爪の先まで神経細やか

物語の連鎖
日常は「系列作品」から
http://snobsnob.exblog.jp/
へ変更

繁栄の外で(6)

2014年04月20日 | 繁栄の外で
繁栄の外で(6)

 その年代特有のプライドと、負けん気と功名心が合致してひとつの人格とパーソナリティーが出来上がる。もちろん、まわりの目を充分に意識していることは間違いなかった。
 いま考えると、なんとも軽率で浅はかだった。

 そして、振り返った目で見れば、自分は雇われた店長、もしくはマジンガーZのロボットに過ぎないのであった。自分の学校で、腕力面で評判があがれば、戦国時代と同じように自分の支配する領地をひろげようとする。それで、手ごろなところから獲得することを試みようとする。

 そうした、不良にあこがれる人間がいたが、実際にその男が表面にたって、手をくだすようなことはなかった。本当の行為者であるのは、自分とほかに数人であった。

 なにか得たことがあるとすれば、多少の度胸がつくことにもなったが、他校の一番のつわものの体格に恐れを感じるのも事実だった。世の中は、そんなにもビューティフルな場所ではないわけだ。

 当時はスポーツもしていたが、行為を通して確認したことは、自分はそこそこに何かをやり遂げることは出来るが、まったくの第一位になるという達成感はつかめないという事実があるということだった。簡単にいえば、上には上がいる(ある)という確固たる事実だった。でも、それを頭のなかで学んだということではなく、自分の腕や足をつかって、また頬の痛みをとおして覚えこんだというのも、確かな目覚めだったような気もする。

 それで、数人の顔をなぐり、数人の歯を揺るがせ、何人かにどうしようもなく殴られ、何人かには不様にあやまるということが14、5歳ぐらいの自分だった。結論としては、そこそこの知名度をその地方(いま考えると本当に狭い世界だが、当時の自分には広かった)に残し、また、意気地のない負け方もまた同じように伝播され、流れてしまったようにも思える。

 悪いことをしながらも、自分はそんなには怒られた記憶がない。学校内でも、怒られ役はほかにいて、その子が前面にたって注意を受け止めていた。家庭内でも、自分の兄弟の前例で懲りていた両親は、そんなぐらいでは驚かなくなっていたので、なにをやっても自分は良い子のままだった。世の中は、つまりは比較で作られているのだろう。

 しかし、兄に喧嘩で負けたことが耳にはいってしまい、その後始末として、もう一度リベンジして来いと宣言されたころの自分は相当に悩んでいたと思う。客観的な映像としてはハリウッド映画的な題材になりそうだが、その勝者にもう一度、会うこと(もちろん、楽しいフレンドリーな瞬間がまっているわけでもない)の両方(兄も怖い)への恐れが、自分を打ちのめしていた。

 だが、数ヶ月経って、そのことはうやむやになってしまった。ぼくも、受験勉強するもんね、という方向転換があったし、兄弟にも、もっとほかの楽しみができたのだろう。

 あまりにも漫画的だが、他校には長身で悪魔的に喧嘩に強いという伝説がはびこり、だが、実際にその男を目の前にすれば、自分と大して体格的には違っていなかった。なぜか、途中で名声をこんな形でしかあらわせない自分たちに嫌になり、(当然といえば、当然)結局は、ぼくは負けてしまう。格闘技の敗者はこんな気持ちにはならないかもしれないが、他に生きる道を模索してもいいのではないかと、帰りの自転車に乗りながら、孤独にそう思った。まわりには数十人に人がいたが、最終的な敗者は自分自身と、我が母校だった。

 ひとつの映像があたまから離れない。クラスで授業を受けている。根本的に学ぶことが好きなことと見栄っ張りに出来ている自分は、集中して授業を聞いている。そこへ、他校のいかにも柄が悪そうな、教育のなさそうな数人が、ぼくを呼びつける。リアルな状況として立ち向かわなければならない状況になる。そこで、クラスを抜け出し、勢いでまけないようにそいつらをにらみ付けた。多分、あとで再び監視のないところで会うことになるだろう。

 すべて、自慢ではない。この後、モデル・チェンジに苦戦したし、頭を下げる行為を覚え、我が人生で何度もそうした。いまのぼくにあった人が、ぼくのそんな痕跡を感じることがなければ、自分の勝利だと思っている。だが、人間は大したことができない生き物だという気持ちは捨てきれずにいる。