27歳-33
ぼくは希美を抱きしめている。暗い中でも、当然、希美だ。
過去におそらく誰かがそうした。未来にも同じように、ぼく以外の誰かがするだろう。
頂上に向かう登山者が途絶えないように。あとを絶たないように。ゴミはもちかえるようにという看板が目立つ。その看板を登山者のためにわざわざ突き立てたものは誰だろう?
「引きも切らずに。引きも切らさない?」
「え?」
「あ、ごめん、ひとりごと」
「ねえ、集中してよ」笑い声を過分に含んでいった。
永続性も永遠もぼくの手のひらからこぼれる。どうやっても水をとどめるには手は形状として向いていない。手の上向きの問題だけではなく、同じ体勢も、ずっとずっとはつづけられない。同時に並行させないということが大人のルールであり、最低限のエチケットでもあった。それさえ守れば何事も許される。漠然とした提示だが、そもそも誰が許す側で、誰が許される側なのか、厳然とした取り決めもない。ただ、暗黙にそういうものなのだろう。誰と誰との暗黙かも明確にするのは抜きにして。
ぼくは中断している。過去に誰かがそうした。未来にもおそらく誰かがそうするであろう。その合間に、昔の洋画なら白黒の画面でもはっきり分かる紫煙と表現するのが似合う漂い往くものがハンサムな主人公の口から吐かれていることだろう。ぼくは、代わりにぼんやりとする。時代も、男性に求められているものも違う。ただ、ぼんやりとする。暗い中でも視線が有効になっている。ぼくはうつ伏せの希美を見る。エッフェル塔からの眺めを楽しむように。パリは昼でも夜でも輝いている。希美自身の存在がおそらくそうなのだろう。セーヌとシテ島。
ぼくは再開する。過去に誰かがその機会を奪われ、未来にぼくも失い、誰かが再開するのだ。一時的なものにこそ宝が含まれているのだ。過去に金脈を発見して、ゴールド・ラッシュというブームがある。アメリカン・フットボールのチームもうまれる。ぼくは何を考えているのだろう?
ぼくは下山する。ゆっくりと下山する。一気にかもしれない。急斜面を。希美も下山する。ゆっくりと下山する。再度、彼女は登山靴を履きはじめる。ぼくは冷たい飲み物を探す。冷蔵庫を開ける。冷蔵庫も開けていいのは自分だけなのだ。権利というのは所有という概念と引き換えのものなのだ。友人の家の冷蔵庫を勝手に開けることもむずかしい。ぼくはどうでもいいことばかり考えている。
ぼくは行動を思考に置き換え、さらにその思考の過程と答えらしきものを言葉にしようとしている。その最中にも刻々と思考自体が変化してしまう。ぼくは十六才のあの少女の一日を捕まえきれなかった。そうしていたら、どんな変化が訪れ、そのことと、付属するあらゆるものを執拗に言葉にする義務を自分に課したのだろうか。
文章にしようということが土台無理なのだ。十六才のぼくの世界は文字では納まらないし、埋まりきらない。行動を逐一表現するのは文字というのは機能として優れていない。感情の連鎖と絡まり具合には合致か釣り合いのようなものがとれ、喪失の綿々たる嘆きにも合う。歓喜には即時性という一点のことだけでも向かない。記録や、印刷、保存という過程が間に挟まれば、この歓喜も消えてしまうのだ。ベルリン・オリンピックの当時ですら映像は動きというものを記録するのに向いているのだ。躍動感もあれば、身体という外面へ滲み出すさまざまな内面の奥の側の感情もともなって表情にあらわれる。引きずり出される疲労や焦り。だが、ぼくには言葉しか与えられていない。二十六文字以上はあるが、組み合わせの確立はそう変わらない。
ぼくは動いている。同時に耳のそばで立てられる音を聴いている。過去にこの哀切なる響きを聴き、未来にも吐息が混ざった音を耳にする。誰かが耳にする。音は刃向わない。情報に忠実である。ぼくはあの蓄音機の前の犬のように希美の声で安心する。
目をつぶる。五感が鋭くなるよう神経を落ち着かせ、かつ荒立てる。女性の年齢により身体の温度が変わった。いや、人々にもよる。毛髪ですら愛着のもととなるのだ。
ぼくは文というものに期待をかけ過ぎ、そのために失敗する。行動するひとはメモすら鬱陶しがる。戦場カメラマンはカメラだから優位に立てるのだ。ぼくには思考という回路を移し替えるのに、記号でもなく設計図のようなものでもなく、まどろっこしい文しか与えられていない。時間の経過が不可欠なものなのだ。当事者から一歩、退くとより緊密になれる媒体。ぼくは当事者の資格をおそれている。
文章なんて所詮、ブドウ酒美味しゅうございました、に尽きるのだ。
本人がいなくなった後としては。
感謝とあきらめ。分際をわきまえる。身の程を知る。
ぼくは冷たいもののフタを閉める。希美にもフタを閉める。
シテ島という中洲。セーヌはそこを分岐点として両側に分かたれる。またひとつになる。閉じられる足。浮かんだいくつもの言葉。空中で舞い散り、網のなかに入れられなかった言葉。捕獲されない賜物。生まれなかった子孫。生まれたよろこび。誰かが得る可能性としてのよろこび。前倒しの限界。
ぼくは希美を抱きしめている。暗い中でも、当然、希美だ。
過去におそらく誰かがそうした。未来にも同じように、ぼく以外の誰かがするだろう。
頂上に向かう登山者が途絶えないように。あとを絶たないように。ゴミはもちかえるようにという看板が目立つ。その看板を登山者のためにわざわざ突き立てたものは誰だろう?
