38歳-27
絵美が脱いだ下着が床で丸まっていた。テーブルの上には昨夜、半分ほど食べ残したシュークリームが皿にあった。ふたつはどことなく形状が似通っていた。さらにぼくは近付けようと絵美の下着を手にとって形を変えてみた。だが、手を加えたことによって自然さが奪われまったくの別物になってしまった。もともと、似ていたこと自体が偶然の産物だったのだ。
「なにやってるの? そんなの手にして変態みたいだよ」
目を覚ました絵美はいつもより低い寝起きの声でそう言った。
「よく、こんな小さいものにおさまるものだなと思って」ぼくは適当に言い繕う。
「こんなにお尻、大きいのにね」
絵美は布団をめくって、そう言った。
「シュークリームのこってたね」
「大丈夫だよ、また、あとで食べるから」
「それで、ケツがもっとでっかくなる」ぼくは敢えて下品な言い方をする。「冷やしておこうか?」
「そんなのも、嫌いじゃないくせに」勝ち誇ったように絵美は言い、また布団を首元まで引っ張り上げた。
これがあの十一年前に永続する関係を選ばなかったぼくのゴールだった。いや、選ばれなかったぼく自身の達成した表面的な喜びしか受け入れない日々だった。悪くないし、他にはもう考え付かない。あの日、宝くじが当たっていれば生活がいくらか潤っていただろうという無意味な観測に過ぎないものだった。手に入れなかったものは。予測していた台風は軌道を上手に変え、ぼくから見事に遠退いた。ぼくは窓にうちつけた板をむなしく取り除き、平穏すぎる青空を窓越しに見つめた。台風が来る前だけが歓喜であるのだ、前例を知らない子どもの無心な期待によれば。
ぼくはテレビでニュースを見ている。ブラジャーの肩の紐が一回転しているのを気にもせずに絵美はシュークリームを食べている。眉はいくらか心細く、ぼくも自分の普段とは違うひげの不快感を確認するように手の甲で撫でた。
「お母さん、来るとか言ってたよね?」ぼくは来日している外国の政府関係者をテレビで目にしたから思い出したのか、絵美に訊いた。
「うん。たまにお父さんと離れて羽根を伸ばしたいんでしょう。今週ね。あれ、あさってだったかな?」
「羽根があるんだ?」
「え?」唇のはしのクリームを舌を伸ばして舐めてからまた話しはじめる。「いつもより、つまんないし、面倒くさいよ」
彼女はトイレに行き、月ごとの女性への褒美か呪いの訪れをぼくに報告した。
「よかったね」
「これで、またもや、お父さんになれませんでした!」
彼女は髪を束ね、歯ブラシをくわえた。ぼくはまた床を見たが、もう当然のことシュークリームはなかった。あれを見られる立場になることを望んだ数十年前の少年は手鏡で数本ある白いひげに無頓着になれない自分に戸惑っていた。絵美はあぶくに包まれた口で何かを言っている。多分、今日の予定のことだろう。ぼくは彼女の母に会いはしないが、自分という人間の優しさの一面の痕跡をのこすことを望んでおり、デパートでも行きたいなと思っていた。具体的な品物より、包装紙に意味があった。きちんと価値が確認された紙で。中味なんか、どうだっていいのだ。でっかい尻でも、違うものでも。
ぼくは十一年前に希美の母が自分の娘を託そうとする気持ち、このひとに任せられるのだろうかとの不安があふれた表情、疑いを打ち消したいこと、それらが混じり合ったなかでの本質を見極めようとする姿勢を思い出していた。ぼくにも切羽詰まった気持ちがあっただろう。喧嘩ではない表面下での葛藤や衝突があることを知った。子どもであれば肩を小突けば済む話だが、ぼくは気に入られなければならないという弱みがあった。あの気持ちは結局は一度しかめぐってこなかった。いま、絵美の母が娘の交際相手のことをどう思おうが、年上過ぎるとかも、最終的にはどうでもいいことだった。小さな下着にものを突っ込む話でもない。入らなければ入らないなりに次のものを用意すればいいのだ。
全員に愛されたいということなど最初からないが、もっと段々と薄まっていった。最後はひとりになるのだという厭世的なものでもない。生きることに哲学など求めないのだ。みな、美学など追い駆けていない世界にこのぼくもいるのだ。
しかし、確実にセザンヌやピカソはいた。ぼくらはデパートで買い物をして、その上の階にあった簡易な美術展のようなものを見ていた。ぼくはピカソの前にいる。彼女は首を傾げてぼくの肩のうえにのせた。そうするとこの絵とちょうど角度が合うらしい。
もしこの画家に美の集まった感覚がなく、あるオフィスで一日を過ごし、つまらない仕事に毎日を追われていたらどうなるのだろうかと考える。個性の放出がこのひとを匿名からすくいあげ、この壁に絵が張り付けられる。しかし、ぼくの方が夫になる覚悟で娘の母に会うということでは及第点が与えられそうだった。もう多分こないだろうが。自分からもすすんでならないだろうが。
彼女はハンバーグを食べた。ぼくはビールを飲んだ。日曜の昼過ぎだった。世界はいたってのどかで、ぼくは誰かの肩を小突きもしないし、誰かに暴言をはかれることもない。どこか世界の遠くで少年や少女は実際の武器や小銃をもっているだろうが、ぼくの責任もおそらくそこまで及ばない。ノーベル平和賞のことを毎日、考えるほどぼくは高貴でも、または悪質でもなかった。
