16歳-41
ひとつのイメージ。
ノースリーブの彼女。黄色い服。
コマーシャルに与えられるのはたったの十五秒というわずかなもので、集中力が途切れたための無関心さや、他にもさまざまな制限と制約のなかで挑まなければならない勝負だ。映像や音楽などのあらゆるものを駆使して印象をのこさなければならない。彼女がもし、きらびやかな製品ならば、ぼくにきちんと植え付けられた。その短い時間で。同じ秒数で。夏の夜の喫茶店のドアを開け、店内に入ってきた瞬間で決まった。潜在された意識に訴えかけ、ぼくは購買をすすめられる。内なる衝動から。不本意に違いないが、わずかな間で手放してしまったとしても、その魅力が減る訳でもない。ぼくはそのためにローンを払っている。いつ、支払が終わるという最終の期限も、当人のことなのに分かっていない。
ぼくの悲しみはローンと等しいのだ。定額をずっと納めている。債務があり、本当はどこに払っているのかも分かっていなかった。だが、元をただせば、あのわずかな時間に決定権があった。
ぼくは分析している。自分のこころを粉々にして、選り分けている。それは二十数年後だからできることであり、当時は理解していない。ただ、積もりに積もっている借金を払うのに必死になっているようだった。これを返さないことには未来を、新しい未来を構築できないのだ。
減っているのか増えているのかも考えられない日々。ぼくのこころをあのように奪ってくれる機会と次の相手を切に望んでいた。だが、同じことは繰り返されるのだ。ヤドカリが住まいである貝を微妙に変えていくだけなのだ。総体としては、結局はヤドカリのままだった。そして、別の債務がかさむ。
コマーシャルはそれでも流れつづける。たくさんの魅力あるもので世の中は満ちている。目に飛び込むものはコマーシャルだけに限定されていない。町角のショーウインドウの中に。雑誌にまぎれた広告のなかにも。
しかし、ぼくはあのローンすら支払っていることを正当だと思っていた。魅力もあり、ぼくの越えるべき問題点でもあり、いつか、このこと自体が昇華され、何事かに結実されるのだ。
これも二十数年後だから冷静に分析できているのであって、あのときは、正直にしんどかった。美しいものがショーケースにまだあることを知っている。それを再度、手にする権利はぼくにはないのだ。同時に簡単に抜け出すこともぼくは辞めなかった。執拗さにとらえられ、結局は辞めなかった。
ほんの数秒の残像がぼくの宝物になる。誰も奪えない。ぼくのこころの奥の隔離された部屋に居場所がある。これを手つかずの状態のまま、いつまで、きれいに維持できるのであろうか。ぼくは矛盾をはらみながら永続してほしいと思っている。いつまでも。年老いても。別の誰かを仮に、不本意に好きになってしまっても。普通、これを初恋と、ほとんどのひとは定義するのかもしれない。その可憐な表現とは程遠いぐらいに、ぼくの気持ちは熱いものだった。ひりひりするほどの、火傷の後遺症のような不快感が生じているとしても美化する必要があるのだろうか。
あの数秒が逆になかったとしたら。
あの日、彼女は用ででかけていたり、夏休みの旅行で不在であったり、そもそも、来たくなかったりすればぼくの運命も変わっていた。火傷の、この傷もない。だが、あの姿を幻で終わらせるのも、もったいないことだった。コマーシャルは十五秒ながら、普段の生活を切り取ったものより異常に美しく、または、インパクトを与えられる可能性を有しているのだ。ぼくのこころは確実に打撃される。あの数秒はだからぼくの所有物であり、大げさにいえば財産だった。
ほかに匹敵する瞬間がぼくにはどれほどあるのだろうか。学校のソフトボールの大会でヒットが遠くまで飛んだこと。運動会で数人を追い越したこと。みな、ぼくの淡い物語の一部となった。身を焦がすまでには、どれも至らず、思い出す頻度も少なかった。
いずれ、ぼくは黄色い服を着た彼女を忘れてしまうようなことがあるのだろうか。別の女性がその地位を簡単に奪ってしまうのだろうか。ヒット曲が生産され、数か月で入れ替わるように。
だが、ずっと印象にのこるのも、鮮明さを帯びつづけるのも、きっとわずかな曲だけだった。おそらく、彼女も絶えず先頭にいる。ゴールは切らないかもしれないが、スタートは彼女がいたから成り立ったのであり、巻き起こったのだ。スタートはうまくいったが、それは長持ちしなかった。その理由はぼくにあるのかもしれず、やはり、あっけなく終わったからこそ美を生存させる仕組みが魔法のように含まれていったのかもしれない。
十五秒を思い出すことを何度もすれば、いつか分になり、時間になった。水増しというずるい方法ではない。一コマ一コマの映写をつづける映画のように、ぼくは自分の特等席でその時間を堪能する。胸は焦げなかった。火傷のあとものこっていない。別の誰かは、別の映画になったため、オリジナルのフィルムはそのまま保存されて生き延びた。ぼくの作為も信念もなく、勝手に生き延びた。定義するなら、初恋、という言葉でしかあらわせそうにない。だが、その言葉が伝えるものとは雲泥の差がある。そう解釈したり、わざわざ分けようと思っているのは自分だけかもしれないという気持ちも完全には拭えないでいる。もちろん、拭わなくてもいいのだけど。