「引きも切らずに。引きも切らさない?」
「え?」
「あ、ごめん、ひとりごと」
「ねえ、集中してよ」笑い声を過分に含んでいった。
永続性も永遠もぼくの手のひらからこぼれる。どうやっても水をとどめるには手は形状として向いていない。手の上向きの問題だけではなく、同じ体勢も、ずっとずっとはつづけられない。同時に並行させないということが大人のルールであり、最低限のエチケットでもあった。それさえ守れば何事も許される。漠然とした提示だが、そもそも誰が許す側で、誰が許される側なのか、厳然とした取り決めもない。ただ、暗黙にそういうものなのだろう。誰と誰との暗黙かも明確にするのは抜きにして。
ぼくは中断している。過去に誰かがそうした。未来にもおそらく誰かがそうするであろう。その合間に、昔の洋画なら白黒の画面でもはっきり分かる紫煙と表現するのが似合う漂い往くものがハンサムな主人公の口から吐かれていることだろう。ぼくは、代わりにぼんやりとする。時代も、男性に求められているものも違う。ただ、ぼんやりとする。暗い中でも視線が有効になっている。ぼくはうつ伏せの希美を見る。エッフェル塔からの眺めを楽しむように。パリは昼でも夜でも輝いている。希美自身の存在がおそらくそうなのだろう。セーヌとシテ島。
ぼくは再開する。過去に誰かがその機会を奪われ、未来にぼくも失い、誰かが再開するのだ。一時的なものにこそ宝が含まれているのだ。過去に金脈を発見して、ゴールド・ラッシュというブームがある。アメリカン・フットボールのチームもうまれる。ぼくは何を考えているのだろう?
ぼくは下山する。ゆっくりと下山する。一気にかもしれない。急斜面を。希美も下山する。ゆっくりと下山する。再度、彼女は登山靴を履きはじめる。ぼくは冷たい飲み物を探す。冷蔵庫を開ける。冷蔵庫も開けていいのは自分だけなのだ。権利というのは所有という概念と引き換えのものなのだ。友人の家の冷蔵庫を勝手に開けることもむずかしい。ぼくはどうでもいいことばかり考えている。
ぼくは行動を思考に置き換え、さらにその思考の過程と答えらしきものを言葉にしようとしている。その最中にも刻々と思考自体が変化してしまう。ぼくは十六才のあの少女の一日を捕まえきれなかった。そうしていたら、どんな変化が訪れ、そのことと、付属するあらゆるものを執拗に言葉にする義務を自分に課したのだろうか。
文章にしようということが土台無理なのだ。十六才のぼくの世界は文字では納まらないし、埋まりきらない。行動を逐一表現するのは文字というのは機能として優れていない。感情の連鎖と絡まり具合には合致か釣り合いのようなものがとれ、喪失の綿々たる嘆きにも合う。歓喜には即時性という一点のことだけでも向かない。記録や、印刷、保存という過程が間に挟まれば、この歓喜も消えてしまうのだ。ベルリン・オリンピックの当時ですら映像は動きというものを記録するのに向いているのだ。躍動感もあれば、身体という外面へ滲み出すさまざまな内面の奥の側の感情もともなって表情にあらわれる。引きずり出される疲労や焦り。だが、ぼくには言葉しか与えられていない。二十六文字以上はあるが、組み合わせの確立はそう変わらない。
ぼくは動いている。同時に耳のそばで立てられる音を聴いている。過去にこの哀切なる響きを聴き、未来にも吐息が混ざった音を耳にする。誰かが耳にする。音は刃向わない。情報に忠実である。ぼくはあの蓄音機の前の犬のように希美の声で安心する。
目をつぶる。五感が鋭くなるよう神経を落ち着かせ、かつ荒立てる。女性の年齢により身体の温度が変わった。いや、人々にもよる。毛髪ですら愛着のもととなるのだ。
ぼくは文というものに期待をかけ過ぎ、そのために失敗する。行動するひとはメモすら鬱陶しがる。戦場カメラマンはカメラだから優位に立てるのだ。ぼくには思考という回路を移し替えるのに、記号でもなく設計図のようなものでもなく、まどろっこしい文しか与えられていない。時間の経過が不可欠なものなのだ。当事者から一歩、退くとより緊密になれる媒体。ぼくは当事者の資格をおそれている。
文章なんて所詮、ブドウ酒美味しゅうございました、に尽きるのだ。
本人がいなくなった後としては。
感謝とあきらめ。分際をわきまえる。身の程を知る。
ぼくは冷たいもののフタを閉める。希美にもフタを閉める。
シテ島という中洲。セーヌはそこを分岐点として両側に分かたれる。またひとつになる。閉じられる足。浮かんだいくつもの言葉。空中で舞い散り、網のなかに入れられなかった言葉。捕獲されない賜物。生まれなかった子孫。生まれたよろこび。誰かが得る可能性としてのよろこび。前倒しの限界。