絵美が脱いだ下着が床で丸まっていた。テーブルの上には昨夜、半分ほど食べ残したシュークリームが皿にあった。ふたつはどことなく形状が似通っていた。さらにぼくは近付けようと絵美の下着を手にとって形を変えてみた。だが、手を加えたことによって自然さが奪われまったくの別物になってしまった。もともと、似ていたこと自体が偶然の産物だったのだ。
「なにやってるの? そんなの手にして変態みたいだよ」
目を覚ました絵美はいつもより低い寝起きの声でそう言った。
「よく、こんな小さいものにおさまるものだなと思って」ぼくは適当に言い繕う。
「こんなにお尻、大きいのにね」
絵美は布団をめくって、そう言った。
「シュークリームのこってたね」
「大丈夫だよ、また、あとで食べるから」
「それで、ケツがもっとでっかくなる」ぼくは敢えて下品な言い方をする。「冷やしておこうか?」
「そんなのも、嫌いじゃないくせに」勝ち誇ったように絵美は言い、また布団を首元まで引っ張り上げた。
これがあの十一年前に永続する関係を選ばなかったぼくのゴールだった。いや、選ばれなかったぼく自身の達成した表面的な喜びしか受け入れない日々だった。悪くないし、他にはもう考え付かない。あの日、宝くじが当たっていれば生活がいくらか潤っていただろうという無意味な観測に過ぎないものだった。手に入れなかったものは。予測していた台風は軌道を上手に変え、ぼくから見事に遠退いた。ぼくは窓にうちつけた板をむなしく取り除き、平穏すぎる青空を窓越しに見つめた。台風が来る前だけが歓喜であるのだ、前例を知らない子どもの無心な期待によれば。
ぼくはテレビでニュースを見ている。ブラジャーの肩の紐が一回転しているのを気にもせずに絵美はシュークリームを食べている。眉はいくらか心細く、ぼくも自分の普段とは違うひげの不快感を確認するように手の甲で撫でた。
「お母さん、来るとか言ってたよね?」ぼくは来日している外国の政府関係者をテレビで目にしたから思い出したのか、絵美に訊いた。
「うん。たまにお父さんと離れて羽根を伸ばしたいんでしょう。今週ね。あれ、あさってだったかな?」
「羽根があるんだ?」
「え?」唇のはしのクリームを舌を伸ばして舐めてからまた話しはじめる。「いつもより、つまんないし、面倒くさいよ」
彼女はトイレに行き、月ごとの女性への褒美か呪いの訪れをぼくに報告した。
「よかったね」
「これで、またもや、お父さんになれませんでした!」
彼女は髪を束ね、歯ブラシをくわえた。ぼくはまた床を見たが、もう当然のことシュークリームはなかった。あれを見られる立場になることを望んだ数十年前の少年は手鏡で数本ある白いひげに無頓着になれない自分に戸惑っていた。絵美はあぶくに包まれた口で何かを言っている。多分、今日の予定のことだろう。ぼくは彼女の母に会いはしないが、自分という人間の優しさの一面の痕跡をのこすことを望んでおり、デパートでも行きたいなと思っていた。具体的な品物より、包装紙に意味があった。きちんと価値が確認された紙で。中味なんか、どうだっていいのだ。でっかい尻でも、違うものでも。
ぼくは十一年前に希美の母が自分の娘を託そうとする気持ち、このひとに任せられるのだろうかとの不安があふれた表情、疑いを打ち消したいこと、それらが混じり合ったなかでの本質を見極めようとする姿勢を思い出していた。ぼくにも切羽詰まった気持ちがあっただろう。喧嘩ではない表面下での葛藤や衝突があることを知った。子どもであれば肩を小突けば済む話だが、ぼくは気に入られなければならないという弱みがあった。あの気持ちは結局は一度しかめぐってこなかった。いま、絵美の母が娘の交際相手のことをどう思おうが、年上過ぎるとかも、最終的にはどうでもいいことだった。小さな下着にものを突っ込む話でもない。入らなければ入らないなりに次のものを用意すればいいのだ。
全員に愛されたいということなど最初からないが、もっと段々と薄まっていった。最後はひとりになるのだという厭世的なものでもない。生きることに哲学など求めないのだ。みな、美学など追い駆けていない世界にこのぼくもいるのだ。
しかし、確実にセザンヌやピカソはいた。ぼくらはデパートで買い物をして、その上の階にあった簡易な美術展のようなものを見ていた。ぼくはピカソの前にいる。彼女は首を傾げてぼくの肩のうえにのせた。そうするとこの絵とちょうど角度が合うらしい。
もしこの画家に美の集まった感覚がなく、あるオフィスで一日を過ごし、つまらない仕事に毎日を追われていたらどうなるのだろうかと考える。個性の放出がこのひとを匿名からすくいあげ、この壁に絵が張り付けられる。しかし、ぼくの方が夫になる覚悟で娘の母に会うということでは及第点が与えられそうだった。もう多分こないだろうが。自分からもすすんでならないだろうが。
彼女はハンバーグを食べた。ぼくはビールを飲んだ。日曜の昼過ぎだった。世界はいたってのどかで、ぼくは誰かの肩を小突きもしないし、誰かに暴言をはかれることもない。どこか世界の遠くで少年や少女は実際の武器や小銃をもっているだろうが、ぼくの責任もおそらくそこまで及ばない。ノーベル平和賞のことを毎日、考えるほどぼくは高貴でも、または悪質でもなかった。