爪の先まで神経細やか

物語の連鎖
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11年目の縦軸 38歳-35

2014年07月08日 | 11年目の縦軸
38歳-35

 永続性を信じられなくなったということが、ぼくの身に受けた罰だった。

 例えるなら、八月六日と九日のまさに神々しい光を浴びたふたつの都市のやる瀬ない住人のように。

 不運をその場しのぎでやり過ごし、幸運の深い井戸も乾いたままでよく、なるべくなら新たな水脈を発見した時点で自分の手で埋めた。深さやコンコンと湧き出る水など、もうぼくにはいらなかったからだ。また、自分というものに拘泥し過ぎなければ、どれも、耐えられそうな不運ばかりであったのも事実だ。

 ぼくは嘘が上手になっている。文字というものは信ぴょう性を与えられやすいものだ。人間から希望を奪い取ってしまえば、そう長くは生きつづけられないのだから、嘘に違いない。

 ぼくは目の前にいる絵美を眺める。この女性が希望の役割をまったく引き受けていないと誓えるだろうか。ある種の魚は放流をふくめてフィッシングなのだ。そのままの姿で、そのままの場所に帰す。

 すべては一時的な所有に過ぎないのだ。

 失うと仮定して、まだぼくには悲しむ気持ちがあるのか試してみたくなる。もしかしたら、悲しみのスイッチがとっくの前に切れてしまったのかもしれない。直す機会も巡ってこなかったので、そのままになっている。運よく使われなかった倉庫の奥の防災用品のように。乾パンの期限も切れ、腐りそうもない水も腐っている。ひとは、この年になって、あまり恋人と別れたりもしないのだ。二十代の前半から、もう経験しないひとだっている。ぼくは成熟や老いを無意識化で遠ざけるために、対価としてこれらを体験しなければならない。しかし、そのスイッチも摩耗した。悲しむ元気があるひとも逆説的にうらやましく思う。ある女性のささいな感情の揺れに一喜一憂できる豊かさを。

 その分、楽しさが減るかといえば、そういうものでもなかった。絵美と出会う前より、確かにぼくは機嫌も良かったし、世界観も美しいものに化けていた。絵美がもたらした恩恵であり、その結果、ぼくから奪われたものは比較すれば何もなかった。

 だが、永続性という考えはもてない。ひとはなぜ、それらに信頼が置けるのだろうか。無心に。ふたりの間に子どもがいて、永続性の一部を肩代わりするために、変体して生き延びるのか。家のローンや、車の月々の支払いが元となって寄り添い、永遠につづくのだろうか。ぼくは敢えて将来を潰そうと願っているのだろうか。

 多分、絵美は明日もきれいなままである。あさっても、来年も。ぼくは、それを確認する機会がもてるかもしれない。他の別の男性がその楽しみを承継するのかもしれない。こう考えると、ぼくの愛の分量こそ、タンクのなかで減少しているのだろう。燃料切れ。十一年前と二十二年前に空吹かしをたくさんしてしまった所為なのだろう。節約も、手加減をすることも考慮しなかった。それほどに夢中であった。あれを毎年することは、ワールド・シリーズを勝ちつづけることと等しかった。せめて、ワイルド・カードぐらいの愛をと思う。文字の信ぴょう性をぼくは誤解している。

 永続性がないということは絶対がないと同じであるのだろうか。であれば、ぼくには絶対などとっくになかった。絶対的な拘束を求める愛も、絶対という誓いも、絶対という希望も。ぼくだけがないのではない。大人はだいたいは途中でなくすのだ。そして、完全なる微笑みを捨て、眉間にしわがよった。不満は絶えず浮かび上がり、解消する力も失っていく。

 ぼくは思考のためだけに思考している。ぼくを失って困らなかった数人の女性のために、愛を語っているのだ。なんと不毛なことだろう。引き取り手のない宝物は、ぼくにとってだけ宝物だったのだ。金(ゴールド)とかある種の紙幣とかの共通の価値など、ぼくにはまったくない。子どものおもちゃのお金のようにふたりだけで通用していたものなのだ。しかし、共通さなど入り込ませないからこそ、貴さも逆にうまれた。

 ぼくは書くことだけのために、異性と交際し、ある面では破れさせたのだ。ふすまや障子を貼りかえる作業が、つまりはこの物語なのだ。永続など真にあったら、この物語も消滅する。絶対も永遠もないからこそ、ぼくはすすめられている。これも、またなんと不毛なできごとだろう。

 絵美はきっと、明日も美しいのだろう。ぼくが保証する。ぼくの推薦の書類をもって次の会社の面接に向かうように、新しい男性のもとに向かえばいいのだ。これが、八月七日と十日のぼくだった。そして、十六日に後悔する。

 後悔しても絵美は美しいだろう。だから、ぼくは後悔するのだ。後悔だけは永続性をもっている。彼らの主要な成分は、継続性でもあった。

 永続を信じなくなった自分は、後悔の継続ということに縛られている。意外なものに足をすべらせる結果となる。どんなに注意していても転ぶときは転ぶのだ。立ち上がることもできるし、転がった姿勢のまま憤慨を抱きつづけることもできる。だが、さっと立ち上がった方が格好いい。そして、見栄も永続する。こんなつまらない人間の見栄など、大して値打ちもないはずなのに。