16歳-26
十才を迎えるころになると、いまの家が手狭になった。兄は中学生になるころで、弟ももう言葉を覚えている。父は新たな家に移ることを希望し、候補地になる土地や家屋を見学することが休日のイベントになった。そこには制限がきちんとあった。世田谷区や目黒あたりに移転することはそもそも検討事項にもなく、ぼくらは歩いていけそうな距離のなかを転々とした。その途中でついでのように誕生日のプレゼントを買ってもらった。二けたの年齢になった祝福として。
父は自分の両親と縁が薄かったらしく、気難しい性格ながら、妻の親を家に文句もいわず住まわせていた。その祖母は内孫と外孫という言葉を悪意もなく使った。ぼくらはどうやら外孫に該当するらしく、大まかな遺伝や相続(利益や損失とは無関係の意味で)という観点から外れているような印象をぼくに与えた。
結局、家となるべきところは決まり、上物は狭すぎるので取り壊すことになった。ローンの仕組みなのか、ぼくらは抵当となったらしいいまの家に家賃を払って住むという子どもの脳には不可解なことを両親が話しているのを聞く。そして、兄とぼくには個室ができ、父はボーナスのたびに、必要な電化製品を買い替えていった。
ぼくは引っ越しではなく運命ということを語ろうとしている。ぼくが隣町にもし住んでいたら転校ということをはじめて経験する楽しみと不安をもてたのにという悩ましさの狭間にいた。気が合った友人がそこにいたかもしれず、親切な愛らしい少女がぼくの世話をしてくれたかもしれないし、ささいな面倒をみるという喜びも発揮できたのかもしれない。だが、ぼくは通学路を変えただけで、もとの同じ学校に通った。そして、中学にすすむには、前の家にいたときより少しばかり遠い道のりになった。数分という誤差に過ぎないが。子どもにとっては大きな変化だが、引っ越しの副作用として転校生にはならずに床屋をかえるというぐらいでわけなく納まった。
だが、ぼくはここで彼女を見つけ、その後、交際するということを永遠に失っていたのかもしれない。そして、彼女の口からいまの家に来る前に隣町にいたということを聞く。どこかで、運命という幻想のかりそめの力を信じるならば、ぼくの方は隣町の未知の引っ越し先(建坪やローンの返済額は清い運命のため度外視)で成長して、彼女の両親は移転を取りやめそのまま暮らし、ふたりは近所に住む間柄になって同じ学校に通わせたという可能性も想像させた。映画なら後年、さまざまなずれを解消させるためにややっこしい展開になるだろうが。ぼくの物語だからぼくの主観が最優先だが、当然、兄にも生活があり、弟にも小さな生活があって、父にも通勤のルートがあった。母には無駄話の相手が必要だった。多分、これはどこにいても簡単に解消されただろう。運命という重圧も母の気さくさには無関係なのだ。
現在という秒単位ですすむ生活のなかにすっぱりとおさまっていれば、会わなかったということなど信じることはできない。目の前に彼女がいて、そのことによってぼくの鼓動と高揚感は多少かわった。もし、運命とか可能性とか、あの時ああしていたらとかの人間の脳の遊びが一切、入り込まない世界なら信頼しかなく、疑念も生じない。しかし、それも即物的になり過ぎた。選択はどう無関心をきめこんでも絶えず目の前に転がっていた。ハンバーグにするか、シチューを頼むかですら。でも、ぼくは彼女を選ぶことに決めたのか? ぼくのもっと深い内部のなにかが勝手に決定してしまったから、ぼくという外面はその意思決定につられて行動しているだけなのか。どちらにせよ大して違いもなく、かつ大きな謎となる溝があった。
ぼくは五、六年住んだ家にいる。思春期という時期はそのままこの部屋にあった。ぼくは学校と教師の口と黒板とで学ぶことを放棄した、得るはずだった賢さを本だけで代用しようとしていた。テクニックは必要なく、どこかの進学校に、有名な大学にもぐりこむという方法論もなかった。どこでも暮らしていける知識。偏見の入らない普遍的な情報。だが、ぼくは意気込みなどない。ただ学習という漠然とした憧れをのこしていただけなのだ。
愛情も距離と、日常的に顔を合わせるという頻繁さに不躾に影響された。ぼくは寝転がり、本を開く。しおりの挟まった部分からつづければよい。どこまですすんだかは視覚的に一目瞭然であり、のこりも同じように解釈できた。その終わりまでの間に小説なら劇的変化を起こすかもしれない。ぼくは普通に生きている。彼女との間がどのぐらいまですすみ、次の本に向かう段階なのかなど客観的にも分からなかった。だが、当事者のみに許される幸福があった。ジェット・コースターは動いている間は、終わりのことなど考えずに楽しめるのだ。多少、胸が苦しくても。
ぼくはラジカセのスイッチを入れる。カセットテープが回る。これも、のこりがどれだけあるのか形状として具体的に教えてくれる。ぼくはここに住み、この二階の一室をあてがわれた。更新も書き換えも必要ではない。親はぼくを養い、この部屋を与える義務があったのかもしれない。ぼくは彼女に対して、義務も権利も、契約もいっさい必要のないところにいた。そこに正真正銘の愛があったからだ。だが、野良犬にも野良猫にも書面はなく、手近な行動のみなのだ。ぼくはそれほど野蛮ではないと言えるだろうか。衝動だけではないと確信できるのか。正式な答えは遠く、回答の期限も設けられていないが、屋根のしたでじっくりと考える時間だけは完全に得ていた。
