繁栄の外で(4)
まったくの孤独では生きられない、そんな認識もない小学生ながら、常に付き合うことになる友人ができる。記憶のなかに置いてきた荷物のように思い出すこともなかったが、整理すればほこりを被った姿でやはりみつかるものだ。
外で遊ぶことも楽しいものだが、友人の家にはいりこみ、その子の遊具や勉強机をながめることも、それもまた愉快なことであった。彼は、日常、どんな生活を営んでいるのだろう、ということがそれらの物体から空想できた。
その子は、両親ともにそとで働いていた。その当時のぼくの住んでいる周辺では、そのことは自営業を別にしてまれなことだった。家に母親がいて、一人っ子も少ない、そんな車社会の大きな環状線が町を横切るまえの平和な暮らしがあった。まだ弟が生まれる前の自分も、そのような一般的な4人の家庭の一員であった。
そのような両親がいない家で、だれが切り盛りしているのかといえば、その子のお婆ちゃんがいた。自分の祖母も、いま考えると究極的に優しい人だったが、同系列でその友人のお婆ちゃんも優しい人だった。知らない、活発な男の子を、暖かい視線と様子で迎えてくれ、どこかの外国の来賓がきたような親切さが、その人にはあった。
だから、今日もぼくの家に行こう、と言われれば、とくに雨の日なんかには、その誘いはとても甘いものになる。
勉強の出来不出来も、友人関係にはあまり介在しなく、しかしその子は、とても賢い顔をしていた。いまの頭をつかって考えれば、両親ともに収入があるということは、それなりの豊かさがあるのだろう。彼とその兄は、とても小奇麗な印象を、ぼくは持っている。
また、もう一人友人を誘って、自分の住んでいる区にあった大きな冬の公園に釣りをしにいく。待ち合わせは、駅とかではなくもう一人の友人の家で、暖かい部屋のもと、話好きなお母さんと会話しながら、(一方的に話されている気がする)のんびりその家庭の子供は歯磨きなどをしていた。とりあえず、受け入れようというムードがその町にはあったのだろう。
大人になって視力も悪くなり、反抗的になっていた自分は単純にその友人のお母さんに気付かなかったのだが、(その年頃で、その年代の人に意識は向かない)すれ違ったのに挨拶もしないと、めぐって注意されたりもする。しかし、それは先の話だ。
さっきの友人の話に戻る。人間は、なにかをコレクションするように生まれつき備わっているのだろうか。ぼくの子供のころに、アメリカン・フットボールのヘルメットのカードを収集することが、一時的にはやった。何枚も同じものがめぐってきたり、その中でもレアなものがあったりして、そのころは大人の意図と経済のしくみなどをしらないから、そのままお小遣いを費やすことになる。
かの友人は、レアであった「ピッツバーグ・スティーラーズ」のカードを持っていた。そのことで友人の格があがったような錯覚ももったはずだ。しかし、いつまで経ってもぼくのもとにはチャンスは来なかった。これもまた繁栄の外の話である。大人になった自分は、その町も、鉄鋼が産業であるというインフォメーションもかすかながら、もつようになっている。
そんなことも忘れ、小さなカードを集めるぐらいでは楽しくなくなっていく。もろもろの事情で、ぼくは同じ町内のなかで引っ越す。その友人にも同じことが起こる。しかし、その新しい家には、ぼくは入った記憶があまりない。だから、その友人のお婆ちゃんの暖かさも忘れることになる。そういう暖かさは別に求めたくなる年代に入りかかっていたのだろう。
ここまでが、長い導入で結果として、進路の問題になるのだ。その子には、常に私立の中学に入って、ぼくらと別れてしまうだろう、という噂があった。そのことを悲しいことだとは思ったが、デリケートではない人間たちは何度も、「同じ中学校に行くんだろう?」と質問をした。念をおすたびに彼は、それ以外ないという感じで同意した。まあ、みんな安心するわけだが、本音はべつなところにあるかもしれないと思っていたのだろうか、結局、中学の入学式には彼はいなかった。野心があるとすればあるのだろうが、家庭内でそんな話題がもちあがらない自分の家に、多少の恥があったのだろうか。
