繁栄の外で(5)
それから、5、6分はなれた違う学校へ、もちろん中学校だが、に通うことになる。制服に袖を通し、この窮屈さにも慣れなければいけない。
その近辺の同程度の規模の小学校2つが合わさって、ひとつの学年が出来上がる。生徒数としては、ほぼ小学校の倍になっていたのだろう。異性に関心を、さらに持つようになるのだが、自分とは違う学校だった側の、女子生徒の見知らぬ顔に注意を向けることになる。子供のころを知っていてもね、という大まかな感じだけが残っている。それで、学年の4分の1ぐらいの人物に視線は向かう。
ぼくが入ったクラスは、個性的な人間が多かった。それぞれと付き合うことになるのだが、誰一人として飽きさせられるようなことはなかった。休み時間、学校の帰宅途中など、さまざまな場面で違った人間に、違った笑いをもらったように覚えている。
そのような中で、自分の個性をも確立させる必要を感じていたのだろうか。注目を浴び、尊敬をされる人間になりたいという欲求は、こころの奥に眠ったままではいられなかったのだろう。それで、方法としてはスポーツを頑張るとか、腕力にものを言わすとか単純な解決方法を思いつく。
勉強をしたり、文科系の方面で注目を浴びることが大して、敬意をはらわれない地方だったようにも記憶している。それで、学業の成績がよかろうが、(その方面しか取り柄がなければ別だが、それでも立派なことだが)そのことを自慢するような風潮は、まったく感じられなかった。なので、この時代のこの地方で、将来的に男性音楽家(他の芸術家を含む)が生まれるような土壌はなかっただろう。それよりも、何か目立ったことをして注目をされた方が、手っ取り早い気持ちがあるのも否定できないだろう。
その手っ取り早さ感が、いろいろ後に影響するであろうことは、また別の問題である。
学年をひとつ増やしただけなのに、テストの回数は膨大に増えていく。それを通じて、自分がどのランクに属しているのか、どの辺までが伸びる範囲なのか、おぼろげながら分かってくる。外国語もはじめて系統だって学ぶことになるが、そのセンスを生まれもってこない人間がいることも理解する。その人間が劣っていると感じるような雰囲気は、なかったようにも記憶している。彼は、また別の才能を有しているのだろう。ぼくが、どう頑張ってみても、たどり着けないような、会話のセンスを持っていたり、フランクさを兼ね備えていたりもした。
そのころは、まだ学区というものがベルリンの壁のように立ちはだかっていた。きみの行ける高校は、この範囲で探してくれ、というものだった。東京のなかでもそうだった。もちろん、もっと金銭のかかる私立高校は、また別だった。しかし、漂っている空気としては、だれも一流大学に入ろう、それを表立って出そう、という風は皆無だった。しかし、こころの中は誰も知らない。
そんな空気に漂いながら、一年の終わり近く、模擬試験があった。成績が返ってきたときに、自分の3教科のランクが驚くほど上位であることを知った。前もって、受験範囲を公表して、というものではなかったので、やる気のあるコツコツと頑張る子には不利だったのだろう。いまになって、その成績表がないから正確に確かめたり証拠として提出することも不可能だが、あれは事実だったのだろう。それを、自慢する気などさらさらない。そもそも、勉強が出来ることで栄誉をうけるような雰囲気が、学校内でも自分の家庭内でもまったくのことなかった。ただ、結論として、この程度なら、まあまあそこそこ世の中を渡れるんじゃないの、という努力の欠落した人間の種が蒔かれてしまった、という事実だけが、柔らかい生産的な土地に埋められてしまった。ただ、残念である。死に物狂いの努力、血と汗と涙、ということをクールではないということだけで、目に見える中から遠ざけてしまった。
しかし、大人の目になれば、その学区の成績なんて、他の東京の別のところと比較すれば2割程度、差し引いて考えるくらいがちょうど良いことだと知ってしまった。ただ、あの年代の自分に注意する大人もいなければ、自分で気付くこともなかった。考えているのは、自分の知名度をどのように生かせるのかと、そればかりがジョウロの水をかけられるのを待っているように、確かにそこにあった。
