繁栄の外で(2)
ある一室に入り、そろばんを使って数字を足したり引いたりしている。その当時の子供にとっては、外で遊ぶ時間が減ってしまうので、そのことに対して当初は不満をもったはずだが、一度、規則ができてしまえば、それを守ることには抵抗がなくなってしまった。それで机に向かって座り、また掛けたりもしている。
不注意にならなければ、その行為は必ず正当な答えを出した。ときには、数字が合わないという状態が生まれる。どこかの過程で散漫な考えが入り込んだのだろう。ありえることだ。それでも、また、間違いは必ずあとで発見できるようにもなっていた。ひとまず、自分がミスを犯さなければ良いのだ。
時間がたてば暗算というものが出来るようになる。ある頭のなかの一部を借り、そこにそろばんの映像をうつし、その仮の映像をつかって足したり引いたりする。人間が、あることで笑ったりすることが出来るのは、頭の中でその話を映像として再構築して、そのことに対して笑いがこみ上げるのだとも思える。なので、頭の中でなにかを組み立てるということに、そのヒントとしてそろばんというものが役立っているとも言えた。
こういう風に考えると、途中でミスをしないということが前提条件になってくる。ミスへの恐怖。間違いのもとを発見し、追及したいという渇望。
常にそう考えているわけでもないが、いままでのことを念頭に置けば、そこそこ成績が良くなる。結果として、人から賞賛される。嬉しくないはずもないが、逆にほかの人たちは、間違った数字が現れることを憎んだりしないのだろうかと、逆に疑問に思ったりする。過程への不注意。そいつらにつけあがらせないこと。
だが、環境にも左右される。自分は、ある小さな部屋では、ほぼ正確な答えを導き出すことができた。しかし、正式な検定を受けるため、初めて訪れる数駅はなれた大学の教室で、10歳ぐらいの自分の答えは狂いだす。もちろん、リアルタイムでは間違いが出たことを認識できてはいないが、結果として試験に落ちたという事実があることによって、いささかの動揺があったのだろう。もしかして、自分は本番に弱い人間であるという宣告への恐れが生まれる。
しかし、また日常のなかでの計算はいつも通りになる。これも、与えられた数字を忠実に守るという前提があっての話だ。なにかをクリエイトする能力とは別物だ。
大人になれば、ある機械がかってに計算してくれる。そういうソフトがあるのだ。だが、頭の中の映像化を止めることは出来なくなってしまった。レジで、品物のバーコードが読まれ店員を通過する間に、大体の金額を予想してしまう。消費税というものが導入されたときには、この無意識的に行っている計算が活用されていることを知った。それで、手のひらの小銭は、ぴったりの金額として用意されている。
だが、そのようなことは機械に任せてしまっても良いのだ。もっと、創造的なことに頭は使われた方が、賢明かもしれなかった。
といっても、あの数年間を消すことはできないので、自分の頭の中と指先は連動し、なにかを計算したがっている。そして、計算できない状態に自分をおくことを嫌がってもいる。列車の遅延。飛ばない飛行機。それにともなう人々の怒号。誰しも嫌いだろうが、途中でミスが入ってしまうことや、それを取り除く予知みたいなものを追及したくなる変な関心が隠せなくなってしまっている。
いま考えると、そろばんでもマイナスを表すことが出来るようだが、自分はそこまで教えてもらわなかったように思えた。また、独習もしなかった。それで、数字は常にプラスという考えがあり、最小値はゼロであるという固定観念に身体ごとくるまれている。
しかし、マイナスの世界というのは厳然と目の前にあり、それは、世界の国家の金庫であろうと、個人の預金の残高であろうと、いつかは通過するべき出来事なのだ。その返済にあてる能力や営みまでを、そろばんは教えてくれない。しかし、数字は数字として教えてくれるものもある。だが、自分が一室に閉じ込められ、その間に友達と遊んだりすることを、ささやかな犠牲としてはらったことの報いとしては、決して小さなものではないはずだ。しかし、その数字自体を小さな一室に、放り込んで閉じ込めたい衝動を捨てきれずにいる。
