爪の先まで神経細やか

物語の連鎖
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11年目の縦軸 38歳-26

2014年04月16日 | 11年目の縦軸
「誰か、身の回りのひとで、有名になったひといる?」
「どれぐらい、身近」
「例えば、学生時代のことを知ってるとか。机を並べて勉強した仲とか」

 絵美は質問する。ぼくらは過去を話題にする。共通のものがない代わりに、それを埋め合わせる楽しさがあった。穴のままのこしておけば足のつま先を引っかけて転がるおそれもある。それも嘘でただの会話だ。あとで不意に不利な証拠として用いられることもたまにあるが。

「ひとりいたね。いや、ふたりか」
「ね、だれとだれ?」

 ひとりは二学年先輩のボクサーだった。チャンピオンになる。左フックという脅威を感じさせるパンチを武器にしており、深夜のテレビに釘付けになるぼくらがいた。もうひとりは甲子園に出たひとつ先輩がいた。甲子園というものに高校生がどれほど出るのか分からない。だが、千という単位には足りず、およそ数百人だろう。予選の裾野では無制限に数が伸びる。レギュラーを勝ち取り、一試合だけ全国大会のテレビにうつる。ぼくは中学生時代にその先輩のユニフォーム姿を見ていたはずなのに、絵美に訊かれるまでは、彼や、ふたりのことはすっかり忘れていた。忘れることもできるふたりだったのだ。

 ぼくら男の子が求められているのは、地域的にもこのような類いのものだったのだろう。燕尾服を着たり、事前にチューニングなどいらない作業。

 だが、ぼくは話ながら彼らの兄弟のことも思い出している。ほぼ同じ境遇でありながら、いくらか日が当たらない方として。尖った見るべき才能の授与を軽減された側として。

 スポットライトがあたる。努力は報われるという少年少女たちへの善意の紙芝居。ぼくらは踊り、祭りのあとに疲れた身体だけ横たえた。自分の持ち分はぐっすりと眠れるこの疲労感だけが報酬として与えられたようだった。とび抜けた才能の代わりに。安っぽい万能な才能。

「応援した?」
「もちろん。ダウンを決めるまでは自分の拳もかたく握ったぐらいにね」

 だが、甲子園のことはあまり覚えていない。高校三年生の年齢時の楽しみ方など、坊主になってグラウンドでヘッドスライディングをすることと違うような気もしていた。ぼくは十七才として見ていた。希望ももちろんあるが、大まかな限界も知った年頃だった。さらに恋にも破れたあとだ。厭世観のないやつなどバカと同義語だと定義していた。

 しかし、絵美に問われるまま答えていると、あの当時にできるすべてを彼らは出し尽くしていたのだということに気付かされる。反対に、ぼくのなかには消化不良ななにかがのこっている。きちんと燃焼されなかった炭のようにまだ黒いままゴロゴロとあたりに転がっていた。ああいう時期にきちんと退治し、根絶することが必要ななにかが世の中にはあるのだろう。

「絵美には?」
「留学してから帰ってきて、レストランでお菓子をつくってる子が、この前、雑誌にでていた。びっくりした」
「むかしから、料理の才能があったの?」
「知らない。食べさせてもらったこともないし。今度、行ってみる?」
「近いの?」

「近いよ」絵美は最寄りの駅名を告げた。その女性の能力は急激に減少することはないだろう。ぼくの知っている有名人たちはいずれも引退がある商売だった。高校野球に興じた先輩はプロにならず、その後、どのような歩みをしたのかまったくしらない。その弟ともぼくは連絡を取り合うような仲でもない。みな、どのように毎日を送っているのだろう。

 わずかな年月しか役に立たない能力。一度、身につければ永続性の保てる訓練。秀でるということはいったいどのように具体化されて、はじめて証明されるのだろう。彼らは疑いもなく輝いていた。ぼくの立てないステージにいた。そのことだけでも充分だった。完全な理解で安心することも本来はいらないのだ。

 段々と有名人はインターネットという部屋に閉じ込められていった。そのなかでネット上の辞書(人物事典)や動画の有無によって知名度を測られる。彼らはぼくにとっても有名だが、少数のものにとっても知られていた。ヘレン・ケラーやシュバイツァーという普遍の名声を得たわけではないが、ぼくの形成にはそれなりに役立ってくれたのだろう。偉大すぎる伝記の内容にも劣らずに。

「自分も彼ら友だちみたいに知名度を得たかった?」
「なんのことで? 手段が分からないよ」武器ももたず、丸腰で世の中の固い壁に自分の名前を刻み付けることなどできはしないのだ。
「これから、探せば」
「どうやって?」
「質問ちゃん。自分で決めてよ」

 ひとを三分間の数ラウンドで打ちのめす能力もない。白球を日々、追いかける無邪気さもない。もう二十年も前からもっていない。与えられていなかったのか、自分の体内に眠っていたものに気付かなかったのか答えようもなかった。少なくともある三人だけはぼくのことを覚えていてくれることを願っている。絵美もふくめて。それも、たまに思い出す程度が欲張ったとしても精一杯の望みだった。

「絵美は? これから、なにかで自分の名を広められる?」
「別れのもつれによって死傷事件を起こした狂える女として」

 彼女は刃物のようなものを握った姿勢でぼくの胸のうえに突き刺すマネをした。ひとは良い面だけで名をのこすわけでもない。もちろん、そんなことは起こらないだろう。昨日まで、ぼくの身に起こらなかったからには、明日以降も起こりそうにもない。確立というのがいつも正しければ。KO率や、打率というものとは別の次元にぼくはいるが、数字だけで覚えているのでもなく、ある過去というぼんやりとしたなかで、彼らは顔を出したり引っ込めたりした。