それから、5、6分はなれた違う学校へ、もちろん中学校だが、に通うことになる。制服に袖を通し、この窮屈さにも慣れなければいけない。
その近辺の同程度の規模の小学校2つが合わさって、ひとつの学年が出来上がる。生徒数としては、ほぼ小学校の倍になっていたのだろう。異性に関心を、さらに持つようになるのだが、自分とは違う学校だった側の、女子生徒の見知らぬ顔に注意を向けることになる。子供のころを知っていてもね、という大まかな感じだけが残っている。それで、学年の4分の1ぐらいの人物に視線は向かう。
ぼくが入ったクラスは、個性的な人間が多かった。それぞれと付き合うことになるのだが、誰一人として飽きさせられるようなことはなかった。休み時間、学校の帰宅途中など、さまざまな場面で違った人間に、違った笑いをもらったように覚えている。
そのような中で、自分の個性をも確立させる必要を感じていたのだろうか。注目を浴び、尊敬をされる人間になりたいという欲求は、こころの奥に眠ったままではいられなかったのだろう。それで、方法としてはスポーツを頑張るとか、腕力にものを言わすとか単純な解決方法を思いつく。
勉強をしたり、文科系の方面で注目を浴びることが大して、敬意をはらわれない地方だったようにも記憶している。それで、学業の成績がよかろうが、(その方面しか取り柄がなければ別だが、それでも立派なことだが)そのことを自慢するような風潮は、まったく感じられなかった。なので、この時代のこの地方で、将来的に男性音楽家(他の芸術家を含む)が生まれるような土壌はなかっただろう。それよりも、何か目立ったことをして注目をされた方が、手っ取り早い気持ちがあるのも否定できないだろう。
その手っ取り早さ感が、いろいろ後に影響するであろうことは、また別の問題である。
学年をひとつ増やしただけなのに、テストの回数は膨大に増えていく。それを通じて、自分がどのランクに属しているのか、どの辺までが伸びる範囲なのか、おぼろげながら分かってくる。外国語もはじめて系統だって学ぶことになるが、そのセンスを生まれもってこない人間がいることも理解する。その人間が劣っていると感じるような雰囲気は、なかったようにも記憶している。彼は、また別の才能を有しているのだろう。ぼくが、どう頑張ってみても、たどり着けないような、会話のセンスを持っていたり、フランクさを兼ね備えていたりもした。
そのころは、まだ学区というものがベルリンの壁のように立ちはだかっていた。きみの行ける高校は、この範囲で探してくれ、というものだった。東京のなかでもそうだった。もちろん、もっと金銭のかかる私立高校は、また別だった。しかし、漂っている空気としては、だれも一流大学に入ろう、それを表立って出そう、という風は皆無だった。しかし、こころの中は誰も知らない。
そんな空気に漂いながら、一年の終わり近く、模擬試験があった。成績が返ってきたときに、自分の3教科のランクが驚くほど上位であることを知った。前もって、受験範囲を公表して、というものではなかったので、やる気のあるコツコツと頑張る子には不利だったのだろう。いまになって、その成績表がないから正確に確かめたり証拠として提出することも不可能だが、あれは事実だったのだろう。それを、自慢する気などさらさらない。そもそも、勉強が出来ることで栄誉をうけるような雰囲気が、学校内でも自分の家庭内でもまったくのことなかった。ただ、結論として、この程度なら、まあまあそこそこ世の中を渡れるんじゃないの、という努力の欠落した人間の種が蒔かれてしまった、という事実だけが、柔らかい生産的な土地に埋められてしまった。ただ、残念である。死に物狂いの努力、血と汗と涙、ということをクールではないということだけで、目に見える中から遠ざけてしまった。
しかし、大人の目になれば、その学区の成績なんて、他の東京の別のところと比較すれば2割程度、差し引いて考えるくらいがちょうど良いことだと知ってしまった。ただ、あの年代の自分に注意する大人もいなければ、自分で気付くこともなかった。考えているのは、自分の知名度をどのように生かせるのかと、そればかりがジョウロの水をかけられるのを待っているように、確かにそこにあった。