ある一室に入り、そろばんを使って数字を足したり引いたりしている。その当時の子供にとっては、外で遊ぶ時間が減ってしまうので、そのことに対して当初は不満をもったはずだが、一度、規則ができてしまえば、それを守ることには抵抗がなくなってしまった。それで机に向かって座り、また掛けたりもしている。
不注意にならなければ、その行為は必ず正当な答えを出した。ときには、数字が合わないという状態が生まれる。どこかの過程で散漫な考えが入り込んだのだろう。ありえることだ。それでも、また、間違いは必ずあとで発見できるようにもなっていた。ひとまず、自分がミスを犯さなければ良いのだ。
時間がたてば暗算というものが出来るようになる。ある頭のなかの一部を借り、そこにそろばんの映像をうつし、その仮の映像をつかって足したり引いたりする。人間が、あることで笑ったりすることが出来るのは、頭の中でその話を映像として再構築して、そのことに対して笑いがこみ上げるのだとも思える。なので、頭の中でなにかを組み立てるということに、そのヒントとしてそろばんというものが役立っているとも言えた。
こういう風に考えると、途中でミスをしないということが前提条件になってくる。ミスへの恐怖。間違いのもとを発見し、追及したいという渇望。
常にそう考えているわけでもないが、いままでのことを念頭に置けば、そこそこ成績が良くなる。結果として、人から賞賛される。嬉しくないはずもないが、逆にほかの人たちは、間違った数字が現れることを憎んだりしないのだろうかと、逆に疑問に思ったりする。過程への不注意。そいつらにつけあがらせないこと。
だが、環境にも左右される。自分は、ある小さな部屋では、ほぼ正確な答えを導き出すことができた。しかし、正式な検定を受けるため、初めて訪れる数駅はなれた大学の教室で、10歳ぐらいの自分の答えは狂いだす。もちろん、リアルタイムでは間違いが出たことを認識できてはいないが、結果として試験に落ちたという事実があることによって、いささかの動揺があったのだろう。もしかして、自分は本番に弱い人間であるという宣告への恐れが生まれる。
しかし、また日常のなかでの計算はいつも通りになる。これも、与えられた数字を忠実に守るという前提があっての話だ。なにかをクリエイトする能力とは別物だ。
大人になれば、ある機械がかってに計算してくれる。そういうソフトがあるのだ。だが、頭の中の映像化を止めることは出来なくなってしまった。レジで、品物のバーコードが読まれ店員を通過する間に、大体の金額を予想してしまう。消費税というものが導入されたときには、この無意識的に行っている計算が活用されていることを知った。それで、手のひらの小銭は、ぴったりの金額として用意されている。
だが、そのようなことは機械に任せてしまっても良いのだ。もっと、創造的なことに頭は使われた方が、賢明かもしれなかった。
といっても、あの数年間を消すことはできないので、自分の頭の中と指先は連動し、なにかを計算したがっている。そして、計算できない状態に自分をおくことを嫌がってもいる。列車の遅延。飛ばない飛行機。それにともなう人々の怒号。誰しも嫌いだろうが、途中でミスが入ってしまうことや、それを取り除く予知みたいなものを追及したくなる変な関心が隠せなくなってしまっている。
いま考えると、そろばんでもマイナスを表すことが出来るようだが、自分はそこまで教えてもらわなかったように思えた。また、独習もしなかった。それで、数字は常にプラスという考えがあり、最小値はゼロであるという固定観念に身体ごとくるまれている。
しかし、マイナスの世界というのは厳然と目の前にあり、それは、世界の国家の金庫であろうと、個人の預金の残高であろうと、いつかは通過するべき出来事なのだ。その返済にあてる能力や営みまでを、そろばんは教えてくれない。しかし、数字は数字として教えてくれるものもある。だが、自分が一室に閉じ込められ、その間に友達と遊んだりすることを、ささやかな犠牲としてはらったことの報いとしては、決して小さなものではないはずだ。しかし、その数字自体を小さな一室に、放り込んで閉じ込めたい衝動を捨てきれずにいる。