しかし、学校がただ学問のおさらいだけではなく、そこで友人たちや恋人たちを得ることも付加価値として付属しているならば、そういうものを捨ててしまった事実は確実にある。だが、一人でいることを苦にしないように訓練したので、そのこと自体はなにも後悔はない。それでも、少なからずの友人はいまでもいる。ただ、ボーリングの酷いガーターのようにレーンを外れたことは誰よりも知っている。
なにも悪いことばかりが、その当時あったわけでもない。夏の終わりに数人でお酒を飲み、「あの子のことが、数年来好きだった」ということを女の子の前でも言い、彼らはそのことを当人に言ってくれた。
ある日、たむろしていた喫茶店で、彼女の家も近いということで電話を、そのうちの一人がかけてくれた。こっちに来てもいい、という返事があり、ぼくは焦りながらも待った。何分か待って、3月以来、(同じ街に住んでいるので、なんどか見かけたことはあるが)ひさびさに会った。学生時代も同じクラスではないので、楽しく会話したという覚えもないが、彼女の存在自体が神々しく見えた。
女性が、そういう視線をもらってうれしいのかいまだに分からないが、店の戸があき、夏だったのでそこに現れた彼女のノースリーブの洋服が、とても似合っていたことも覚えている。
ぼくが好きらしい、ということが分かってそれで来たのだから、交際してくれるのも時間の問題だろう、とぼくは考える。考えながらも、その後なんどか電話をして話した。話しながらも、直球の質問が来ないことを彼女がためらっていることを、その子の友人がぼくに告げた。それであわてて、ぼくは電話をかけ、最終的な告白をした。良い方の返事をもらったが、なんという喜びだったのだろう。
それで、ぼくは最愛のものを手に入れながらも、もう立場的には学生ではなかった。自分はほかの人間と同じようになりたくないと思いながらも、同級生の幾人かも途中で学校を抜ける形になっていた。
9月になって、結論としては学校を辞めることにする。系統だって勉学をしたのは(生産レーンに乗ってはという意味)およそ10年ぐらいだ。最初の2、3年は勉強ともいえないのかもしれないが、それでも8、9年は残るだろう。短いものだ。
そのことを母に告げる。あまり、表立っての反応はなかった。自分の兄も学校を辞めていたので、うちの家族にはそもそも学問が肌質に合わないのかもしれない、という家庭内の雰囲気もあり、男だったらなにか肉体でもつかって、勝負できるだろう、という未来の安易な予測もあったかもしれない。この辺は当人ではないので分からない。父はいつものように何も言わず、我が判断に、簡単に家族の承認が得られる。
それでも、お世話になった中学の先生には、決断とお詫びに行った。彼も忙しいらしく、そのうち接客にも乱雑さが見えたので数度でやめた。彼にも、それぞれ大切な生徒が多数いるのだ。
自分の決断としては問題ないが、その8年後同じように弟も学校を辞めると言い出したときは、その前例になってしまったことを悪いと思うと同時に悔やんだ。だが、それも仕方がないことだ。
勉強が嫌いになったわけでもないので、学問という一直線の道を最短距離で通過したいという気持ちは残った。しかし、それを高いお金を払って(多分、36万円という父の汗である入学金を棒に振った。あるいはドブに捨てた)系統だって教えてくれるところが学校である、ということをいまの自分は知っている。なので、誰かよその子供がおなじような判断をするならば、是非ともとめたい。しかし、どのルートも最後にはその人自身の表現の一部でもあるのだろう。
それで、こちらは車の工場のように流れ作業で順当に組み立てられていくという工程を失った。24年も経った自分は、自分で同じような車を作ったはずだが、当然のように部品はないので手近のもので代用し、塗装は危険性のある物質をかけ、シートは座り心地がよくないものを完成させる。それは、自分では車だと思っているが、他の人からみたら、まったく別物かもしれない。でも、それで良かったのだ。
辞めてから三週間後ぐらいからバイトをするようになる。お金をためて調理の資格のようなものを取るのも悪くないな、と考えているが、普通のいろいろな計画と同じように頓挫する。ただ、自分には学がないのだ、ということを負荷として考え、それで本ぐらいは読んでおこうと決意する。その決意はいままで辞めていない。そのお陰でなにかしらの世界への取っ掛かりができ、いくつかのオピニオンも考えられる脳をもてた。しかし、学校がただ学問のおさらいだけではなく、そこで友人たちや恋人たちを得ることも付加価値として付属しているならば、そういうものを捨ててしまった事実は確実にある。だが、一人でいることを苦にしないように訓練したので、そのこと自体はなにも後悔はない。それでも、少なからずの友人はいまでもいる。ただ、ボーリングの酷いガーターのようにレーンを外れたことは誰よりも知っている。
なにも悪いことばかりが、その当時あったわけでもない。夏の終わりに数人でお酒を飲み、「あの子のことが、数年来好きだった」ということを女の子の前でも言い、彼らはそのことを当人に言ってくれた。
ある日、たむろしていた喫茶店で、彼女の家も近いということで電話を、そのうちの一人がかけてくれた。こっちに来てもいい、という返事があり、ぼくは焦りながらも待った。何分か待って、3月以来、(同じ街に住んでいるので、なんどか見かけたことはあるが)ひさびさに会った。学生時代も同じクラスではないので、楽しく会話したという覚えもないが、彼女の存在自体が神々しく見えた。
女性が、そういう視線をもらってうれしいのかいまだに分からないが、店の戸があき、夏だったのでそこに現れた彼女のノースリーブの洋服が、とても似合っていたことも覚えている。
ぼくが好きらしい、ということが分かってそれで来たのだから、交際してくれるのも時間の問題だろう、とぼくは考える。考えながらも、その後なんどか電話をして話した。話しながらも、直球の質問が来ないことを彼女がためらっていることを、その子の友人がぼくに告げた。それであわてて、ぼくは電話をかけ、最終的な告白をした。良い方の返事をもらったが、なんという喜びだったのだろう。
それで、ぼくは最愛のものを手に入れながらも、もう立場的には学生ではなかった。自分はほかの人間と同じようになりたくないと思いながらも、同級生の幾人かも途中で学校を抜ける形になっていた。