爪の先まで神経細やか

物語の連鎖
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11年目の縦軸 38歳-33

2014年07月02日 | 11年目の縦軸
38歳-33

 訊かれてもいないのに絵美は自分の相手の人数を告げた。外国への旅行ならば、ちょっと多いなという数だった。ぼくの正直な反応としては嫉妬も起こらない代わりに、興味も湧かなかった。それより、ぼくはその数に匹敵する事柄ならば海外に旅したことの方が楽しそうだなと深い考えもなく思った。ぼくの対決した、あるいは共闘した相手は絵美の口から出た数字と比較すればいくらか少なかった。とはいえ大食漢の胃袋をあまりうらやましいのと思わないように、数量やグラムの分量で計る必要も、判断材料にする気もなかった。

 彼女はぼくの人数をさらっとした問いかけで訊きたがった。ぼくは答えるかどうか一瞬だけ迷う。同じ土俵にあがることもないが、会話というのはこういう無駄なやりとりを繰り返すことだということも経験上、知っていた。それさえ拒否するほど無神経でも無頓着でもなかった。

 さらに絵美は自分のはじめてのときの年もいった。またぼくはひらめくというような形で少し遅いなと単純に感じた。別にレースや競争をしている訳でもない。100メートルのタイムを10秒でどうにかこうにか切るかの問題でもない。もっと耐久的な話なのだ。少なくても数十年を費やす作業なのだ。ゴールはもっと先だ。しかし、絵美はスタートが遅れながらも立派に後半伸びて追い上げた。

 ぼくは大人になりはじめる頃から日常的に密接した事柄になり、ずっとつづけることを考えた。歯はもっと小さなときから毎日みがいている。腕時計をすることも大人になりかけの頃が開始の時期だろう。子どもは深い眠りから揺すり起こされ、学校の通学の時間さえ後押しされる。あ、そうだ、ひげを剃ること。ネクタイを結ぶこともその部類かもしれない。すると、同じ作業でもメーカーを変えたりして、ひとつの製品や種類をずっと継続させることは不可能なのだと思いはじめた。何年かに一度は買い換える。現物を手にしたり、結んでいる間は気にもしていない。ブランドも忘れている。大事にしないということではない。ただ、しっくりきてるなという安心感があればそれで充分だった。

 パスポートに押される外国の門を通過した刻印。絵美のものにぼくのスタンプもある。斜めに押され、端はかすんでいる。別に契約書のように鮮明に押す必要もない。係員はきょうの夕飯や妻とのケンカと仲直りのプレゼントのことなどを考えながら、適当に押しただけなのだ。流れ作業の一部として。

 大人になってから。またはなりかけの具体的な事項として。思考の飛躍を戒めなければならない。

 すると腕時計というのは自分を管理することの象徴なのか。遅刻をしないように学校やバイトや仕事に行き、約束した相手との時間に間に合うように向かう。仕事の重要な約束ならば、あとで大きな金額に化け自分の成績に反映するかもしれない。大元の目覚まし時計も個人各々の所有になる。

 ネクタイは通勤電車に耐えられることの象徴のようだった。雨でも台風でも、電車の事故でさらに満員のぎゅうぎゅう詰めの車内に身体をねじこめることができるかを問われるのだ。

 大人の毎日の勤勉なる営み。その大人には、その大人だからこそ解放も必要だ。快楽も捨ててはならない。絵美にはその相手が必要だったのだ。この数とさらに別の数を掛けた分だけの。

 ぼくは数だけにこだわれない。相性と趣味がある。

 好きというのは相手の何が好きなのだろう。ぼくの内部の何が好きと告げているのだろう。ファンファーレのように。ぼくは身体を差し出す。その差し出した人数を多いとか少ないと比較している。

 互いに提案し合う好みもある。容姿や考え方などとは別のところの趣味が。

 ぼくは古着のジーンズに愛着をもつ。所有は買った時点からはじまるが、その印象と歴史は見たこともない誰かがどこかでつくった。年月が経ち、丁度いい風合いと色合いになる。ぼくは履きつぶす。捨てるまでがぼくのものであり、ゴミの収集時間前に置いた時点でぼくの所有権は消える。会社に行く。満員電車に詰め込まれる。

 数だけが厳然と証明するものがある。ある種の通帳の残高。テレビのチャンネル。ラジオの周波数。

 胸の大きさは数字であり、かつ数字ではない。

 感触の数値化。

 ぼくは数字にもてあそばれる。ぼくはひとつのスタンプに過ぎない。確固たる個性など、夜のひとときに主張してもあまり通じないものなのだろう。この快楽もぼくの所有であり、同時に絵美の所有でもあった。混ざり合ったものがふたりの捨てるものでもある。その所有にはちっぽけな永続性もない。また同じことを繰り返さなければならない。定期的に。

 訊かれる前から絵美はその数字を述べたのだ。十数年前の彼女ははじめてそのことを知る。ぼくの二十二年前をきちんと葬ることにしよう。映写の途中で切れてしまった映画の貴重なフィルム。そのつづきは別の男性がつないだ。ぼくはつづきをどこかの倉庫の奥で探す。その探すという作業をしないでつづきを引き継いでも良かったのだ。選択というのはむずかしい。もっとも困難なものである。その困難と毎日、直面している。間違わない方がめずらしい。目覚ましが鳴ってもまた眠るのだ。もう少し、自分の採点を甘くしてもかまわないのかもしれなかった。