十才を迎えるころになると、いまの家が手狭になった。兄は中学生になるころで、弟ももう言葉を覚えている。父は新たな家に移ることを希望し、候補地になる土地や家屋を見学することが休日のイベントになった。そこには制限がきちんとあった。世田谷区や目黒あたりに移転することはそもそも検討事項にもなく、ぼくらは歩いていけそうな距離のなかを転々とした。その途中でついでのように誕生日のプレゼントを買ってもらった。二けたの年齢になった祝福として。
父は自分の両親と縁が薄かったらしく、気難しい性格ながら、妻の親を家に文句もいわず住まわせていた。その祖母は内孫と外孫という言葉を悪意もなく使った。ぼくらはどうやら外孫に該当するらしく、大まかな遺伝や相続(利益や損失とは無関係の意味で)という観点から外れているような印象をぼくに与えた。
結局、家となるべきところは決まり、上物は狭すぎるので取り壊すことになった。ローンの仕組みなのか、ぼくらは抵当となったらしいいまの家に家賃を払って住むという子どもの脳には不可解なことを両親が話しているのを聞く。そして、兄とぼくには個室ができ、父はボーナスのたびに、必要な電化製品を買い替えていった。
ぼくは引っ越しではなく運命ということを語ろうとしている。ぼくが隣町にもし住んでいたら転校ということをはじめて経験する楽しみと不安をもてたのにという悩ましさの狭間にいた。気が合った友人がそこにいたかもしれず、親切な愛らしい少女がぼくの世話をしてくれたかもしれないし、ささいな面倒をみるという喜びも発揮できたのかもしれない。だが、ぼくは通学路を変えただけで、もとの同じ学校に通った。そして、中学にすすむには、前の家にいたときより少しばかり遠い道のりになった。数分という誤差に過ぎないが。子どもにとっては大きな変化だが、引っ越しの副作用として転校生にはならずに床屋をかえるというぐらいでわけなく納まった。
だが、ぼくはここで彼女を見つけ、その後、交際するということを永遠に失っていたのかもしれない。そして、彼女の口からいまの家に来る前に隣町にいたということを聞く。どこかで、運命という幻想のかりそめの力を信じるならば、ぼくの方は隣町の未知の引っ越し先(建坪やローンの返済額は清い運命のため度外視)で成長して、彼女の両親は移転を取りやめそのまま暮らし、ふたりは近所に住む間柄になって同じ学校に通わせたという可能性も想像させた。映画なら後年、さまざまなずれを解消させるためにややっこしい展開になるだろうが。ぼくの物語だからぼくの主観が最優先だが、当然、兄にも生活があり、弟にも小さな生活があって、父にも通勤のルートがあった。母には無駄話の相手が必要だった。多分、これはどこにいても簡単に解消されただろう。運命という重圧も母の気さくさには無関係なのだ。
現在という秒単位ですすむ生活のなかにすっぱりとおさまっていれば、会わなかったということなど信じることはできない。目の前に彼女がいて、そのことによってぼくの鼓動と高揚感は多少かわった。もし、運命とか可能性とか、あの時ああしていたらとかの人間の脳の遊びが一切、入り込まない世界なら信頼しかなく、疑念も生じない。しかし、それも即物的になり過ぎた。選択はどう無関心をきめこんでも絶えず目の前に転がっていた。ハンバーグにするか、シチューを頼むかですら。でも、ぼくは彼女を選ぶことに決めたのか? ぼくのもっと深い内部のなにかが勝手に決定してしまったから、ぼくという外面はその意思決定につられて行動しているだけなのか。どちらにせよ大して違いもなく、かつ大きな謎となる溝があった。
ぼくは五、六年住んだ家にいる。思春期という時期はそのままこの部屋にあった。ぼくは学校と教師の口と黒板とで学ぶことを放棄した、得るはずだった賢さを本だけで代用しようとしていた。テクニックは必要なく、どこかの進学校に、有名な大学にもぐりこむという方法論もなかった。どこでも暮らしていける知識。偏見の入らない普遍的な情報。だが、ぼくは意気込みなどない。ただ学習という漠然とした憧れをのこしていただけなのだ。
愛情も距離と、日常的に顔を合わせるという頻繁さに不躾に影響された。ぼくは寝転がり、本を開く。しおりの挟まった部分からつづければよい。どこまですすんだかは視覚的に一目瞭然であり、のこりも同じように解釈できた。その終わりまでの間に小説なら劇的変化を起こすかもしれない。ぼくは普通に生きている。彼女との間がどのぐらいまですすみ、次の本に向かう段階なのかなど客観的にも分からなかった。だが、当事者のみに許される幸福があった。ジェット・コースターは動いている間は、終わりのことなど考えずに楽しめるのだ。多少、胸が苦しくても。
ぼくはラジカセのスイッチを入れる。カセットテープが回る。これも、のこりがどれだけあるのか形状として具体的に教えてくれる。ぼくはここに住み、この二階の一室をあてがわれた。更新も書き換えも必要ではない。親はぼくを養い、この部屋を与える義務があったのかもしれない。ぼくは彼女に対して、義務も権利も、契約もいっさい必要のないところにいた。そこに正真正銘の愛があったからだ。だが、野良犬にも野良猫にも書面はなく、手近な行動のみなのだ。ぼくはそれほど野蛮ではないと言えるだろうか。衝動だけではないと確信できるのか。正式な答えは遠く、回答の期限も設けられていないが、屋根のしたでじっくりと考える時間だけは完全に得ていた。