ひとつのイメージ。
ノースリーブの彼女。黄色い服。
コマーシャルに与えられるのはたったの十五秒というわずかなもので、集中力が途切れたための無関心さや、他にもさまざまな制限と制約のなかで挑まなければならない勝負だ。映像や音楽などのあらゆるものを駆使して印象をのこさなければならない。彼女がもし、きらびやかな製品ならば、ぼくにきちんと植え付けられた。その短い時間で。同じ秒数で。夏の夜の喫茶店のドアを開け、店内に入ってきた瞬間で決まった。潜在された意識に訴えかけ、ぼくは購買をすすめられる。内なる衝動から。不本意に違いないが、わずかな間で手放してしまったとしても、その魅力が減る訳でもない。ぼくはそのためにローンを払っている。いつ、支払が終わるという最終の期限も、当人のことなのに分かっていない。
ぼくの悲しみはローンと等しいのだ。定額をずっと納めている。債務があり、本当はどこに払っているのかも分かっていなかった。だが、元をただせば、あのわずかな時間に決定権があった。
ぼくは分析している。自分のこころを粉々にして、選り分けている。それは二十数年後だからできることであり、当時は理解していない。ただ、積もりに積もっている借金を払うのに必死になっているようだった。これを返さないことには未来を、新しい未来を構築できないのだ。
減っているのか増えているのかも考えられない日々。ぼくのこころをあのように奪ってくれる機会と次の相手を切に望んでいた。だが、同じことは繰り返されるのだ。ヤドカリが住まいである貝を微妙に変えていくだけなのだ。総体としては、結局はヤドカリのままだった。そして、別の債務がかさむ。
コマーシャルはそれでも流れつづける。たくさんの魅力あるもので世の中は満ちている。目に飛び込むものはコマーシャルだけに限定されていない。町角のショーウインドウの中に。雑誌にまぎれた広告のなかにも。
しかし、ぼくはあのローンすら支払っていることを正当だと思っていた。魅力もあり、ぼくの越えるべき問題点でもあり、いつか、このこと自体が昇華され、何事かに結実されるのだ。
これも二十数年後だから冷静に分析できているのであって、あのときは、正直にしんどかった。美しいものがショーケースにまだあることを知っている。それを再度、手にする権利はぼくにはないのだ。同時に簡単に抜け出すこともぼくは辞めなかった。執拗さにとらえられ、結局は辞めなかった。
ほんの数秒の残像がぼくの宝物になる。誰も奪えない。ぼくのこころの奥の隔離された部屋に居場所がある。これを手つかずの状態のまま、いつまで、きれいに維持できるのであろうか。ぼくは矛盾をはらみながら永続してほしいと思っている。いつまでも。年老いても。別の誰かを仮に、不本意に好きになってしまっても。普通、これを初恋と、ほとんどのひとは定義するのかもしれない。その可憐な表現とは程遠いぐらいに、ぼくの気持ちは熱いものだった。ひりひりするほどの、火傷の後遺症のような不快感が生じているとしても美化する必要があるのだろうか。
あの数秒が逆になかったとしたら。
あの日、彼女は用ででかけていたり、夏休みの旅行で不在であったり、そもそも、来たくなかったりすればぼくの運命も変わっていた。火傷の、この傷もない。だが、あの姿を幻で終わらせるのも、もったいないことだった。コマーシャルは十五秒ながら、普段の生活を切り取ったものより異常に美しく、または、インパクトを与えられる可能性を有しているのだ。ぼくのこころは確実に打撃される。あの数秒はだからぼくの所有物であり、大げさにいえば財産だった。
ほかに匹敵する瞬間がぼくにはどれほどあるのだろうか。学校のソフトボールの大会でヒットが遠くまで飛んだこと。運動会で数人を追い越したこと。みな、ぼくの淡い物語の一部となった。身を焦がすまでには、どれも至らず、思い出す頻度も少なかった。
いずれ、ぼくは黄色い服を着た彼女を忘れてしまうようなことがあるのだろうか。別の女性がその地位を簡単に奪ってしまうのだろうか。ヒット曲が生産され、数か月で入れ替わるように。
だが、ずっと印象にのこるのも、鮮明さを帯びつづけるのも、きっとわずかな曲だけだった。おそらく、彼女も絶えず先頭にいる。ゴールは切らないかもしれないが、スタートは彼女がいたから成り立ったのであり、巻き起こったのだ。スタートはうまくいったが、それは長持ちしなかった。その理由はぼくにあるのかもしれず、やはり、あっけなく終わったからこそ美を生存させる仕組みが魔法のように含まれていったのかもしれない。
十五秒を思い出すことを何度もすれば、いつか分になり、時間になった。水増しというずるい方法ではない。一コマ一コマの映写をつづける映画のように、ぼくは自分の特等席でその時間を堪能する。胸は焦げなかった。火傷のあとものこっていない。別の誰かは、別の映画になったため、オリジナルのフィルムはそのまま保存されて生き延びた。ぼくの作為も信念もなく、勝手に生き延びた。定義するなら、初恋、という言葉でしかあらわせそうにない。だが、その言葉が伝えるものとは雲泥の差がある。そう解釈したり、わざわざ分けようと思っているのは自分だけかもしれないという気持ちも完全には拭えないでいる。もちろん、拭わなくてもいいのだけど。