まったくの孤独では生きられない、そんな認識もない小学生ながら、常に付き合うことになる友人ができる。記憶のなかに置いてきた荷物のように思い出すこともなかったが、整理すればほこりを被った姿でやはりみつかるものだ。
外で遊ぶことも楽しいものだが、友人の家にはいりこみ、その子の遊具や勉強机をながめることも、それもまた愉快なことであった。彼は、日常、どんな生活を営んでいるのだろう、ということがそれらの物体から空想できた。
その子は、両親ともにそとで働いていた。その当時のぼくの住んでいる周辺では、そのことは自営業を別にしてまれなことだった。家に母親がいて、一人っ子も少ない、そんな車社会の大きな環状線が町を横切るまえの平和な暮らしがあった。まだ弟が生まれる前の自分も、そのような一般的な4人の家庭の一員であった。
そのような両親がいない家で、だれが切り盛りしているのかといえば、その子のお婆ちゃんがいた。自分の祖母も、いま考えると究極的に優しい人だったが、同系列でその友人のお婆ちゃんも優しい人だった。知らない、活発な男の子を、暖かい視線と様子で迎えてくれ、どこかの外国の来賓がきたような親切さが、その人にはあった。
だから、今日もぼくの家に行こう、と言われれば、とくに雨の日なんかには、その誘いはとても甘いものになる。
勉強の出来不出来も、友人関係にはあまり介在しなく、しかしその子は、とても賢い顔をしていた。いまの頭をつかって考えれば、両親ともに収入があるということは、それなりの豊かさがあるのだろう。彼とその兄は、とても小奇麗な印象を、ぼくは持っている。
また、もう一人友人を誘って、自分の住んでいる区にあった大きな冬の公園に釣りをしにいく。待ち合わせは、駅とかではなくもう一人の友人の家で、暖かい部屋のもと、話好きなお母さんと会話しながら、(一方的に話されている気がする)のんびりその家庭の子供は歯磨きなどをしていた。とりあえず、受け入れようというムードがその町にはあったのだろう。
大人になって視力も悪くなり、反抗的になっていた自分は単純にその友人のお母さんに気付かなかったのだが、(その年頃で、その年代の人に意識は向かない)すれ違ったのに挨拶もしないと、めぐって注意されたりもする。しかし、それは先の話だ。
さっきの友人の話に戻る。人間は、なにかをコレクションするように生まれつき備わっているのだろうか。ぼくの子供のころに、アメリカン・フットボールのヘルメットのカードを収集することが、一時的にはやった。何枚も同じものがめぐってきたり、その中でもレアなものがあったりして、そのころは大人の意図と経済のしくみなどをしらないから、そのままお小遣いを費やすことになる。
かの友人は、レアであった「ピッツバーグ・スティーラーズ」のカードを持っていた。そのことで友人の格があがったような錯覚ももったはずだ。しかし、いつまで経ってもぼくのもとにはチャンスは来なかった。これもまた繁栄の外の話である。大人になった自分は、その町も、鉄鋼が産業であるというインフォメーションもかすかながら、もつようになっている。
そんなことも忘れ、小さなカードを集めるぐらいでは楽しくなくなっていく。もろもろの事情で、ぼくは同じ町内のなかで引っ越す。その友人にも同じことが起こる。しかし、その新しい家には、ぼくは入った記憶があまりない。だから、その友人のお婆ちゃんの暖かさも忘れることになる。そういう暖かさは別に求めたくなる年代に入りかかっていたのだろう。
ここまでが、長い導入で結果として、進路の問題になるのだ。その子には、常に私立の中学に入って、ぼくらと別れてしまうだろう、という噂があった。そのことを悲しいことだとは思ったが、デリケートではない人間たちは何度も、「同じ中学校に行くんだろう?」と質問をした。念をおすたびに彼は、それ以外ないという感じで同意した。まあ、みんな安心するわけだが、本音はべつなところにあるかもしれないと思っていたのだろうか、結局、中学の入学式には彼はいなかった。野心があるとすればあるのだろうが、家庭内でそんな話題がもちあがらない自分の家に、多少の恥があったのだろうか。